日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

沖縄文化紀行 4 今バナキュラー(建築のもう一つの課題)

2005-12-02 12:07:41 | 沖縄考

米軍キャンプ宿舎の影響を受けて、同じような形態で建てられたコンクリート造の住宅をアメリカ住宅という。基地周辺に建っているこのアメリカ住宅は、日本復帰後の沖縄の人々の憧れの住宅で、今でも若者に人気があるという。
悲惨な戦禍とアメリカ文化への憧憬との二重構造についての視点からもこの住宅群を考えなくてはいけないと思うが、台風に悩まされる沖縄(本島)の風土と無縁ではないことは確かだ。
僕の記述を読んで、Mさんは在住している札幌の住宅との共通点を見出し、「今バナキュラー」と述べた。興味深い指摘だ。

その土地に特有である建築の様式や生活などを「バナキュラー」と言うが、バナキュラーという言葉には、つくられたものではなく、「生まれてきたもの」というイメージが僕にはあるからだ。
建築家の連健夫さんも何処かにこの問題が引っかかっているようで、何度もバナキュラーについてのシンポジウムをコーディネートしてきた。その原点に「生まれてくるもの」と「創るもの」との関係を突き留めたいという思いがあるのではないかと思う。
「今バナキュラー」という言葉を聴いて、冒頭にパネリスト建築家のNさんから厳しい発言のあった、ブラジル建築を題材にした連(Muraji)さんの企画したシンポジウムを思い出した。
ブラジルに在住したことのあるNさんは、丘陵地に張り付いている有り合わせの木材や合板を組み立て、様々な色を塗った仮設的な(バラックというと言い過ぎになるだろうか)ある意味では僕たちを刺激する住宅群を、バナキュラーと言うべきでなないという。貧困からやむなく生まれた住まいで、生活者にとっては屈辱の証であり、風土を受け留めて生まれてきたものではないということなのだろう。つまり風土との関係を抜きにしてバナキュラーは語れないということだ。

文化人類学の視点から沖縄の住宅を考えてみる。
柱を土に埋め込み、軒高を人の背高ぐらいに押さえ、茅で屋根や壁を葺いた庶民の住宅「アナヤー」、元々は士族や旧家・豪農の住宅形式で、茅葺だけでなく瓦屋根(カーラヤーともいう)もあった「ヌキヤー」。そしてコンクリートの「スラブヤー」への変遷経緯を検証し、それらが沖縄の原風景として語られる場合の課題だ。
僕たちが沖縄の住宅をイメージするとき、シーサーの乗った赤瓦を漆喰で固めた屋根、つまりカーラヤーを思い浮かべるのではないだろうか。しかし渋谷研(社会人類学者)氏の指摘によると、カーラヤーが増えてくるのは戦後で、それもすぐにスラブヤーに替わっていく。茅葺のアナヤーが原風景である沖縄住宅の姿、つまり沖縄の生活や時代を顕していた真の姿が、文化創造行為の中で消えていく。

しかし今の僕の課題は「スラブヤー」だ。

基地の中の宿舎も、アメリカ住宅も、白い四角いコンクリートの箱にスラブ(コンクリートの床版)の屋根を乗せた極めてシンプルなモダニズム的形態。たとえば雨樋もなく入り口(玄関)部分の屋根には、木の桟が打ちつけてあって、出入りする人に雨だれが落ちないようになっている。素朴な考え方だ。建築はこれで良いのではないかと一瞬思ってしまう。

3年前のJIA大会の折基地内の建築を見学し,SOMの設計した教会などを観たが、何より惹かれたのはシンプルな宿舎だった。同行した沖縄の建築家から、スラブヤーという言い方を聞き、前項沖縄そばで記した沖縄のYさんに、アメリカ住宅群を案内してもらった。
この文化紀行1で聖クララ教会に触れながらアメリカ住宅とスラブヤーの関係について記述したものの、この旅で沖縄の街を歩き、沖縄の建築の多くは、必ずしもこのモダニズム的な建築手法でつくられていないことに気がつき気になってきた。
穴あきブロックやむしろ骨太スタイルが多いのだ。
そこへ「今バナキュラー」だ。アメリカ住宅を「今バナキュラー」といっていいのか。

渋谷氏は「スラブヤー」の語源には触れていない。氏の記述に記載されている坂本磐雄氏の1989年の資料を見ると、スラブヤーが沖縄に根付いていくのが1975年以降、つまり本土復帰後の米軍キャンプ施設事業も含む復興事業に協調しているのがわかる。今まで述べてきたように、スラブヤーという言い方は、キャンプ宿舎スタイルと関連があると僕は考える。
台湾も台風銀座だ。同じように神話的なコンクリート志向がある。台湾から沖縄まで飛行機で30分。関係はないだろうか。

アメリカ住宅はさっぱりしていて、この旅でも改めて面白いと思った。しかし必ずしも根付かなかったのは、台風には対応したが、強い日差しと影、風を必要とする自然環境、そして生活者の感性をも秘める風土を受け留め得なかったからかもしれない。
とすると沖縄の「今バナキュラー」をどう考えるべきか。世界を飲み込んだモダニズム(モダニズム的?という別の問題もありそうだ)は、バナキュラーとして根付けないのか。
しかし建てられてから47年を経た聖クララ教会が、すっかり地域に溶け込み、愛されているのはなぜか。単純に僕は思う。時代や時間を超えた建築だからだ。そしてこれは建築家の存在を抜きにしては考えられない。

「今バナキュラー」などとMさんが言うものだから、これから僕は、建築を創ることと建築が生まれることを、社会構造や文化創造のなかで考えて行かなくてはいけなくなったような気がしている。そして改めて言うまでもないのだが、モダニズム建築とは何か、だ。
Mさんはとても大切な、しかしとんでもない課題を僕に与えてくれたものだ。
でもこれは言いだしっぺのMさんの課題でもあるんじゃないの!