光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

待ち時間の自由度

2008-06-04 18:53:15 | 散策
  何かを待っていて、嬉しいというものは少ない。もうないのではないか、というくらい少ない。
  バスが、そばを走っている。そこまでは、歩いて6、7分であるが、そこまでに行く時間であって、加えてやっぱり5分早く行きたい。それでも、バスはやって来ない、そうゆうことも過去にあったかも知れない。ここのバス停ではないが、他では何度かあった。だが、そのバスというのも20分か、30分待てば、次のがやって来る。でも、ただ手持ち無沙汰で待つというのも辛い。さらに乗り継ぎの問題もあって、この小さな変化が、その後に大きな支障を起こすこともある。
  ここのバス停だと、通勤通学時間というのを除くと、2時間に一本という場合もある。だから、遅刻は出来ない。

  病院での待ち時間も、あまり楽しいものではない。なるべくなら、さっさと済ませてしまいたい。そうゆうものなのであって、話し込んだり、あるいは検査がたくさんということはあまりない。それゆえほどほどに早くゆき、それでもしばらくは待つ。どうも一番でなくてもいいが、なかなかその数字には当てはまらない。ときどき、さっさと順番が回ってきて、これはよかったと思うこともあったが、しかしそれも何かの幸運が呼び込んだものらしく、ある程度待つことが当たり前になりつつある。

  今日もそうゆうめぐり合わせで、ある方の番が来てぴたっと動きが止まった。人の数は増えてくる。それから、他の科の方の名前はどんどん呼ばれて、しかし、自分の順番は来ない。これがしかし当たり前とわかっていながら、待っているのは辛い。
  何か本でも読めばいい。しかしそこは、薄暗い。皆さん、ただ、順をじっと待っているようで、その平均は何分くらいだろうか。何を考えているのか、そこまで知りたいとは思わないが、この病院での待ち時間はかなり特異なもので、なんだか時計の動きは、変かも知れないが、最近は早く動くように思えてくる。最初は、ここの時計の進み方はやけに遅いという抽象的な感想を持っていたが、時計を見ていると今度は、それがどんどん動いて行くのがわかってくる。もう10分たった。11分たった、そうゆう感じになってくる。時計を見るとさっきから20分もたっている。そんなにたったのに、まだ変化がない。時計の動きは早く思えるが、
  今度は自分が何かを考えたり、あるいはこの先の予定を考えるとなると、やけにその行為をしているときの時計の動きは遅いように思える。結局のところ、病院での時間の進み方が遅いというのは、待ち時間を自分のために何かをやる、自分のために使う、そうゆう行為が出来ないからだ、ということかと思う。これも、集中力のなさであろう。もしも、想像力豊かな人がいれば、その時間を有効に使うことが出来て、待ち時間も苦にならないのかも知れない。
  そういえば、昔は、帰省するとかで、電車の1時間や、それ以上の時間を待つことは、大して苦痛ではなかった。この先の楽しみもあったし、一応はその時間というのも決まっている。12時23分発なら、それから大きくずれることはない。その時間までは、プラプラも安心して出来る。

  どのくらい待ったか、座っているのもしんどく思えて、その席を立とうとしたときに、偶然だろうが、扉が開いた。アリャマーという感じだ。それから、しばらくして、ある番号が呼ばれその方はおられないようで、その次が私の番号であったから、さっと診察室に入って行く。そうゆうことになってしまうと、それまでのことが嘘のように、気分も晴れ晴れとして、そしてその後の事務処理もさっさと進む。
  この先は、薬局に行かないといけないが、そこでの時間は結構ゆったりしていてこの違いはなんだろうか。まずは、水を飲んだ。それからお金を払ってそこを退くわけだが、外に出てみると、少し爽やかな風も吹いている。大体がこうゆう風になるといいが、そのうちにそうもいかなくなるのか、ふとまた不安がよぎる。

  たまには、もうだいぶ馴染みになったが、知らないところを歩くのはなかなか気持ちのいいものである。もう寒くはない。凍えることも、雪にさらされることもない。なんだか少し元気さえ出てくる。よかった、これで少しの時間見物というものも出来そうである。もう少し、元気があればいいのだが、それもそのうちどうなるか、どっちに転ぶかわからないが、もう先のことを考えるのは止めよう。


  涼しげなものもある。こうゆうものもあるのか、街のある場所。




  へーっという感じであるが、水が流れているのである。中央に向かって流れている。




  これも水ですね。左側の少しへこんだところから、水は先に流れている。普段、歩いていると、これを見ることはなさそうだ。


 
 
  これはわかりやすいですね。夏だと、ここに飛び込みたいかも。

  久しぶりの、ライトレール。




  0600形の赤、0601。  

星の花

2008-06-04 16:09:18 | 散策
  少しムッとした、暖かいお天気。
  暖かいで、暑いとはまだ書けない、この感じ。

  体だけでも、暖かくないと、やってられない。
  いろいろ寒いことはたくさん。段々歳とって、あーそれが実感
  される、情けなさ。

  道を歩いていても、一瞥くらいはするが、気にしてなかった。
  そうゆうものが、なぜか呼んでいるようで、
  それを眺めてみた。



  全体の半分以上は現われていると思うが、まあるい植物で、
  ご覧のとおりかなり細かく、同じような構造が繰り返されている。
  目視で、直径が60cmくらいの球に近い。全体を撮るべきであった。




  接近してみる。拡大される。星のような花がはっきりしてきた。




  さらに接近してみる。6つの花弁。まさしく星。蕾のものも多い。
  この蕾がもっと出てきたら、どうなるだろうか。
  また行ってみないといけないと思った。

涼しげな朝

2008-06-04 07:01:52 | 散策
  朝のお天気、曇り。風もなく、雨の降る気配もない。少し涼しいくらいで、こうなると太陽が恋しい。アメダスの6時の気温、17.3℃、気圧は1015.3hPa。室温20℃。ちょうどいいかな。

  朝に外に出て、アジサイの様子をみる。もう外側の、花のようで花ではなさそうな、そのものは、ほぼ完成してなかなかかわいい。かわいいというか、美しい。そんなものが、まだこの世にある。なんだか感動。それにしても、自分と比べてみると、自分は、真っ黒だべ、と思うが、これはある程度生きていると、垢とかその他塵芥、ゴミも油もたまるもので、これの自浄作用は、ほとんどない。

  その外であるが、去年は見なかったツユクサが出て来ている。ムラサキツユクサとは、全然似ていない。花もずいぶんと違うようだ。そのムラサキツユクサも、あまり好かれないのか、雑草として扱われるようで、気の毒である。ツユクサとなると、雑草そのものである。この植物があちこちに出てくると、やはり嬉しい。小さな花を咲かせるし、その花もかわいいといっていい。どうも、あまりにまわりの世界が歪んで、あるいは黄ばんで見えるからか、こうゆうものの美しさが目にしみる。心にもしみる。脳は、この花を要求しているようだ。ツユクサは、まだ咲いていないが、
  ドクダミは、あちこちで咲いているが、これも私はかなり好きだ。匂いもさほど感じない。鼻炎だからかなー。キュウリとか、トマトがだめという方は多いが、多く方は、その匂いがいやであるらしいい。
  また、野菜嫌いという人も多いようだが、ある人の赤ちゃんというか、もう少し大きくなって一応ものも食べられるというときに、うちに遊びに来ていたときに、私の母はニンジンなどを小さく切って、まだ小さいその子供に与えていた。子供だからか、赤ちゃんに近かったからか、そのニンジンやら、その他の生で食べられるものを、子供は嫌がりもせずに食べていた。もうかなり昔の話しで、その子供だった子供は、今はもう遊びにも来ない。

  それで、ドクダミの匂いに戻ると、かなり前にはドクダミを干してということをやった。しかし匂いはあまり感じなかった。そのドクダミの茶も飲んだが、そのうち、その乾燥ドクダミはカビが生えて、もうそんなこともやらなくなった。
  ドクダミの花も非常に清楚で、またかなり美しいものである。花弁がまことに白い。こうゆうものを見ると、ほぼ完璧というそうゆう花を探したくなるが、それが少ない。探しているうちに、目が回りそうにある。その点、ツユクサの花は大体が、特に傷みが目に付くことなく咲く。どの花もなかなかにいい。ただ、すぐに閉じてしまう。ちょっと気まぐれか。

  なんだか、バラバラの内容のものになってしまった。何もないというか、空っぽの頭から何かを書くのはむつかしい。そうでなくても、むつかしいが。