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Lang ist Die Zeit, es ereignet sich aber Das Wahre.

Veljo Tormis / "Litany to Thunder"

2008-04-09 08:19:55 | art music
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□ Veljo Tormis / "Litany to Thunder"

Kust tennen kodu
Laivassa Iauletaan

Release Year; 1999
Label; ECM
Cat.No.; ECM 1687
Format: 1xCD


>> tracklisting.

01. Kust tennen kodu (How Can I Recognize My Home)
02. Laivassa Iauletaan (Singing Aboard Ship)
03. Raua needmine (Curse Upon Iron)
04. Lauliku lapsepõli (The Singer's Childhood)
05. Muistse mere laulud (Songs Of The Ancient Sea)
06. Piispa ja pakana (The Bishop And The Pagan)
07. Pikse litaania (Litany To Thunder)
08. Haned kadunud (The Lost Geese)


Estonian Philharmonic Chamber Choir
Tõnu Kaljuste



?娘さんにお嬢さん
往きましょう 夜の幌が降りる前に
北から夜がやってくる前に
淡く照らす光の方へ 暁のいでる方へ
我が家は遠い 遠い遠い遙か


6つの枯れ川
7つの沼地
8つの魚の海と
9つの綺麗な小川の向こう
10回の凍えた春がやってきた


そろそろ帰途につきましょう
発つ頃合いが来たのです
我が家への帰路 それぞれのお家へ
我が家は何処 我が家は何処に


    -Runo-song adapted by Jaan Kaplinski


絵画と劇、音楽の狭間には、それぞれ視覚、聴覚を通して鑑賞者に働く時間軸が違うと言うこと以上に、発現の本質を異とする境界線がある。

絵画においては画家の描いた「作品それ自体」が一次媒介的に、(一定量の構成要素が損なわれない限り)鑑賞者に恒久的に情報を投影し続けるのに対し、記憶や記譜に依存した音楽は、「演奏者」という二次媒介過程においてエネルギーを注がれ芸術として発露する。しかし現代ではメディアでの記録というプロセスを経て、「絵画と鑑賞者」に極めて近い関係性が、半ば無自覚とはいえ、音楽においても為されていると言えよう。


ここにトルミスが採譜し、編曲を施した故郷エストニアの古き伝承歌に唄われた物語は、その再演が行われる度に、あるいは我々がCDを再生する毎に、終わらない時の円環に閉ざされた、反復性のあるパラメトリックな記憶の結晶を永遠に励起させる。童謡の子供達は、あの歌の中でいつまでも家を目指して果てしなく歩き続けるのである。(歌の最後では辿りつけるのだが)

この場合のパラメータ(母集団)、つまり芸術性の規定要素は、聴く者の原体験をも含意する。それはエストニアに限らず、多くの民謡が「郷土に生きる」それぞれの人々の生活とは不可分なツールとしての役割を担っているのに対し、トルミスはそれが聴く者の感情に働きかける機微を追求し、芸術に昇華した。何が出来上がったのかというと、誰もが遠い記憶の末梢に埋もれさせた不条理で、しかし切実な想いに突き動かされる共時性の体現である。


子供に道を教えるために伝わったという"Kust tennen kodu(我が家を知るには)"と"Haned kadunud(迷子のガチョウ)"では、エストニア唱歌における"Runo-song(ルノーの歌)"という伝統様式が取られている。

特徴的な音韻に関連付けられた8つの音節から成るユニットをベースに、延々と周期的に繰り返されるミニマルな展開を見せる。それぞれの韻文はメタファーや換喩を用いて意味並行的に結ばれている。『迷子のガチョウ』では、透き通る清水を鏡の如く湛えたコーラスが、徐々にピアノに追い立てられ波打つ様に、何処か身の毛がよだつ寒気を禁じ得ない。


現代声楽曲としてトルミスが成し得た仕事の大きな特徴は、そのテーマに比してあまりにも先鋭的な意匠を窺わせる音響的な処理にある。表題曲"Litany to Thunder(雷鳴への連祷)"では、天上に向かって祈りを叫ぶ幾層もの声が、あたかもフィルターを通して電子加工されたかのような、距離感を演出したコーラスの応酬が聴かれる。

一方で古典懐古的な"Song of the Ancient Sea(太古の海の歌)"では、ルネサンス的とも言える海鳥を模したオノマトペが、"The Bishop and the Pagan(司祭と異教徒)"ではグレゴリオ聖歌の導入から、やがて異教的な音色が渾然一体となっていくダイナミズムを、"Curse Upon Iron(鉄を呪え)"においては凄惨なまでの描写から平和への渇望を、Carl Orff的な劇音楽の前衛手法に転化し、シャーマニック・ドラム(呪術的意味合いで雷鳴を模し、雨乞いとなる)を配することで、プリミティヴで普遍的な響きを以て激情に訴えかける。


これら難解な技法を、驚く程の純度で再現した名門Estonian Philharmonic Chamber Choir。そしてその創設者であり、今や世界最高峰の合唱指揮者としての名声を戴いたカリユステの意匠は、正にこのECM盤を以て決定版と評するに相応しい。当時のアイヒャーの確かな審美眼が息衝いている。因に、現在のEPCCのチーフ・コンダクターはPaul Hillier(2008年9月からはDaniel Reussに後任)だが、近年は専ら古楽最大手レーベルであるHarmonia Mundiからの音源発表が目立つ。EPCCがバルト海地方の合唱曲の発展と集約に貢献する傍ら、意外にもECMとHillierは、The Hilliard Ensembleを立ち上げた1993年以降袂を分かっているようである。


また、ジャケットやスリーブアートを担当したBassiest、というより寧ろPhotographerとして有名なTõnu Tormisの写真も素晴らしい。海の彼方に閃く雷光や、雪に晒され罅割れた道路、森の野原に散らされた木片、懐かしくも寂しい何処にでもあるモノトーンの写真は、国境を越えて人々の胸を打つ原風景を映し出している。ECMのコンセプトアートに沿ったものだが、ともすれば芸術性の含意を押し付け気味な他作品に比べ、突き放したような寒々しさと普遍性が感じられる味気の無さが逆に功を奏している。