ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 116 ( 複雑な人間模様 )

2023-06-16 18:32:31 | 徒然の記

 〈  第二十一闋 朱器臺盤 ( しゅきだいばん )  「保元の乱」の複雑な内幕  〉

 皇太子だった頃の第七十一代後三條帝に、「桐壺剣 ( きりつぼのつるぎ )」 を渡さないと言って意地を通したのは、関白・太政大臣藤原頼通でした。今回の主人公となる関白・太政大臣は、彼のひ孫にあたる藤原忠実 ( ただざね ) です。

 彼に関する渡辺氏の解説を紹介します。

 「関白・太政大臣藤原忠実には、長男忠道 ( ただみち ) と次男頼長がいたが、どういうものか忠実は長男には競争心を示し、次男を愛するところがあった。」

 なぜこういうことになるのか、二人の息子に関する説明を並べてみました。

 〈 長男・忠通 〉

  ・母は、白川帝により忠通に下された従一位師子 ( もろこ ) 

  ・師子は、右大臣源顕房 ( あきふさ ) の娘

  ・忠実に腹を立てられた白川帝が摂政を辞めさせ、長男の忠通に代えられた

  ・しかし忠通は遠慮して、父の赦しを乞うという温厚な長者の風があった

  ・天皇のご意向であるため、最終的には摂政になった

 〈 次男・頼長 〉

  ・母は、土佐守・藤原盛実 ( もりざね ) の娘とのみ記され名前不詳 

  ・頼長は幼い頃より才気が走り、他人を傷つけることが多かった

  ・当時の宮廷人は、左大臣であった彼を「悪左府」と言っていた

  ・父の忠実は、この頼長を偏愛した

 つまり二人の息子は、別々の母から生まれた異母兄弟でした。白川帝が忠実に下された師子は帝のお手付きの女性だったと言い、頼長の母は父の妾という説明があります。当時の宮廷と貴族社会の風習とは言いながら、なんとも違和感のある人間関係です。

 下世話な推測しかできませんが、忠実にしてみれば自分を無下にした白川帝の下された妻師子の子より、自分の妾の子である次男頼長の方が可愛くなったのではないかと、そんな気がします。

  第二十一闋のサブタイトル〈「保元の乱」の複雑な内幕  〉の詩を理解するには、乱の背景となる宮廷と藤原一族の複雑な内情知ることが必要になります。渡辺氏がわざわざ〈複雑な内幕〉と書いている通り、背景に関する解説はまだ続きます。

 「7人の天皇に関する概要説明」と「藤原忠実親子の概要説明」が終わり、今度は再び「白川天皇を中心とする宮廷の説明」を紹介します。この三つの説明が終わらないと、頼山陽の詩の解説が始まらないのですから、〈複雑な内幕〉の言葉通りのややこしさです。

 「まず例によって、皇統系図を見ながら述べてみよう。」

 本の中には皇統系図がありますが、説明が簡潔なので図を見なくても状況が掴めます。

 「この系図の中で、異様な点に目をつけよう。それは第七十二代白河天皇とその孫の第七十四代鳥羽天皇が、つまり祖父とその孫が同じ女性と関係していることである。」

 その女性というのが、大納言・藤原公実 ( きんざね ) の娘璋子 ( たまこ )ですが、ウィキペディアで調べますとこの人は、鳥羽天皇の皇后と説明されていました。この女性が白河天皇の愛妾だった事実については省かれ、複雑な説明は頼山陽の詩だけのようです。

 「白河天皇は、中宮・藤原賢子 ( かたこ ) を愛されていた。」

 賢子 ( かたこ )という人は、忠実の父師通 ( もろみち ) の姉ですから、忠実にとっては伯母にあたる人です。藤原一族の「後宮政策」によって皇后になったのでしょうが、白河天皇が一途に愛されたというのですから、美しい人だったことがうかがわれます。

 「ところが彼女は、二十八才で亡くなった。この時白河天皇は彼女の遺体を抱いて離そうとしなかった。廷臣が、〈 王者は死者を近づけずと申します。早く遺体を別宮へ移してください。〉と言ったが、白河帝は〈 私が新しい例を作るのだ。 〉と言われ、言うことを聞かれなかった。」

 「火葬の後も悲嘆のあまり、眠らず食せずという風で、諸儀式にも出られず、毎月仏像を作って弔われたという。つまり白河天皇は、純情な方だったのである。」 

 ここまでの説明では、藤原璋子 ( たまこ ) の名前は出てきません。純情な天皇の前に璋子がどのようにして現れてくるのか。これも複雑な話のため、氏の説明を紹介するにはスペースが足りません。面倒になった方は引き止めませんので、次回以降をスルーしてください。

コメント
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