光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

海のもの、川のもの、宇宙のもの

2008-06-07 19:05:54 | 散策
  昼に少し近しい人と話しをしていると、ギョロっと睨まれて、これはだめ、負けている、というか、より一層きびしい生き方をしていることが感じられて、それ以上の言葉は出なかった。最後はありがたく、お礼をいって、これはその話しとは別のものであって、当然ではあった。まったく、世の中は、きびしいな。

  どうもこうなると、この地平上のことではなく、その他のところでのことを考えてみたくなる。まずは、海だ。海は近いが、最近は行っていない。山の高いところは、3000mを越す。そのまま、斜面は続いて日本海に至るまでその傾きは続くようで、海の深さも、山の高さ以上にあるようである。この海に、ブリという魚がやって来る。よくやって来てくれましたという感じである。しかし、ブリというものも高級魚であって、それを口にすることはない。
  私は、どっちかというと、サンマ、イワシ、それから、サバといった魚が好きで、この辺りで取れるのは、サンマはないかも知れない。はっきりしない。サバもわからない。ときに、カツオの仲間の魚があがる。それを聴く、見ることがある。それ以外は、イカが好きである。このイカも昔はコレステロールが高いとかいわれた。まったく持って信じられない話しだ。イカくらいおいしいものはないと一人思っている。特にむつかしいイカでなく、普通のイカでいい。それが、しかしなかなか取れないという。海、というと、そこに打ち上げられるものがある。でも、最近は砂浜がなくなってという悲しい話しを聞く。川からの土砂が流れなくなったのが原因ともいう。この先の海は深く、この問題は深刻。

  川。あるいは、河。一級河川というのが結構あって川中島に住んでいる。この河に昔であるが、その土手を走ったり、チャリンコで、それから、その水の流れを見たりもした。ある河では、アユが放流される。それ以外に、河というとその先の山々が思い出される。そうゆういくつかの川も、その最後、分水嶺にぶつかるはずだが、道とか鉄道は、少しそこから離れて、峠を越えてゆく。一体に、本当の分水嶺というものはどうゆう風になっているか、そこをまたいで、道が鉄道が、走り、ひかれることがあるのだろう。
  高山本線は、あるところからまた河に出るはずで、その河は、もう日本海には流れ出ず太平洋側に向かう。そうゆう川沿いを走る鉄道はまた道は多い。
  鉄道だと、かなり河のそばを走るということが多そうだ。その辺りを、あまりに恐怖というものも体験したことがない、子供なり、また鉄道好きの方がその景色に見とれるというのは、十分に納得の出来るものである。雪解けの水が、今なお激しく流れている、そうゆう河は、ほとんどエメラルドグリーンといっていい水の色をしている。それを、油の切れたギシギシいう記憶の扉を開くと、かすかではあるがその残渣みたいなものが残っていることを確かめることが出来る。そうゆうものも見ていない時間が長い。
  
  未来というものがわかったら、どうなるか。きっとかなりがっくり来るかも知れない。しかし今のところ未来にも行けないし、また過去の世界に戻ることも出来ないようだ。時計は、過去から未来に向けて動くというのは当たり前のようで、実際のところは私にはわからない。時間の対称性というものもあるようで、多分このことを理解することはないだろうが、だから必ずしも人は過去にいけないということにはならないのかどうか、ただ、時間の対称性とこれとがどう結びつくか、この辺りもわからない。
  星の世界であると、この過去が活躍する。太陽の光さえも、ここに届いているものが今その瞬間に太陽からやって来たものではない。大体、8分と20秒くらいの時間がかかっている。まったく持って不思議な感じがする。人が、自分を見るのには人工の灯り以外では、やはり太陽光が必要で、しかしその光は、過去の太陽の光で、歴史があるのだ。その歴史とともに、人は現代を見ている。それから、太陽を見ることはないが、その太陽も過去の太陽である。
  少し遠いところへ行く。そうゆう思考は可能で、もしも10光年離れているところに、人が住める惑星があると、その人は、10年前の地球を見ている。多分、暗くて見えないだろうが、理屈では昔の地球の情報がその回りにある。
  今とは何かが問われそうだが、これは今の今で、それ以外にもう少し先の時間というものは、どこにもないのだろう。この辺りは少し寂しい。過去の姿を見ている人は、すでにその未来がある時間生きていることになるが、残念ながらやはり、その未来はその時間がたたないとやって来ない。一番の未来は、やはり自分自身の時間であるようだ。

  
  夢の話しは終わって、過去のこの辺りの風景。



  イネの苗は、カーブを描きつつ、植えられている。一直線ではなかった。おもろいですね。


  

  麦は白くなり、イネは緑が濃くなる。少し、ビールが飲みたい、そうゆう気温。




  大木の今。この木はかなりの年数生き続けていると思う。どのくらいの年数だろうか。この木が何か歴史を語ることがあれば面白いのだが。  

ガクアジサイの明暗

2008-06-07 16:11:51 | 植物・花(夏)
  お天気は、曇りがちで、少しむし暑い。
  日が出ている時間もあって、その後は曇ってしまった。
 
  蚊取り線香をたいている。蚊が入って来そうで
  それからこれの匂いは普段はあまりよくはないが、
  今日はなぜか少しこの匂いがいいようである。
 
  ガクアジサイか、ヤマアジサイか、というものの
  変化を追っています。
  これしかない、というのもありますが。




  全貌です。もう少し絞ればよかった。それだけの光の量があったのに。




  これは、他の木の下になって、ちょっと暗い。
  装飾花の様子。




  一枚目の写真と同じ花です。中央の小さな、たくさんの蕾の色を
  少しだけ強調しています。

久しぶりのような朝日

2008-06-07 07:04:11 | 散策
  朝のお天気、晴れ、雲が出て来て太陽は見え隠れする。思ったより、天気は不安定。風は、弱め。穏やか。アメダスの6時の気温18.1℃。気圧は1012.4hPa。室温20℃、気のせいか少し暖か。

  外に出て、アジサイの様子を見る。西側に向いて大きくなってきている。反対側には、他の木々があってそちらが東。朝日は当たらない。目でみると、白いガク、その花がまことに美しく揺れてもいない。でも、まだ明るさが足らないようである。この条件がこのアジサイをきれいに見せているようで、なかなか思うようにはゆかない。アジサイは、お日様が嫌いなのかどうか、その辺りははっきりしない。しかし日影でも十分に生長して、美しい花を咲かせる。雨に、輝く花。

  ヒゲナデ、もういいかなー。タネで播いた、そこから出て来た芽というのが、まったく変化がないくらいに、大きくはならない。他にも、雑草の芽があって、それもあまり大きくなっていない。気温が低い。日もあまり当たっていない。秋播きで、冬を越して、となると地面では無理だ。しかし、他のところで、この花を見ている。そこはプランタでもなく、鉢でもなく、普通の地面である。考えてみると不思議だ。どうも秋に播いたタネが大きくなって咲いたとしか思えない。春に播いてということはない。世の中には、花のマジックを使う人がいる。

  きのうの宵の西の空に、月が見えていた。きれいな、晴れた空であったから、これも美しかった。その月が沈むだろう位置は、その少し前に沈んでいった太陽のそれとほぼ同じになるだろうと予想された。夏至が近い。もう太陽は、あまりに沈む位置を変えることはないだろう。この辺りで、しばらくはゆっくりしている。その位置を、去年も確かめた、そうゆう記憶がよみがえってきた。それにしても、半年たつのは早いな。今度は、また太陽は、より高度を下げる。昼の時間は短くなる。でも、気温は、まだまだ上がって、そのうち、やっぱり暑い、暑いといって、団扇をパタパタやるのだろう。
  夏か、何があるかな。まずは、蚊取り線香を買っておかないといけないだろう。それでも、たくさんあちこち、蚊に喰われれるだろう。きのうも喰われた。その蚊が蜘蛛の巣に引っかかっている、そうゆうものも見る。しかし蚊の数は多い。
  あるバケツに生き物がいる。そこに水を入れていて、すると何かが蠢いていた。しばし考えて、それが多分「ボウフラ」である、そう思った。なるほど、蚊はちゃんと卵を産んでいる。

  月の話しだった。もう少し時間がたつと、星空になった。夏になると、さすがに寒いというわけにもゆかず、星をシンミリと眺めてみたい気もする。その時間がいったいいつになるか、今からが梅雨入りという時間である。今年もあまり、星空を見ることはなさそうだなー。