Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

滑稽な独善と白けの感性

2005-03-10 | 歴史・時事
フランクフルトへ向う車の中で、「教会は異端者が必要か」というフォーラムの放送を聞いていた。各宗派から現役の大学教授や執筆家の神学博士をお招きして、討論させている。特にユダヤ教との討論が激しく為される。プロテスタンティズムの聖書は、読めば読むほど争点が顕著となるようだ。特にユダヤ人向けに書かれ、救世主キリストによる旧約の成就を記した「マタイによる福音」は相容れないものとなる。聖書を金科玉条とする教義が独善そのものであることは当然だが、今日の教育者でも倫理学者でもある神学者がこれを語るとドグマを超えて滑稽でさえある。故に独善と寛容の矛盾する二面性を自らが内包しなければならないのだろう。

バッハの受難オラトリオも、マタイによる福音によるものは特別なようだ。ドラマティックな要求から二組の合唱と二群の楽団に分かれていることも特筆される。ヨハネによる福音のものは1723年3月26日にライプツィッヒで初演され、その後そこのトーマス教会の職に就く。そしてマタイは、最近の研究によれば1727年に第一版が初演されたとある。100年後の1829年のベルリンでのメンデルスゾーンの復活再演が象徴するように1729年に少なくとも再演されている。一昨日のプログラムには、その後1736年から1742年にかけての作曲家本人による改訂版の上演が記されている。

この様な特別な編成の解釈に、トーマス教会には二つのオルガンが存在したからだとか、ヴェネチアの二重合唱の様な音響効果を指摘する向きもある。現に今回の公演も数年前に会場の音響を理由にお流れになった経緯がある。前回同じコンサートホールで経験した公演は、二組の特色の違う団体が掛け合う形式になっていた。

ピカンデルが作詞したマドリガルの部分で、独唱と合唱のディアローグとなる。「独り言やモノローグをドイツ語では二人称を使うという著名なドイツ語学者の話」を思い出した。実際には自分に「君」と話しかけるのは決して普通ではないのだが、だからこそそれを使う場合は「視点の移行」としての特別の意味を持つ。掛け合いの意味は?あのようなミサを作曲したほどのバッハが、音響効果だけでこのような手段を採っただろうか?この作曲家の楽譜には、ルネッサンスの作曲技法を継承して聞き取る事の出来ない数字やシンボルが隠されていることは周知の通りである。ここでも定旋律の利用だけでなく、最終稿では聖書の言葉が赤インクで書かれているようだ。

現代においてこのような受難オラトリオが「真面目に真っ当に」演奏される事は、益々少なくなって来ている。バッハ作曲においても、マタイよりもヨハン、ヨハンよりもマルコ受難曲の方が、TVソープオペラ「ビッグブラザー」宜しく、ベネルクスの音楽家達の秀逸した演奏によって、直裁に遥かに多くを訴えかける。これらこそが、中欧文化先進国の今日の感性と白けた日々の生活感そのものなのである。


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8 コメント

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度々失礼します。 (manimani)
2005-03-10 08:50:16
バッハのマタイについて若干補足致しますと、

・現在の「決定稿」は36年の総譜およびパート譜をベースに、42年につけくわえられたガンバ等を加えたもののようです。

・27年(頃)の初演時の編成は、オルガンパートが一つである等、完全な二群編成ではなかったと、弟子の写本により推測されています。

・赤インクは例外的に冒頭合唱曲等で響くコラール旋律など、聖句以外でも使われている一方、聖句でも福音に反する言葉は黒で書かれるというような、こだわりがあったようです。赤インクの使用自体がバッハのスコアでは異例のことで、この総譜作成には相当の思い入れがあったことでしょう。

・バッハによる「マルコ受難曲」は、歌詞のみ現存し、一部のパロディ元ネタが判明している状況のようです。研究者による復元の試みもみられ、トン・コープマンによる復元演奏が有名ですが、その復元内容には、トンの弟子である鈴木雅明氏が異論を述べていたりもします。(笑)



日本ではここ最近、バッハの受難曲のホール演奏が一般に受容されて来たなという感がありましたが、逆にご当地では演奏されなくなっているというお話・・・おっしゃるようにマタイ福音書は少し特異な位置にありますが、私のようなごく普通の日本人においては、その意味するところを生活のなかで実感することは当然なことですがまずありません。中欧での感覚がおっしゃるような状況であることについては、大変興味深く思えました。
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討論番組 (ohta)
2005-03-10 12:44:18
ドイツにあって日本に無いものと言えば,この延々と時間を気にせずに続ける討論番組ですね.私にはとても内容をフォロゥし切れませんが.



「今日の感性と白けた日々の生活感」であったにせよ,"秀逸" な演奏によって訴えかけられるのならまだ救いがあるのではないですか.残念なことですが,我々は責任ある人達からまともに訴えかけられるというような経験を日常に持ちません.
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トラックバックありがとうございます (秘密組合員)
2005-03-10 23:37:20
トラックバックありがとうございます。初の事でとてもうれしいです。



深く広い知識、くりかえし読んでみたくなる美文、とてもかなわないなあ。

 

読ませていただいて、コミタスと言う音楽家のことを思い出しました。コミタスのこと少し調べて僕のブログに書いてみたいと思います。
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タブー無し、自らの発言、面白い話。 (pfaelzerwein)
2005-03-11 05:36:13
manimaniさん、詳細有難うございます。二群の楽団の問題は、二つの合唱と違いこれで納得出来ます。赤インク使用の選択は、是非詳しく知りたいですね。それは、普通のスコアーには載っていない重要な情報です。コープマン氏の「マルコ受難曲」は、簡単に突っ込まれるからこそ面白い。なんと人を食った面構えでしょう。



特にオランダの彼らには、タブーも何もない。麻薬とかと同じ次元でバッハの音楽も捉えている。権威も教義も何もないところでも、それだからこそ、訴えかけるものが途轍もなく大きい。ヨハネのベクトルが固定された威力よりも、マタイのように厳密に考慮された主張よりも、この好い加減さが素直に受け入れられる。私にとっても、それゆえに2000年3月の「マルコ」ほど直截な宗教音楽はありませんでした。



私たちが大なり小なり既成観念に囚われていることを気づかせてくれる。それから自由になる時、たかが___、されど___です。ビーレフェルダーカタログを見ると、この辺の音楽事情も垣間見えます。







ohtaさん、最近はディべートというのが日本語になっているようですね。私は語学学校で散々やらされました。上の討論でも「最後まで仕切れなかった司会者」の結論は、「其々の御立場がハッキリしました」というものでした。会場の反応も極論からの切り替えしの皮肉が最も受けていました。議論も啓蒙という事なのかと今更ながら考えています。



フォーラムのように主題を絞って案を出して議論し尽くするよりも、ネットの中ですがBLOGのように主題が連なって広範に繋がっていく方がそれなりに全体像が見えてくると感じています。「責任ある人」を「オピニオンリーダー」と読み替えますと、BLOGによって議論よりも其々の自らの発言が大きな意味を持ってくるように予想しています。







秘密組合員さん、コメント有難うございます。文を評価されるのはお恥ずかしいですが、興味を持って頂けて感激です。面白いお話を楽しみにしております。

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Unknown (mamemame)
2005-03-12 21:24:31
 トラバ、有り難うございます。

僕は、テキストを書くのが苦手で・・。特に映画評はとても辛い・・。(苦笑)そんなわたしの稚拙なぶろぐをトラックバックしていただき、恐縮です。

こちらのぶろぐを拝見して。学ぶところが多くありました。

ああ・・。そおだったんだ!と、驚きました。

 僕は、まだまだ勉強不足のようです。では。
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ありがとうございました。 (rollo)
2005-03-12 23:57:42
TBありがとうございました。



芸術(と今では呼ばれているもの)を、コトバ化が容易な内容や形式だけを取り出して論じるのではなく、人間の身体まるごとに働きかける力から考えようと悪戦苦闘している最中なのですが、そのときいつも私が立ち返るポイントとなっているのがバッハ『マタイ受難曲』です。多くの芸術形式は宗教的な世界観を人々の身体に刻み込むためにもっとも有効な技術として発展してきた(そして近代以降、「芸術」として自律するとともにその力を奪われてきた)のだろうと。実は私の研究フィールドはインドなのですが、インドで『マタイ』をCDで聞いていて、そんなことを体感したのでありました。



といっても、受難曲成立の背景などについてはほとんど知識がなかったので、みなさんのコメントもあわせて読ませていただいて、とても勉強になりました。
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TB ありがとうございました (romani)
2005-03-13 01:24:19
TB ありがとうございました。



一昨年から、特にマタイ受難曲の魅力(魔力か?)にはまってしまい、随分いろいろな演奏を聴きました。

本当に真剣に対峙して聴くときと、リラックスして聴くとき、BGM的に聴くときと状況はさまざまですが、最初は近寄りがたく感じていたマタイが少しずつフレンドリーな顔も見せてくれるようになった気がしています。

でも、こちらのBlogで皆さんのコメントを見せていただき、さらにまた新たな視点が出来たような気がします。

今後ともよろしくお願いいたします。
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究極のローカリズム (pfaelzerwein)
2005-03-13 22:40:13
mamemameさん、rolloさん、romaniさん、貴重なコメント有難うございました。コメントなどの感想も其々にご覧になっていらっしゃるので、中間報告として纏めてお礼としたいと思います。



「マタイ受難曲」でサーチする中で、圧倒的に「コルボ指揮の会」の記事が多いので関心を持って、全ての記事を比較的注意深く読みました。技術的や演奏方法の批判も僅かに見受けられましたが、圧倒的に感動が報告されていました。それらから状況は十分に察せられました。今更、「キリスト教の宗教曲が何故?」と云う問いは必要ないと思います。そこでこれをもって本文の記事の内容を補いますと、「このような受難曲がグローバルな見地から上演されるのは難しい。反対にローカルな文化的背景をもって行われる時、その影響も部分に限定される。」と云う事になると考えます。



先日、チューリッヒ在住の芸術家との会話の中で「バッハの宗教音楽は宗教的か」という話題になりました。「宗教音楽に違いない。」というのがこの人の回答でしたが、これもチューリッヒのローカルの反応と捉えるべきと思います。キリスト教圏欧州の中での、「スイスの地方主義(旧中立主義)」も「グュエール・チーズ」も「ライプチッヒのトーマス・カントール」も「ドレスデンの十字教会」もローカリズムの象徴で、このようなローカリズムはグローバリズムの中では意義が限定される。反面、ドイツのローカリズムをグローバリズムが抱合することはあり得ないというのが先日のフランクフルトでの会での結論と云う事になります。



更に加えますと、ローカルと言うのも空間的な位置に関わらず存在している事をネットでこうして確認する事が出来ます。ある意味で、バッハの創作の目標が各々の個人に訴えかける事であったことを考えると、それが究極のローカリズムとして達成されているとも思えます。

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