唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 四分説 (6) 三分説 (1)

2014-11-10 22:34:45 | 初能変 第二 所縁行相門
 三分を解す。
 三分は、これまでに見て来ました二分説ですね。その二分説の上に自証分を立て、自証分が識体であって、識体が転じて相分・見分になると説いてきます。
 そして先ず、説一切有分の教説と比較しながら、相分・見分・自証分の在り方を説明します。
 大乗及び正量部以外は、心識に離れて別に心外の法が有ると執していることを述べます。
 「識に離れたる所縁の境有りと執する者、彼が説く外境は是れ所縁なり。相分を行相と名づく。見分は事と名づく。是れ心心所の自体の相なるが故に。」(『論』第二・二十七右)
 「心外の境は是れ所縁なり。心の上に所縁に似る相有るを行相と名づく。体は即ち見分に摂するが故に。大乗の相見分を以て彼の宗に即して名を立つるのみ。」(『述記』第三本・四十四右)
 客観的に事物が存在すると説く有り方と、唯識が説く説き方とを比較して相分・見分・自証分を明らかにしてきます。
 本科段は、唯識に達していない人たちの解釈を挙げます。代表者として説一切有部の教説が挙げられてきます。
      外境 ― 所縁(認識対象)
      所縁に似る相 ― 行相(能縁心の上に所縁に似た相を行相と名づける)― 能縁の行相を相分と名づける。
      能縁 ― 見分(能縁を事と名づく)
      よって、見分の外に別に自体分を立てない。
      所縁  ―  外境
             行相 (相分)     〉 説一切有部の主張
      能縁 〈 
             事  (見分)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      所縁  ―  相分
             行相  ―  見分
      能縁 〈               〉 唯識 (大乗の立場)
             事   ―  自証分

初能変 第二 所縁行相門 四分説 (5) 二分説 (5)

2014-11-10 21:00:31 | 初能変 第二 所縁行相門
二分説の証明が出されます。教証ですね。『厚厳経』が引用されます。
 『契経に説くが如し。
   一切は唯だ有覚のみ、所覚の義は皆無し。能覚と所覚との分いい、各自然にして而も転ずと云う。」(『論』第二・二十九左)
 『厚厳経』に説かれている。一切は唯識である、と。所覚(所縁=相分)の相は識がつくりだしているものであるから、所覚の義は無いものである。しかし、認識が成り立つのは、能縁と所縁、即ち見分と相分があって、各々自然にして転じているのである」、と。
 『述記』は「一切唯有覚 所覚義皆無」というのは、内心は有であり、外境は無いもである、と説き、「能覚所覚憤 各自然而転」は、自の内心の見・相二分有ることを明らかにしている。」と説明しています。相は、相似ですね。能縁・所縁に似た相が現れている。亦相は相応ですね、和合している。能縁と所縁が相応して認識が成り立っていることを先ず明らかにしているのです。つまり二分が有ることをですね、先ず証明しているのです。そして二分の背景には自証分が有るという三分が説かれます。
 相似ということが大事なポイントですね。識が外境に変化するのではなく、外境に似て現ずる、変現する、体は内にある。変現しますから、間違いを起こすのですね。恰も外境が実在するかのようにですね。しかし、そうではないのですね。認識しているような外境は存在しないのですね。各々の心が作りだした虚像なわけです。その証拠に、各々の認識というか、同じ対象見ていてもですね、受け取り方は千差万別でしょう。そこで「似」という言葉が使われるわけです。
 「内識転じて外境に似る」
 これが難陀が主張した二分説になるのですね。素朴な認識論です。難陀の説では、内識が見分、これが能転変、所転変は外境で相分。外境に似て現じたものは識の相分である。所転変ですね。即ち、一切は識転変、唯識であるという。すべては識が変化したものにすぎないと云う。相分は識の所縁ですが、所縁は識の所変であるのですね。
    種子生現行。種子は因、現行は果、生現行、ここに「似」がいわれます。生現行は、外境に似て現ずる、識転変ですね。此の上に我・法が仮立されているのです。
 「由仮説我法 有種種相転 彼依識所変 此能変唯三」
と、初めにでてきました。「仮に由って」と所由を示していますね。問答形式ですが、我法と説かれているのは仮説である、と。実体として我法有りと説かれているのではないということです。
 「内識所変の似我似法は、実の我法の証に有りと雖も、然も彼に似て現ずるが故に、説いて仮と為す」、と。体は識。所変の我法は依他起、縁に依って起ったものではあるが実の我、実の法ではない、似て現じたものである。似我似法の所依は、識所変であると答えられてあるのですね。我法とは、我法の依って立つところでが明らかにされているのです。「彼」という一字で答えられています。
 私たちが、私といっているのは、私という実体があるのではなく、仮にですね、「私」と云っているに過ぎなく、私は、識が変化したもの、識所変であるということなのですね。「私」は依他起の存在であるということなのです。それをですね、「私」という実体が有るかのように錯誤をおかしているのですね。
 本識である阿頼耶識は無覆無記ですから、執着をする対象ではないのですね。依他起として見相二分を変現し、見相二分も依他起であるということになります。これが事実ということなのですね。すべてはただ識のみあり。事実を言い当てた言葉です。