心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

心のデフレーション

2010-10-03 09:52:53 | Weblog
 つい先日、汗を拭いながら8月のカレンダーをめくったばかりだったのに、あっという間に10月です。おや、日曜日にどこへ行くのでしょうか。パタパタとヘリコプターの飛ぶ音が頭上に聞こえますが、爽やかな秋の朝のこと、お空から眺める街の景色はさぞ美しいことでしょうよ。きっと。
 ところで、先週の月曜日、自宅から携帯メールがあり「テレビが壊れた」のだと。ぇえ?買い変えてまだ数年しかたっていないのにと思いながら、帰宅してみると確かに壊れていました。マニュアルを確認しながら何度か配線をやり直しましたが、真黒い画面が変わることはありません。さっそくメーカーに電話を入れて2日後に来ていただくことになりました。その間、我が家の居間はラジオが外界との距離を縮めてくれました。
 見るでもなしにテレビの垂れ流し状態から、急に静かになった居間の雰囲気に、何か昭和の時代を思い出して、なんだかほっとしました。家内はと言えば、どこからか機織り機を持ち出してきて、私にとっては気の遠くなるような手仕事をし始めました。静かに流れるラジオの音が、心を和ませてくれました。
 といっても、私は元来がラジオ人間です。枕元では「ラジオ深夜便」をBGM代わりに、いやいや子守唄代わりと言った方が良いでしょう。とにかく、一晩中点けっぱなし状態です。ボリュームは落として、聞こうと思えば聞こえる程度の音量ですから、静かなものです。それならいっそ消してしまえば良いのにと思いながら、なぜか長い夜の沈黙に心が耐えられなくて、いつの間にかこんな習慣が身についてしまいました。 
 文明の利器に、わたしたちは取り囲まれて生きています。モノに囲まれて生きています。先日、ある経済団体の会合で某社の方がおっしゃっていました。「日本は高品質高付加価値のモノをたくさんつくってきた。たくさん買っていただいた。それが日本の強みだった。でもいま、事情が一変している。安い物が大量に出回るようになった。高品質高付加価値というモノへの拘りがなくなってきているように思う。モノの値段だけでなく、人の「心」までデフレになってしまった」と。
 モノに対する価値観というものが、大きく揺れ動いているということなのでしょうか。いや、モノだけではないですね。「心」の在り様自体が揺れ動いている、右に振れたり、左に振れたり、みんな自信がない。だから、モノに飽きた若者がバーチャルな世界に居場所を見つける。現実との乖離。

 そんなとき、ラジオの放送を聞いて、日本の田園風景、森の「匂い」のようなものを感じる。これもバーチャルか、と思いながら、スピーカーの奥に人間の「心」を感じ取ろうとしています。ときどき、庭に出て、両手で土の温かさを感じる、匂いを感じる。なんだかほっとする。.....やはり、自分の素手で土を感じ、素足で大地を踏みしめることの大切さを思います。
 そうそう、明日から3日間、同業他社の経営診断のため北海道に出張します。北の大地を踏みしめながら、私の心を診断する3日間にもしたいと思っています。
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