昼に少し近しい人と話しをしていると、ギョロっと睨まれて、これはだめ、負けている、というか、より一層きびしい生き方をしていることが感じられて、それ以上の言葉は出なかった。最後はありがたく、お礼をいって、これはその話しとは別のものであって、当然ではあった。まったく、世の中は、きびしいな。
どうもこうなると、この地平上のことではなく、その他のところでのことを考えてみたくなる。まずは、海だ。海は近いが、最近は行っていない。山の高いところは、3000mを越す。そのまま、斜面は続いて日本海に至るまでその傾きは続くようで、海の深さも、山の高さ以上にあるようである。この海に、ブリという魚がやって来る。よくやって来てくれましたという感じである。しかし、ブリというものも高級魚であって、それを口にすることはない。
私は、どっちかというと、サンマ、イワシ、それから、サバといった魚が好きで、この辺りで取れるのは、サンマはないかも知れない。はっきりしない。サバもわからない。ときに、カツオの仲間の魚があがる。それを聴く、見ることがある。それ以外は、イカが好きである。このイカも昔はコレステロールが高いとかいわれた。まったく持って信じられない話しだ。イカくらいおいしいものはないと一人思っている。特にむつかしいイカでなく、普通のイカでいい。それが、しかしなかなか取れないという。海、というと、そこに打ち上げられるものがある。でも、最近は砂浜がなくなってという悲しい話しを聞く。川からの土砂が流れなくなったのが原因ともいう。この先の海は深く、この問題は深刻。
川。あるいは、河。一級河川というのが結構あって川中島に住んでいる。この河に昔であるが、その土手を走ったり、チャリンコで、それから、その水の流れを見たりもした。ある河では、アユが放流される。それ以外に、河というとその先の山々が思い出される。そうゆういくつかの川も、その最後、分水嶺にぶつかるはずだが、道とか鉄道は、少しそこから離れて、峠を越えてゆく。一体に、本当の分水嶺というものはどうゆう風になっているか、そこをまたいで、道が鉄道が、走り、ひかれることがあるのだろう。
高山本線は、あるところからまた河に出るはずで、その河は、もう日本海には流れ出ず太平洋側に向かう。そうゆう川沿いを走る鉄道はまた道は多い。
鉄道だと、かなり河のそばを走るということが多そうだ。その辺りを、あまりに恐怖というものも体験したことがない、子供なり、また鉄道好きの方がその景色に見とれるというのは、十分に納得の出来るものである。雪解けの水が、今なお激しく流れている、そうゆう河は、ほとんどエメラルドグリーンといっていい水の色をしている。それを、油の切れたギシギシいう記憶の扉を開くと、かすかではあるがその残渣みたいなものが残っていることを確かめることが出来る。そうゆうものも見ていない時間が長い。
未来というものがわかったら、どうなるか。きっとかなりがっくり来るかも知れない。しかし今のところ未来にも行けないし、また過去の世界に戻ることも出来ないようだ。時計は、過去から未来に向けて動くというのは当たり前のようで、実際のところは私にはわからない。時間の対称性というものもあるようで、多分このことを理解することはないだろうが、だから必ずしも人は過去にいけないということにはならないのかどうか、ただ、時間の対称性とこれとがどう結びつくか、この辺りもわからない。
星の世界であると、この過去が活躍する。太陽の光さえも、ここに届いているものが今その瞬間に太陽からやって来たものではない。大体、8分と20秒くらいの時間がかかっている。まったく持って不思議な感じがする。人が、自分を見るのには人工の灯り以外では、やはり太陽光が必要で、しかしその光は、過去の太陽の光で、歴史があるのだ。その歴史とともに、人は現代を見ている。それから、太陽を見ることはないが、その太陽も過去の太陽である。
少し遠いところへ行く。そうゆう思考は可能で、もしも10光年離れているところに、人が住める惑星があると、その人は、10年前の地球を見ている。多分、暗くて見えないだろうが、理屈では昔の地球の情報がその回りにある。
今とは何かが問われそうだが、これは今の今で、それ以外にもう少し先の時間というものは、どこにもないのだろう。この辺りは少し寂しい。過去の姿を見ている人は、すでにその未来がある時間生きていることになるが、残念ながらやはり、その未来はその時間がたたないとやって来ない。一番の未来は、やはり自分自身の時間であるようだ。
夢の話しは終わって、過去のこの辺りの風景。
イネの苗は、カーブを描きつつ、植えられている。一直線ではなかった。おもろいですね。
麦は白くなり、イネは緑が濃くなる。少し、ビールが飲みたい、そうゆう気温。
大木の今。この木はかなりの年数生き続けていると思う。どのくらいの年数だろうか。この木が何か歴史を語ることがあれば面白いのだが。
どうもこうなると、この地平上のことではなく、その他のところでのことを考えてみたくなる。まずは、海だ。海は近いが、最近は行っていない。山の高いところは、3000mを越す。そのまま、斜面は続いて日本海に至るまでその傾きは続くようで、海の深さも、山の高さ以上にあるようである。この海に、ブリという魚がやって来る。よくやって来てくれましたという感じである。しかし、ブリというものも高級魚であって、それを口にすることはない。
私は、どっちかというと、サンマ、イワシ、それから、サバといった魚が好きで、この辺りで取れるのは、サンマはないかも知れない。はっきりしない。サバもわからない。ときに、カツオの仲間の魚があがる。それを聴く、見ることがある。それ以外は、イカが好きである。このイカも昔はコレステロールが高いとかいわれた。まったく持って信じられない話しだ。イカくらいおいしいものはないと一人思っている。特にむつかしいイカでなく、普通のイカでいい。それが、しかしなかなか取れないという。海、というと、そこに打ち上げられるものがある。でも、最近は砂浜がなくなってという悲しい話しを聞く。川からの土砂が流れなくなったのが原因ともいう。この先の海は深く、この問題は深刻。
川。あるいは、河。一級河川というのが結構あって川中島に住んでいる。この河に昔であるが、その土手を走ったり、チャリンコで、それから、その水の流れを見たりもした。ある河では、アユが放流される。それ以外に、河というとその先の山々が思い出される。そうゆういくつかの川も、その最後、分水嶺にぶつかるはずだが、道とか鉄道は、少しそこから離れて、峠を越えてゆく。一体に、本当の分水嶺というものはどうゆう風になっているか、そこをまたいで、道が鉄道が、走り、ひかれることがあるのだろう。
高山本線は、あるところからまた河に出るはずで、その河は、もう日本海には流れ出ず太平洋側に向かう。そうゆう川沿いを走る鉄道はまた道は多い。
鉄道だと、かなり河のそばを走るということが多そうだ。その辺りを、あまりに恐怖というものも体験したことがない、子供なり、また鉄道好きの方がその景色に見とれるというのは、十分に納得の出来るものである。雪解けの水が、今なお激しく流れている、そうゆう河は、ほとんどエメラルドグリーンといっていい水の色をしている。それを、油の切れたギシギシいう記憶の扉を開くと、かすかではあるがその残渣みたいなものが残っていることを確かめることが出来る。そうゆうものも見ていない時間が長い。
未来というものがわかったら、どうなるか。きっとかなりがっくり来るかも知れない。しかし今のところ未来にも行けないし、また過去の世界に戻ることも出来ないようだ。時計は、過去から未来に向けて動くというのは当たり前のようで、実際のところは私にはわからない。時間の対称性というものもあるようで、多分このことを理解することはないだろうが、だから必ずしも人は過去にいけないということにはならないのかどうか、ただ、時間の対称性とこれとがどう結びつくか、この辺りもわからない。
星の世界であると、この過去が活躍する。太陽の光さえも、ここに届いているものが今その瞬間に太陽からやって来たものではない。大体、8分と20秒くらいの時間がかかっている。まったく持って不思議な感じがする。人が、自分を見るのには人工の灯り以外では、やはり太陽光が必要で、しかしその光は、過去の太陽の光で、歴史があるのだ。その歴史とともに、人は現代を見ている。それから、太陽を見ることはないが、その太陽も過去の太陽である。
少し遠いところへ行く。そうゆう思考は可能で、もしも10光年離れているところに、人が住める惑星があると、その人は、10年前の地球を見ている。多分、暗くて見えないだろうが、理屈では昔の地球の情報がその回りにある。
今とは何かが問われそうだが、これは今の今で、それ以外にもう少し先の時間というものは、どこにもないのだろう。この辺りは少し寂しい。過去の姿を見ている人は、すでにその未来がある時間生きていることになるが、残念ながらやはり、その未来はその時間がたたないとやって来ない。一番の未来は、やはり自分自身の時間であるようだ。
夢の話しは終わって、過去のこの辺りの風景。
イネの苗は、カーブを描きつつ、植えられている。一直線ではなかった。おもろいですね。
麦は白くなり、イネは緑が濃くなる。少し、ビールが飲みたい、そうゆう気温。
大木の今。この木はかなりの年数生き続けていると思う。どのくらいの年数だろうか。この木が何か歴史を語ることがあれば面白いのだが。