日々・from an architect

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堀口捨己博士の「草 庭」と出雲大社本殿(2) 僕の明大での受講

2016-03-09 17:22:31 | 素描 建築の人

堀口先生の肩書は「建築家」だが、「草 庭」を紐解いていくと、ついついサテ!と考えてしまう。外廊下が印象的な堀口先生の設計された白亜の駿河台校舎の教室ではあったが、建築家堀口捨己ではなく、建築史の研究者としての講義だったとの思いが強い。
ことに出雲大社論考は印象深く、22年前になる1994年の4月、JIA(日本建築家協会)の機関誌Bulletin4月号に記載した「60年+1秒だよ」というタイトル。このタイトルはお仲人をしていただいた板画家棟方志功先生との出会いにも触れて付けたものだが、「一年間出雲大社の講義だけ」と14行目に副題を付けたエッセイには、読み返しているとその時の堀口先生の姿が蘇ってくる。

「2部にはゼミがなかったし、絶対休めない材料実験の講座を取らなかったので、ほとんどの授業を堀口捨己先生の設計した白色で端正な外廊下のある新築の校舎で受けた。この校舎が建築との出会いの始まりだったかもしれない。堀口先生には日本建築史を教わった。とはいっても先生は1年間を出雲大社の講義だけをなさったのである」と書いている。

しかしいま考えると果たして出雲大社だけ?と?マークをつけたくなるが、「一抱えもある資料を毎回お持ちになって〝学説はこうなっているけど私はそうは思わない〝と淡々とご自分の研究成果を話された。私は先生の話をそれほど面白いとも思わず影響を受けたとも思わないが、30年たった今,天にも届く壮大な社と、気の遠くなるような雄大な木造の階段の姿が、先生のお顔と共に思い浮かぶのは何故なのだろう」と書き記している。

そして後に出雲大社本殿の近くを掘削調査がされて、野太い丸太柱が出土されたことがあり、僕は密かに堀口先生に瞑目したことも思い出した。そしてちょっとつじつまが合わないが、先生にはどこかの五重塔の矩計図を描く授業を受け、綿密な修正指導を受けたことなども浮かび上がってきた。

後に関東甲信越支部の理事などを担うことになったJIAの機関誌でのこのエッセイ、狩野芳一先生が僕たちの入学と同時に東大から明大に来られた、とあり、昨年30年目の同窓会をやった時に、〝あの君たちがねえ″と一人前になった僕たちを見てつくづく感慨を覚えられたようである、と記す。

文学の道に行くはずだった僕が故あって建築への道を歩むことになったことを想いながら、学んだ先生方への想いも湧いてきた。
東大から理科大へ行かれた設備の斎藤平蔵先生が講師として僕たちを指導して下さったが、このエッセイには、「今でも熱交換原理がわからない僕たちなのに、授業の後銀座の樽平という飲み屋によく連れて行って下さり、ある時銀座の大通りで立小便をした」などと記載してある。無論先生が連れションをしたかどうかは全く記憶にないと結ぶ。

<写真・全て解体された堀口先生の駿河台校舎の写真が手元にないので、観てきた堀口先生の代表作常滑陶芸研究所・2006年2月4日撮影を掲載する。>



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