世の中は、なかなかわからないものである。どうなっているのか、さっぱりわからない、そうゆうところで、生きていると思う。
不潔恐怖というのは、子供のときはあまりないと思うけれど、なんだか段々歳を重ねると、そうでなくてもあり得るが、不潔はいやだ、と思うことがある。これが、見た目でも大問題で、そんなに気にしてどうする、他人からだとそう思えてしまう。かなり、汚いところでも平気のヘイで暮らしていたが、それでも多少はゴミなり、悪臭には気を使った。
それから、微生物のことを少し知ると、目に見えないものにおっかないものが多いこともわかってくる。さらに、植物などにも、その成分にこれは体によくないですよ、というものがある。よく、山菜を取って、それからキノコを食べて中毒を起こす。そうゆうものも多いと思う。それから、同じような、それは生き物ではないけれど、やはり目には見えないが物質として危険なものは多い。人工の物にも多い。さらに放射線というものは、やはり気を付けないといけないもの。
でも実際のところ、大体がさほどはきれいではないものの中で、暮らしている。掃除はする。洗濯もする。蚊がきたら蚊取り線香をたく。それでも、もうG虫にはお手上げである。色々やることはやるが、彼らも長い間生きてきているらしく、なかなかメゲナイ。多少、ペッタンコくっ付くという、そうゆものをしかけてみても、中に入っているのはたった一匹だけ、その周りをゆうゆうとG虫は闊歩する。夜の台所。ここに入ってはいけないと思う。卒倒する景色がある。キレイ好きの方は、特にのぞいてはいけない。
清潔恐怖症というのはどうか、そうゆうものがあるのか、やはりなんでもあるから、これもありそうだ。キレイすぎて居心地が悪い。なんだかその程度だとありそうである。ピカピカしている。ゴミ一つない。空気は適度に湿気を含み、しかし空気中の塵やら、細菌は、フィルタで濾過されている。あまりにキレイで、虫も寄り付かない。なんだか、やはりイゴゴチが悪い。
でも、こうゆう場合はかなりある。ガラスといっても窓ではない。手鏡でもなく、それからTVの、PCの画面でもない。光学関係となると、塵の芥の一つもあってはならない、そうゆう風に考えることは多い。なんとも不幸な癖とでも言ったらいいか、そうゆうものに、昔から取り付かれていて損をした、そうゆう感想を持っている。望遠鏡なり、双眼鏡なり、特に前者が多いが、それにゴミが付いているので許せないという気がしていて結局、よりだめによりゴミが付く、そうゆうものにしてしまった。少し大人びると、もうそうゆうこともなくなってと言いたいところだが、これはそれにかまっている時間もなかったから、ともいえる。
今は、なにが問題か、というと、汚いところはいくらでもあるが、たまにガラスのコップを磨いたりする。これも、何も付けずナイロンたわしや、金属のたわしで磨いたりする。すると、結構キレイになってやらないよりはましだ、など思う。他は、やっぱり塵まみれに近い。でも、カメのCCDは、たまにブロアで風をおくったりもする。一々清掃のために工場に送っても、結構ゴミは残ったりもして、これをやる。あるとき、これがうまくいった。それで、さらに不潔恐怖は増したのか、ちょっとしたゴミが付いているのがわかって、これもブロアでほいほいゴミが取れると思ったが、結果はその反対になってしまった。
だから私は思う。清潔恐怖というものがあってもいいと。多少の汚れは当たり前であると。それにしても、どうしようもない問題を抱えている、そうゆう思いでいるのは確かだなー。
大きな木があって、そこに大きな白い花は咲いていた。見たことはある。そうゆうもの。
かなり大きな花で、この画像からはその迫力は伝わらない。でも、結構白い。
部分を切り出しているが、この作業をやっていると、この木は熱帯のジャングルに生えているような錯覚を覚えるような気がしてきた。濃い緑、作りの大きい花の器官。
ジャングルでの、鳥の声、森の木々の上に生活する動物の声、なんだか知らない両生類の叫び声が聞こえそうで、大型のカエルだ、この濃い緑はなかなかいい感じもする。少し行けば、そこは涼しげな田んぼなのだが。
不潔恐怖というのは、子供のときはあまりないと思うけれど、なんだか段々歳を重ねると、そうでなくてもあり得るが、不潔はいやだ、と思うことがある。これが、見た目でも大問題で、そんなに気にしてどうする、他人からだとそう思えてしまう。かなり、汚いところでも平気のヘイで暮らしていたが、それでも多少はゴミなり、悪臭には気を使った。
それから、微生物のことを少し知ると、目に見えないものにおっかないものが多いこともわかってくる。さらに、植物などにも、その成分にこれは体によくないですよ、というものがある。よく、山菜を取って、それからキノコを食べて中毒を起こす。そうゆうものも多いと思う。それから、同じような、それは生き物ではないけれど、やはり目には見えないが物質として危険なものは多い。人工の物にも多い。さらに放射線というものは、やはり気を付けないといけないもの。
でも実際のところ、大体がさほどはきれいではないものの中で、暮らしている。掃除はする。洗濯もする。蚊がきたら蚊取り線香をたく。それでも、もうG虫にはお手上げである。色々やることはやるが、彼らも長い間生きてきているらしく、なかなかメゲナイ。多少、ペッタンコくっ付くという、そうゆものをしかけてみても、中に入っているのはたった一匹だけ、その周りをゆうゆうとG虫は闊歩する。夜の台所。ここに入ってはいけないと思う。卒倒する景色がある。キレイ好きの方は、特にのぞいてはいけない。
清潔恐怖症というのはどうか、そうゆうものがあるのか、やはりなんでもあるから、これもありそうだ。キレイすぎて居心地が悪い。なんだかその程度だとありそうである。ピカピカしている。ゴミ一つない。空気は適度に湿気を含み、しかし空気中の塵やら、細菌は、フィルタで濾過されている。あまりにキレイで、虫も寄り付かない。なんだか、やはりイゴゴチが悪い。
でも、こうゆう場合はかなりある。ガラスといっても窓ではない。手鏡でもなく、それからTVの、PCの画面でもない。光学関係となると、塵の芥の一つもあってはならない、そうゆう風に考えることは多い。なんとも不幸な癖とでも言ったらいいか、そうゆうものに、昔から取り付かれていて損をした、そうゆう感想を持っている。望遠鏡なり、双眼鏡なり、特に前者が多いが、それにゴミが付いているので許せないという気がしていて結局、よりだめによりゴミが付く、そうゆうものにしてしまった。少し大人びると、もうそうゆうこともなくなってと言いたいところだが、これはそれにかまっている時間もなかったから、ともいえる。
今は、なにが問題か、というと、汚いところはいくらでもあるが、たまにガラスのコップを磨いたりする。これも、何も付けずナイロンたわしや、金属のたわしで磨いたりする。すると、結構キレイになってやらないよりはましだ、など思う。他は、やっぱり塵まみれに近い。でも、カメのCCDは、たまにブロアで風をおくったりもする。一々清掃のために工場に送っても、結構ゴミは残ったりもして、これをやる。あるとき、これがうまくいった。それで、さらに不潔恐怖は増したのか、ちょっとしたゴミが付いているのがわかって、これもブロアでほいほいゴミが取れると思ったが、結果はその反対になってしまった。
だから私は思う。清潔恐怖というものがあってもいいと。多少の汚れは当たり前であると。それにしても、どうしようもない問題を抱えている、そうゆう思いでいるのは確かだなー。
大きな木があって、そこに大きな白い花は咲いていた。見たことはある。そうゆうもの。
かなり大きな花で、この画像からはその迫力は伝わらない。でも、結構白い。
部分を切り出しているが、この作業をやっていると、この木は熱帯のジャングルに生えているような錯覚を覚えるような気がしてきた。濃い緑、作りの大きい花の器官。
ジャングルでの、鳥の声、森の木々の上に生活する動物の声、なんだか知らない両生類の叫び声が聞こえそうで、大型のカエルだ、この濃い緑はなかなかいい感じもする。少し行けば、そこは涼しげな田んぼなのだが。