唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分義(15)

2014-11-28 21:22:27 | 初能変 第二 所縁行相門
 前回までに、三分説をみてきましたが、護法菩薩はこの三分の奥になお三分を成り立たせる証自証分が有ると説かれています。非常に深くて手におえないところではありますが挑戦します。というより知りたいです。ただそれだけの欲求です。
 「又心心所を、若し細かく分別するに応に四分有るべし。三分は前(サキ)の如し。復第四の証自証分有り。」(『論』第二・二十七左) 心・心所を細かく整理し分類すれば、四分があることがわかる。三分は既に説いたが、その奥に証自証分が有るのである。
 次にその理由が述べられます。
 「此れ若し無くば、誰か第三を証せん。心分をば既に同なるを以て皆証すべきが故に」(『論』第二・二十八右) 若し証自証分が無かったならば、誰が第三目の自証分を自覚するのか。自証の証は証明する、自覚するという意味です。心分は、心の一部分という意味で、相分も心の一部分ですし、見分も心の一部分になります。見るのが見分の働きですが、見分をもって認識が成り立つのですね。見分が相分をみているという構造です。そうしますと、この見分を自覚する働きはどこにあるのかというと、相・見の要である自証分になるのです。識体です。八識でいえば、八つの心王が自証分なのです。そして自証分を見ている働きが証自証分になります。自証分が見ていることを、さらに証明する働きです。これをの能証といっています。三量でいえば、自証分・証自証分は現量になります。
 ここからですね、前回までに少し述べました、所量・能量・量果の三量と、新たに説かれてきます、現量・比量・非量の三量(現比非(ゲンピヒ)の三量といわれています。)
 自証分と証自証分の関係は、因果更互関係ですね。自証分は相・見に対して量果ですが、証自証分に対しては因である能量になり、証自証分が量果になります。しかし、量果である証自証分が因(能量)となり、自証分が所量・量果という関係です。この更互関係があって、第五の証自証分が必要ではないと結論づけています。自証分が能量である場合は、証自証分は所量であり、量果として自証分を変現する。この自証分・証自証分は現量であるので、こういう関係が成り立つのです。
 次の科段より、三量分別が示されます。