日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄文化紀行 6 護佐丸の墓・風水考1

2005-12-11 13:43:57 | 沖縄考

県道146号から一歩足を踏み入れると、きゅっと身の絞まるような気がした。
この感触は斎場御獄(セイファーウタキ)の石段を登ろうとしたときに受けたものと似ているが、ちょっと違うような気もする。
3年前のその時、昇り口の石がほんの少し盛り上がっているのを見て、同行した建築家藤本幸充さんがこれは結界ではないかと言い、僕もそうだと感じた。踏み込んでいいのかと一瞬ためらったが進むにつれ此処はまさしく神宿る場所、心を無にしようとしたりした。此処には嘗て男は立ち入ることができなかったのだ。

中城按司として座喜味城や中城城をつくった護佐丸の墓は、樹々を分け入るように造られた狭い急な階段を上っていく。ふと上を見ると大きな樹木の中に空間が開け、草木と一体となって南傾斜の山の懐に包まれるような形で現れる。正しく自然の気を受け止める風水原理を具現化したものだ。
この墓は1686年久米村の蔡応瑞に風水を見立てられて移築、石を組み合わせて改修された沖縄最初の亀甲墓(平敷令治「沖縄の祖先祀」)で、護佐丸の骨は519年間という長い時間此処にまつられてきたのだ。

按司は領主を指すのだが、世界遺産になった、それも弓矢などを避けるために地形を生かして見事な石組による二つもの城(グスク)をつくった護佐丸は、どういう人間だったのだろうか。
首里城を訪れたとき出会った`三ヶ寺参詣行幸`古式行列の、髯を生やし胸を張った筑佐事のきりっとした風貌を思い起こす。そしてなんとも琉球の潮風を感じさせるネーミングではないか。墓を前にして目を閉じ、王朝の悠久の古に想いをはせる。
写真を撮ろうと墓の左手から上り始めたら薮蚊に刺されてたちまち手や首が膨れ上がった。護佐丸の霊に叱られたような気がし思わず襟を正した。といってもTシャツだけど。

沖縄の墓は、原初的な自然洞窟墓や横堀墓のほか、破風墓、家型墓、それに中国に発祥した風水陰宅としての亀甲墓(かめこうはか)など、今は火葬制となって認められなくなったが、いずれも内部に洗骨された骨を入れた厨子を納める大きな空間が取られている。
座喜味城跡に隣接している読谷村民族資料館に亀甲墓の模型が作られていて、内部の様子がわかるし、陶製の厨子のコレクションも展示されている。魅力的な厨子が洗骨された骨を納めるものだったとは!ショックだ。
墓は近年ではコンクリートで作られることが多く、`コンクリート流し込み墓`と墓地販売業者の宣伝看板に書いてあったりする。何かしら沖縄は墓ブームといいたくなる有様だ。ちなみに沖縄の建売住宅は、鉄筋コンクリート造と言わずにコンクリート流し込み住宅だ。

首里城の近くにある「玉陵」(たまうどぅん)は、1501年に築かれた破風型の琉球王室の墓で、まだこの時代には風水が移入されていないことがわかる。墓の形式からも風水伝来の経緯が現れる。
「玉陵」は三つの部屋に分かれていて、中央は洗骨の場になっている。ということは、洗骨と風水は近しいにしても直接の関係にないといえるのだろうか。(中国史研究者の三浦國男氏によると沖縄への風水初伝は1629年、八重山の川平に漂着した浙江省台州府の人、楊明州によるとされる)

沖縄の人は多くを語らないが、僕たちが異様に思うのは、亀甲墓や破風型墓が市中の住まいに隣接して点在している風景だ。
僕たちが泊まったホテルに接して小さな森があり、よく見ると3基の破風型墓だった。東京では銀座の一角とも言える場所なのに。
嘗ては山林だったところが住宅地や商業都市として開発されていくことによって墓と都市が共存していくことになったのだろう。時代も変わり、都市の様相も変化して行くが、この現象に沖縄の人の祖先を敬う風水(無意識の)地理説、時を敬う気持ちが見え隠れするとはいえないだろうか。

墓を通して文化が見えてくる。

僕が護佐丸の墓の域に入りかけたとき受けた感触は、風水の「気」だったのだ。