一昨日の記事の続きというか、思いついたことを少し。
詳細はリンク先を……というより常連さんでしたら一昨日読んだばかりかと思いますが、要は神奈川の県立高校で、「髪の色やピアス跡、つめの長さ、眉そりやスカートの長さ」などの非公開基準で志願者の合否を決めていたわけです。「いい子」が欲しいという動機があったようですけれど、ふ~む、「いい子」が欲しいのなら、果たしてその基準は目的に適うものだったのかな?と。
今どき茶髪=不良なんて思っているような前世紀の遺物としか呼びようのない人も多少はいるのかも知れませんが、現代の高校生だったら茶髪に眉剃りなんて珍しくない、むしろコミュニティーによっては純然たる多数派であり、染髪と眉剃りはリーマンにとってのネクタイと同じようなもの、いわば常識のようなものなのではないでしょうか。首から紐をぶら下げずに集金すれば「だらしがない」と非難されるのと同様、髪をウンコー色に染めておかないと白眼視されるような集合体もあるのではないかと思います。
「いい子」ってのは要するに、その社会の流儀に従っている人を指します。その社会で「マナー」あるいは「常識」などから外れた人が悪い子であり、はみ出さないのが「いい子」です。行為そのものの意味など関係ありません。ネクタイの有無が仕事の成否に影響することはなくとも、ネクタイを締めろと要求された場面でネクタイを締めるのが「いい子」であり、そこから逸脱するのは悪い子なのです。
そこで茶髪に眉剃りが一般的なコミュニティの場合、「いい子」とはそのコミュニティの標準的なスタイルを受け容れ、自らそれに倣っている人々のことです。不思議と周りが黒髪ばかりのコミュニティにおいて自分一人だけ茶髪にするのなら話は別ですが、周りが茶髪ばかりのコミュニティにおいて自分も髪を茶色く染める、少なくともこれは逸脱者の行為ではありません。そうではなく、「(自分を)周りに合わせよう」とする意識が高いだけです。
周りが黒髪ばかりなのに、自分だけ茶髪(元が黒髪の場合)にしようとするのは積極的な逸脱行為であり、その当否はさておき意志の強さは窺えます。逆に周りが茶髪ばかりなのに、髪を染めずに黒いままで通す人はどうなのでしょうか? 意志が強いから、それとも自分のスタイルを持っているからでしょうか? その可能性を全否定するつもりはありませんが、それよりもむしろ「怠惰」なのかも知れません。単に周りに合わせることが面倒くさい、周りの流行に追いつけない、だから髪を染めないままだとしたら? まぁ自分がそういうタイプだから言うわけでもありませんが。
一見すると「怠惰」な学生の方が管理しやすいものです。行動力に乏しく、反発される虞も小さいですから。ただ、その関係が成り立つのは管理する側の要求と怠惰な学生の姿が一致している間に限られます。例えば学生のうちは化粧を禁じる一方で、社会人になれば化粧が常識でありマナーになります(女性の場合ね)。このように、周りが要求する「こうしなさい」は遠からず二転三転するものです。こうなったときに「怠惰」な学生は周囲の朝令暮改に対応できるのでしょうか?
それよりも「周りに合わせよう」という意識の高い学生の方が、周囲の要求がコロコロ変わっても、容易に対応できる人が多いのではないかと思うわけです。会社の言うことなんてのは実にいい加減で空疎なものですが、「周りがそうしているから」という理由で自分も同じことをする、そういうタイプの人にとっては問題になりません。流行を追いかけるのが馬鹿らしいからと髪を染めない子よりも、周りの流行り廃りに振り回されることを苦にしない子の方が社会人としての適性は高い、だから「いい子」が欲しければむしろ茶髪の子を選んだ方がいいのかもよ、と。
周りに合わせようとする意識の高い人は、その「周り」が教師に反抗的であるうちは自身も教師に反抗的ですが、「周り」が何らかの権威(運動部の先輩だったり、会社の上司だったり、「国家」だったり)に服従するのが当たり前になったときは、自身もそれに倣うもの、そうなれば打って変わって従順な人の誕生です。そして周りの流行に付いていかない怠惰な子は、わざわざ教師に反抗したりもしないかも知れませんが、それは面倒だから「反抗しないだけ」であり、その動機は弱いものです。ならばなおさらのこと、茶髪が流行っていれば茶髪にしてくるような子の方が(骨の髄まで管理したければ)有望と考えることも出来ます。
ブックマークするのを忘れてしまいましたが、どこかで「(女性が男と)付き合うなら茶髪の男を選んでおけばハズレは少ない」みたいな話を見かけました。何となく、わからないでもありませんね。髪を染める人の方が「周りの要求に合わせよう」という意識が高いのなら、付き合う当事者である自分の要求に(考え無しに)応じてくれる可能性が高いでしょうから。逆にどういう理由であれ流行を追わず、髪も染めない人は周りの要求にも泰然自若、ひいては彼女の要求にもマイペースを貫く可能性が高いとすれば、黒髪ではなく茶髪を選ぶ方が無難ですよね。さて、問題の神奈川の高校は、本当に自分達の欲しがっている学生を採れたのでしょうか?
というわけで、非国民さんの言うこともうなずけますが、髪を染めてなくとも臨機応変で従順な子もいるわけで、校長が欲しいのはそんな子だったのかもしれません。そんな子が将来権利の否定や死刑にしろの大合唱、事前に決められたルールだから写真集出して退学は当然など「世間の常識」を振りかざすのではとうんざりします。今回の件も不合格は当然だと言う人は多いですが、上からの言いなりになっているといつかは自分たちも苦しい目に遭わされるはずですが、それがわからないのですかね。もっと、生きやすい世の中にしていこうよと。あるいは上の決まりに何も考えず従うことに慣れすぎて、「決まりを破った」時点で「悪い」と思考停止してしまってるのでしょうか。
権威に、お上の言うことにただ従順に従う。
こんな学生生活、こんな青春、面白くも何ともない。考えるだけでため息が出てきます。
そして「つまらねえや」という言葉を出てきます。
本当につまらないですね。
ずーっとあれは中学の先生がよく使う脅しだったんだろうと思ってたんですけど、多分何割かは本当だったんだなあと思いました。
私も髪は染めていないわけで、それだと高校までは(少なくとも身なり・服装の面では)肯定的に評価されていたわけですが、しかるに「社会人」として今までとは違ったファッションを求められる段になると、途端に不適応者に転落しました。たまたま周囲の要望と私の身なりが合致した時期があっただけで、決して「周りに合わせる能力」が高かったわけではないのだと痛感しましたね。
まぁ、茶髪は一つの典型ですが、そうでなくとも周りの二転三転するルールに対して、良く言えば柔軟に、悪く言えば考え無しに自分を合わせられる人もいますね。それが管理する側にとっての理想なのでしょうし、それが求められることで、より「自分なりの考え」が抑えつけられてしまうわけですが……
>怪人20面相さん
周りの友達に合わせて茶髪にする、高校の決まりだから黒髪に染め直す、実につまらない生き方です。ですが、こうした「つまらなさ」を苦にしない人こそ、今の環境への適応能力が高いのかも知れません。
>ルルさん
明文化はせずとも、暗黙の常識として、そういうものはあるでしょうね。成人しても「リクルートカット」なるそのものずばりの髪型が定められていたり、まぁ中学校的なものは会社でも続いていくわけです。
私も黒髪で通している一人です。
それは、わざわざ染める意味が分からないからです。
おそらくこういうタイプが、会社としては一番扱いにくいんでしょうねぇ。
周りが黒髪ばかりなら茶髪の子が「ひねくれ者」ですが、ところ変わって周りが茶髪ばっかりなら、むしろ黒髪の子の方が「ひねくれ者」に近いと言えますね。元の髪の色をそのままにしているだけなのか、意図があってそうしているかにも拠りますが、ともあれ「周りと一緒じゃ、つまんねぇ~」と言うような人は、管理する側からは嫌われますね……
>くみこさん
「わざわざ○○する意味が分からないから~」、こういう考え方は疎まれていますよね。自分で納得できるかどうか、それを考えて行動する人より、「周りが○○しているから~」ぐらいで動いてくれる人の方が、なんだかんだ言って歓迎されていますから。
私は高校時代に髪を染めていました。といっても白髪染めですが。
小学生の頃に患ったストレスの影響からかあまりに白髪が目立つので特例で認めてもらいました。
時間が経つと脱色して茶髪のように見えてきますが、そのせいで不利益や、逆に良い印象をもたれた事は特にありませんでした。
デブのキモオタでしたからね。おまけに泳げない。
頭髪がどうこうというはるか以前の次元で問題を抱えたまま、自己実現や自己鍛錬の努力など一切せずに三十路を迎えてしまいました。
「真面目である」というのは、かくも容姿とは無関係である事を、私自身の生き様が現在進行形で証明しております。
むしろこの高校には、オタク・マザコン等の別方面に「問題を抱えた生徒」ばかりを集めて、「ネット右翼の巣窟」などと社会で忌避されるような存在を目指したほうが良いのでは、などと妄想したりしてしまいます(県立校じゃ無理か)。
リーゼントにボンタンという日本独自な不良のスタイルが、渋谷のチーマーに端を発するアメリカ風味なものに移行しただけで、決して不良そのものが絶滅したわけではありません。むしろ彼らが反抗の矛先を向けていた教師や警察機構の不祥事が日常的に報道され、かつては「どうやっても勝てない強大な存在」とされた物のメッキがはがれてきていることが、大方の若者から「ああ、こいつらも所詮はこんなもんなのか」と戦意を失わせた理由なのではないでしょうか。
そしてその悪意と暴力は、いじめや学校裏サイトといった形で、どんどん内輪に、そして下方に向かってきている気がします。
でもその漠然としたあこがれの対象である「真面目な生徒」を取ろうとする辺りを最も強く支持しているのが、「別方面に問題を抱えた(元)生徒」である気がしますね。その面では、既に始まっているフシもありそうですし、反発の枠組みも「不良vs管理者」から、「(自称)正義vs寛容」になっている気もします。もちろん、身近な人に対するイジメなどの古典的な暴力は不変でしょうけれど。
しかし、ルールというものに疑問を抱けないまま大人になったらばルールの名のもとに他人を圧迫することが好き、GXさんのおっしゃるような「常識を振りかざして偉そうな言動を繰り返す人」になる恐れがあります。まあ「正義として行動したい、悪を糾弾したい」という欲はあるかとも思いますが、それが行きすぎると結局自分が生きづらくなります。管理人さんは以前「ルールを守らないと思うことが迷惑行動そのものより苛立ちを生んでいるのでは」というようなことを仰っていましたよね。
ちなみに私の理想は「自分はルールを守りつつ他人のルール違反にはある程度は寛容に」ですね。