非国民通信

ノーモア・コイズミ

コミュニケーション能力云々の補足

2013-11-10 22:45:54 | 非国民通信社社説

 職場になかなか強烈な「かまってちゃん」がいまして、オトモダチのそばを通る度に毎回、周りに聞こえるようにわざとらしくため息を吐いていくのです。邪魔だからヨソでやってくれないかな、と思うところでもありますが、まぁ他人がとやかく言うことでもないのでしょうか。で、昨今は猛烈に臭い柔軟剤が流行っているわけです。高残香タイプだか強残香タイプだか、製品によっては「ナワバリをもっと主張したい香りをもっと楽しみたい時は好みに合わせて使用量を増やして」 とか書かれているのもあるとのこと。そこで我らがかまってちゃんは、半年ほど前から激烈に柔軟剤を臭わせるようになりました。花粉症で鼻の調子が悪くても半径10m以内にかまってちゃんが近づけば、強烈な臭気で居場所が分かるようになりました。とりあえず私は、かまってちゃんが近づいたら空気清浄機を「強」にして「ちゃんと気づいていますよ」とサインを送ってあげているのですが、どうにも向こうに気づかれていないようです。

 少し前に、コミュニケーション能力とはなんぞやみたいな話を書きました。話のとっかかりとして、まずは「自信家とはなんぞや」と。結果を出しているときには自信を持てるけれど、結果が出ないときに自信を失ってしまうようでは自信家とは言えない、根拠などなくとも自信を持てるのが真の自信家である――そこからコミュニケーション能力を考えると、興味深い話題が上がっているときには話の輪に入って行けたとしても、どうでも良いような話には加われない、これではコミュニケーション能力があるとは言えない、そうではなく「内容のない話でも盛り上がれる」のが真のコミュニケーション能力強者であろうと、そんな風に書いたわけです。

参考、コミュニケーション能力の高い人、とは

 この辺の補足としまして「内容のない~」とはなんぞや、と考えてみましょう。ある人にとっては内容のない話でも、その話の輪の中にいる人にとっては違うのではと、そういう想定もあると思います。では何をもって「内容のない~」と捉えればいいのか、それは「一過性の流行」のごときものと考えると筋が通りやすいかも知れません。つまり世間の人々を少なからず追随させて止まない流行が巻き起こる一方で、あれだけ流行っていたはずのものが、いつの間にやら人々の記憶からすっかり忘れ去られてしまう、そういうことも多いはずです。内容のない云々とは、そういうものではないかと。

 そこで冒頭に挙げました、臭い柔軟剤です。世の中にはワキガの臭いが好きな人だっていますし、世界に目を向ければ納豆の臭いはおろか米を炊く臭いだって悪臭と感じる人の方が多いくらい、まぁ臭いの好みは人それぞれですけれど、流行の柔軟剤をガンガン臭わせている人の内、本当にあの臭いが好きで付けている人ってどれくらいいるのでしょう。柔軟剤の臭いの強さに気分が悪くなると訴える人も多いと伝えられていますけれど、ブームが去ったら「たまごっち」や「ナタデココ」のように急速に忘れられていくような気がしないでもありません。臭いが好きと言うより「流行そのもの」が好きな人も多いと思います。

 流行のファッションは、「モテないタイプの異性」からは総じて不評と言えるでしょうか。まぁ、本当に誰が――ちょっと変わった性癖の持ち主以外の誰が――見てもカッコイイものは時代の変遷にも耐えるもの、一過性の流行とはやはり「内容がない」故に一過性であり、それは「モテないタイプの異性」からは冷ややかな目で見られる運命を背負っているのだと思います。じゃぁ、モテないタイプではなく、異性にモテるタイプならどうなのか、ここでモテるタイプの人間は「流行に合わせる」という一種の「コミュニケーション能力」を発揮できる、そこが「モテ」と「非モテ」を分ける一要素になっているのではないかと、私は考えるわけです。

 流行が過ぎれば、その流行に浸かっていた人からさえ過去の遺物として切り捨てられてしまうような、そんな一過性の――言うなれば使い捨ての――流行があって、そんな虚しい流行のファッションには初めから関わろうともしない、「内容のあるものしか」評価しない/できない人もいます、一方で内容がなかろうとも「流行していることそのもの」に価値を見出す人もいるはずです。ここでコミュニケーション能力があるのは、いわゆる「モテ」に属するのはどちらでしょうか? いかに空疎なものであろうとも、流行に「乗れる」のは一種の能力であり、それは内容のない話でも盛り上がれる能力と同質の、コミュニケーション能力を測る指針であろうと思います。

参考、自分に鑑みるとこう思う

 以前にも軽く触れましたが、どこかで「(女性が男と)付き合うなら茶髪の男を選んでおけばハズレは少ない」みたいな話を見かけたわけです。少し昔の話ですけれど、今もそんなに変わらないような気がします。つまり茶髪が流行っている時代なら、茶髪の子を選んで置いた方が無難だと。茶髪の子の方が「周りに合わせる意識」が高い、付き合う相手に調子を合わせてくれる期待値が高い一方で、黒髪の子の方が「我が強い」もしくは「周りに合わせるのを面倒くさがる」傾向が強いだろうと考えられます。会社の採用でも「元は茶髪で、就職活動に合わせて黒髪に戻した」ぐらいの子が、最も「周りに合わせるタイプ」として面接官のウケも良かったのではないでしょうか。

 まぁ髪の色なんて一見するとどうでも良い、無価値なことですけれど、こういう無価値すなわち内容のない部分でこそ「周りに合わせる能力」が問われるケースも多いように思います。つまりこれもまたコミュニケーション能力の一つの指標であろう、と。会社で唱えられるお題目なんて、だいたいが下らないものばっかりです。本当に夢と意義のあるプロジェクトであれば、コミュニケーション能力不足の人だって付いてくることでしょう。しかし偉い人の思いつきに過ぎないゴミみたいな目標にも適応できる人材が必要であるのならば、「内容がなくとも盛り上がれる」「周りに合わせる能力が高い」人が求められるわけで、そういう点では昨今のコミュニケーション能力一辺倒の評価基準は変なところで整合性がとれているのかも知れません。

 

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