「ばらの騎士」のお勉強を少しした。間に合うか?先ずは2015年のバーデンバーデンでのベルリナーフィルハーモニカーによる初の演奏上演に関しての自らの記録とそれを受けての2017年2月のミュンヘンでの上演の記録に目を通す。今回ベルリンでメータ師指揮で成功したハラー演出の先ず一幕の音を聴いてみて、共通した話題とその差異を審査する。
伝統的交響楽団でこの曲を最初に指揮したラトルの言葉「微妙で髭剃り刃の裏に潜んでいるような和声のキチガイじみた移り行き」を想う。そこに痛いほど気付くのは、メータ指揮の管弦楽の上に声をあてがっていくようなベルリンの座付き楽団のアンサムブルで、評判の良かったマルシャリンを歌ったニールントの不器用な歌唱ゆえだ。指揮の上手さは決してバラバラにならないような立派な音の赤絨毯を広げているので、その上で如何に絶妙に歌えるかどうかにかかっている。オクタビアンの若い人も良くなく、オックス役のグロイスべックが取り分け素晴らしい。
そしてペトレンコ指揮での上演の記録には、チェレスタの時報からの後の変ロ長調の下りに言及されている。今回録音を聴いて気になるのはそこの流れである。メータ指揮の方がその全体の一体感がある。恐らくハラーの演出がシェンクの演出よりもドラマテユルギーに優れているに違いない。そういう演出に拠る演奏実践の変化が今回最も注目するところとなる。
そこで同じクッパ―演出のザルツブルクのヴィデオを流すと演奏が甚だしく酷い。メスト指揮ヴィーナーフィルハーモニカーはコロナ期間に「エレクトラ」を聴いたがこれ程酷くはなかった。なるほど上でラトル指揮の上演が素晴らしいと思ったのはヴィーナーの水準がお話しにならなかったからだろう。要するに声との絡みにおいて楽劇とは名乗りながらこれ程までにレティタティーヴォ的にまるで現代のハースの音楽劇場作品のような精妙さで書かれていることに気が付いたからである。そのような楽曲を演奏するような状況にはヴィーナーがなかったというのが上のザルツブルクでの上演だった。
それなら今回ミラノでの演奏はどうなるか?それはやはり演出の精妙さに影響されるのではないかというのが現時点での観測だ ― それほどシェンク演出は拙かった。指揮者メストはカラヤン指揮の最後のザルツブルクの「ばらの騎士」の稽古からの影響を受けている。然し以前のカラヤン指揮の練習に影響を受けたクライバーのような立派な影響を受けなかったのは言うまでもない。
何時もの様にたとえ古い方の映像でもカラヤン指揮の録音からお勉強することは殆どない。それは上のようなテクスチャーを音として確認できないからであり、これが今回のミラノの公演でもしかすると記念碑的な演奏が為されるかもしれないという期待である。
その意味から再度のクッパ―の演出を比較する重要性が高まった。なるほどスカラ座へはデビューであり、そこまで徹底した演奏は不可能なことは承知であるが、座付き楽団としての持ち味はそのアンサムブルから上の様な繋がりを上手に演奏できるのではないかと思っている。もう少し、二幕三幕の音楽を考えながらその期待値を探ってみたい。
参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
伝統的交響楽団でこの曲を最初に指揮したラトルの言葉「微妙で髭剃り刃の裏に潜んでいるような和声のキチガイじみた移り行き」を想う。そこに痛いほど気付くのは、メータ指揮の管弦楽の上に声をあてがっていくようなベルリンの座付き楽団のアンサムブルで、評判の良かったマルシャリンを歌ったニールントの不器用な歌唱ゆえだ。指揮の上手さは決してバラバラにならないような立派な音の赤絨毯を広げているので、その上で如何に絶妙に歌えるかどうかにかかっている。オクタビアンの若い人も良くなく、オックス役のグロイスべックが取り分け素晴らしい。
そしてペトレンコ指揮での上演の記録には、チェレスタの時報からの後の変ロ長調の下りに言及されている。今回録音を聴いて気になるのはそこの流れである。メータ指揮の方がその全体の一体感がある。恐らくハラーの演出がシェンクの演出よりもドラマテユルギーに優れているに違いない。そういう演出に拠る演奏実践の変化が今回最も注目するところとなる。
そこで同じクッパ―演出のザルツブルクのヴィデオを流すと演奏が甚だしく酷い。メスト指揮ヴィーナーフィルハーモニカーはコロナ期間に「エレクトラ」を聴いたがこれ程酷くはなかった。なるほど上でラトル指揮の上演が素晴らしいと思ったのはヴィーナーの水準がお話しにならなかったからだろう。要するに声との絡みにおいて楽劇とは名乗りながらこれ程までにレティタティーヴォ的にまるで現代のハースの音楽劇場作品のような精妙さで書かれていることに気が付いたからである。そのような楽曲を演奏するような状況にはヴィーナーがなかったというのが上のザルツブルクでの上演だった。
それなら今回ミラノでの演奏はどうなるか?それはやはり演出の精妙さに影響されるのではないかというのが現時点での観測だ ― それほどシェンク演出は拙かった。指揮者メストはカラヤン指揮の最後のザルツブルクの「ばらの騎士」の稽古からの影響を受けている。然し以前のカラヤン指揮の練習に影響を受けたクライバーのような立派な影響を受けなかったのは言うまでもない。
何時もの様にたとえ古い方の映像でもカラヤン指揮の録音からお勉強することは殆どない。それは上のようなテクスチャーを音として確認できないからであり、これが今回のミラノの公演でもしかすると記念碑的な演奏が為されるかもしれないという期待である。
その意味から再度のクッパ―の演出を比較する重要性が高まった。なるほどスカラ座へはデビューであり、そこまで徹底した演奏は不可能なことは承知であるが、座付き楽団としての持ち味はそのアンサムブルから上の様な繋がりを上手に演奏できるのではないかと思っている。もう少し、二幕三幕の音楽を考えながらその期待値を探ってみたい。
参照:
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
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