ピアノの音色 (愛野由美子のブログです)

クラシックピアノのレッスンと演奏活動を行っています。ちょっとした息抜きにどうぞお立ち寄り下さいませ。

グリーグの生涯その3

2011年08月08日 | クラシック豆知識
グリーグは、1868年、25歳の年の夏から秋にかけて、デンマークのセレレーズ(Søllerød)という町に宿をとり、そこにピアノを持ちこんで作曲に没頭しました。ここで書かれたのがグリーグ唯一のピアノ協奏曲で不滅の名作「ピアノ協奏曲イ短調」です。この宿にはピアニストで親しい友人でもあったノイベルトが一緒に住み込み、この作曲にピアニストとしての助言をしています。彼の助言はこの名曲のピアノ演奏効果に大いに役立ったと言われています。

初演は翌年コペンハーゲンで行われました。そのときのピアニストは作曲にも貢献したノイベルトで、ものすごい大成功を納めました。この曲はノイベルトに献呈されています。続いて翌年グリーグはこの曲の自筆の楽譜を携えてリストのもとを訪れます。リストはこれを初見で弾いて、第3楽章のある部分について「これが本当の北欧だ!」と絶賛したというエピソードがあるそうです。グリーグ27歳、巨匠リストが59歳のときのことです。他にも組曲「ペール・ギュント」をはじめ、民族色豊かで、美しい自然を彷彿させるグリーグならではの旋律を用いて数多くの作品を発表していきます。こうしてグリーグは世界に羽ばたいて行くのです。

駐日ノルウェー王国大使館によるグリーグの紹介記事には次のような一節があります。

「リストの絶賛を受け、海外での人気は高まり、外国での公演も次々に成功しました。グリーグの国民的作曲家としての地位は揺るがぬものとなり、二人の銀婚式は国をあげて盛大に祝われました。当時、音楽的には非主流である、いわば田舎の一作曲家に過ぎなかったグリーグが、生きている間に世界的な人気を博したのは、きわめて異例なことでした。まだまだ男性社会だった当時、夫妻がともに名声を得ていたことも、例外的でした。」

ノルウェーの国民にとって当時も今もグリーグが、いや、グリーグ夫妻がどんなに誇らしく、愛すべき存在かがよく分りますね。

しかしもちろんグリーグといえども生涯を通じて悲しみや苦悩と無縁だったわけではありません。ニーナとの間に生まれた愛娘アレクサンドラを一歳の時に失っています。その後夫妻は子供に恵まれることはありませんでした。さらに後年、両親を亡くした上、ニーナとも一時不仲になるなど、グリーグの様々な苦悩から生まれた「バラードト短調」なども特筆に値する名曲です。このバラード以降彼の耳に通奏低音のようにト短調が聞こえて、内なる声としてとらえられていきます。それは彼自身が言っている「私の生涯の重要な時期」であり、ト短調の時代ともよばれているのです。


トロルハウゲンの家

ヨーロッパ中を旅から旅へと移動し、自作自演のコンサートを繰り返しながら、夫婦は1885年4月にベルゲンのトロルハウゲンに家を建ててそこを終の棲家とします。トロルハウゲンの家は海の見えるフィヨルドの断崖の上にあり、自然の美しい風景が広がっているところだそうです。ニーナとは、生涯仲睦まじく暮らし、オシドリ夫婦として有名でした。夫婦でトロルハウゲンの家から海外演奏に出掛けては帰ってくる、旅の多い音楽三昧の暮らしを続けていたようです。こうしてグリーグは愛する妻とともに生涯音楽と取り組み、1907年(64歳)ベルゲンの病院で亡くなりました。トロルハウゲンの家は現在グリーグの博物館兼コンサート会場として親しまれています。

駐日ノルウェー王国大使館:グリーグ
駐日ノルウェー王国大使館:ニーナ・グリーグ

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コメント (2)
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