Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

楽のないマルコ受難曲評III(14.45-14.72)

2005-03-25 | 
さあ、更に先へ行こう。その前に、冒頭のコーラスからしてマテウスと大きく違うことだけでも注意を促したい。俯瞰して分かるのは、声の扱いである。二律背反を内抱してモノドラマを生むマテウスに比して、マルコスでは自己矛盾を既知としてそれを放置する。そこには前者で見られるような厳しい自己葛藤は存在しない、そこには有りの侭を受け入れて率直に表現するおおらかさがある。だから張り裂けような心情を吐露するマドリガルのアリアも明らかに少ない。その深刻さから開放される分、至るところで皮肉に満ちた警句が鋭く覚醒を促す。

14章45 ユダスは、逮捕の合図にイエススに先生と二度呼びかけ接吻をする。アリア「偽りの世界。うわべだけの接吻。敬虔な精神の毒である。お前の舌は、突き刺さる。語った事は全て唆しだ。」。辛辣な責めではあるが、その偽りの世界こそが我々の住む世界であると言われると苦笑せざる得ない。胸に棘が突き刺さる。

14章49 イエススは逮捕劇に遭遇して、これは聖書の言葉が実現するためであると言う。「イエススは罪状無くして、楽園においでになる。悪を敵とする時にはあなたと確り結びつこう。罪を背負って、友として傍にいて頂ければ、きっと糸口は見付かろう。」。贖罪の使命を得たことで、友人としてそしてその結びつきで、楽園をも現出させると言うのだが。前節で刺さった棘がここへ来てずきんずきんと熱を持って疼き出す。本当に糸口はあるのだろうか?

14章52 素肌に亜麻布をまとってイエススについて来ていた若い男は、捕まりそうになると裸で逃げ出してしまう。「お気持ちが散り散りになろうが、お顔が蒼白となろうが、私はお傍にいます。どうか置いて行かないで下さい。最後の磔の一突きまで胸に抱きかかえていとう御座います。」。不信だといっても裸になって逃げて行く所も無い。ならば、最後の一突きまでつきあうぞという覚悟である。肝が据わると、随分と落ち着いてくるものなのだ。原曲:パウル・ゲルハルト(1607-1676)詞、ハンス・レオ・ハスラー(1564-1612)曲。

説教: バイロイトの教会から独TV第一放送が、プロテスタントの聖金曜日の礼拝を中継した。病むものや津波やテロ等のカタストロフ被害者への配慮とともに、強調されていたのはイエススの死との一体感を持って、その復活で恐らく得られるであろうものである。パウルスの恐怖心を与えない配慮ある言及や教会にある洗礼台や秘宝に纏わる話などを交えて進める。進行に合わせて、福音教会の賛美歌が歌われるが、カンタータからと二曲取上げられたバッハの曲とは音楽的に一線を隔していた。特に、マルコスによる福音朗読に続いて歌われた、有名なハスラーの聖歌はバッハのマルコ受難曲として扱われ、第二節まで歌われていた。

ダカーポ・アリア。「私の慰めはもうない。イエスス、あなたを失わなければいけなかったのか。没落を見て、没落へと導く為に?苦しみだ。穢れのない無実の子羊は、正しからざる教義に、死刑を言い渡されて。」。不条理な世界を現出させる事によって、実存しない条理を描くと言う否定的弁証法の叙述法が使われる。

14章56 多くの者がイエススに対して偽証をしたが全ては食い違っていた。「人の力や警句が辿り着くものには、ちっとも驚かない。彼らがそれに賢明に取り掛かるとき、最高に位置に座する者は、その決断を掘り起こす。そのようにして神は、御心に従って違う方へと進まれる。」。勿論ここではユダヤ法定を扱っていたが、法学の素養のある若きピカンデル君は法律論を考えていたようである。更に恐ろしい事に、ここまで綴ってきた自己のテキストにも再び懐疑を向ける。それを受ける読み手の反応も読み込み済みである。裁かれる所に正義あり?

14章61 大司祭はイエススに証言の信憑性を訊ねるが、イエススは答えなかった。「あなたは、心から苦しむあなたの道を歩みます。最も誠実な御心は、天を導き、雲に、大気に、風に、道を与え、連なり、筋をつける。あなたが歩いていくところに、道を見出します。」。自らへの疑心をも超越して、道が開いて行く。少なくともこの軌跡が何となく確からしいという様子である。原曲:パウル・ゲルハルト(1607-1676)詞、ハンス・レオ・ハスラー(1564-1612)曲である。マタイにおいて15、17番のコラールで使われているものである。

14章65 民衆は、イエススを死刑にすべきと、目隠しをして、唾を吐き、殴りつけ、嘲笑する。「直面している、高貴なあなたは、驚き、恐れる。偉大な法廷で唾をかけられ顔色も無い。あなたの比較を超える眼光をだれが持っているだろう、誰がこの冒涜に値するというのだ?」。裁かれるものを裁く。誰が裁くに値するのか?これも、ハスラーの上の曲で歌われる。原曲:パウル・ゲルハルト(1607-1676)詞、ハンス・レオ・ハスラー(1564-1612)曲。

14章72 弟子ペトロスが、鳥が二度無く前にイエススを三度知らないと言ったことに気がついて、わっと泣き出した。「主よ、間違いを犯しました。罪は私に重く圧し掛かります。私はあなたが示した道を誤りました。そして、恐れを持ってあなたの怒りから隠れたく思います。」。私達は誰かを裁く必要すらないのである。間違いを犯したことのない者、道を間違えた事のない者、一体何処にいるのだろう。原曲:ヨハン・フランク(1618-1677)詞、ヨハン・クリューゲル(1598-1662)曲。

マルコスの福音14章45節から最終節までに当たるのが、マテウスの福音26章49節から最終節である。この間歌われるのは以下のようなテキストである。アリア「かくして、わがイエスは捕われたもう」、コラール「おお人よ、汝の大いなる罪に泣け」(シュトラスブールの聖歌、ゼーバルト・ハイデン曲)、アリア「ああ、イエスは連れて行かれる」、コラール「この世は私に偽りの裁きを課した」(アダム・ロイズナー詞、ゼテイウス・カルヴィシウス曲)、レチタティーヴォ「わがイエスは不実の証言に黙したもう」、アリア「ただ耐え忍べ」、コラール「だれがあなたをそのように打ちすえたのか」(パウル・ゲルハルト詞、ハインリッヒ・イザーク曲)、「憐れみたまえ、わが神よ」、コラール「たとえいちどはあなたから離れても」(ヨハン・リスト詞、ヨハン・ショップ曲)。(IV へ続く)


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