渡部氏の著書『日本史の真髄』の書評が、100回を超えました。次は
〈 第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず ) 藤原時代の終焉 〉です。第二十闋に入る前に、自分の気持ちを一言申し上げようと思います。長いシリーズを続けながら、自分が氏に学んでいると考えておりますのは、だだひとつです。
「私は師である渡部氏から、日本人の魂を学んでいる。」
「日本人の魂とは、すなわち〈 武士 ( もののふ ) の心 〉である。」
そう言う気持ちで氏の著書を読み、書評を続けて参りました。50回、100回、あるいは50年、100年と、切りの良いところになりますと、何かしら区切りのイベントが行われます。そこで私も100回を超えたところで、自分自身と訪問される方々へ「一言」申し上げる気持ちになりました。
〈 武士 ( もののふ ) の心 〉と、大上段に構えても、そんなものが自分たちに何の関係があるのかと、息子たちには通じません。私が死んだ後で読んでもらえないと困りますので、大雑把な話をいたします。
江戸時代の人口比率を調べましても、〈 武士 ( もののふ ) の心 〉が大多数の日本人に関係がないと証明しています。
武士・・ 約 7%
百姓・・ 約 85%
町人等・・ 約 5% ( 町人には商人と職人を含む )
江戸時代の人口は、3,100万人から3,300万人台で推移していたと言われていますが、別の数字もありますので分かり易いように4,000万人と仮定します。
こうすると武士の人口は約280万人、百姓の人口は約3,400万人となります。たった280万人の「武士の心」が、どうして日本人の心になるのか。むしろ日本は3,400万人の「百姓の心」の国ではないのかと、ボウフラ君のような意見を言う人間がいます。
こう言う人は、日本の歴史を知らず、日本人を知らない人間たちです。武士と百姓が峻別されるようになったのは、秀吉が「刀狩り」をした時からで、それ以前の百姓は戦があれば刀や槍を持ち戦争に参加していました。百姓の出身と言われている秀吉自身が、そうした半分武士の農民の出身者でした。
だからこそ幕末に、長州の高杉晋作が「奇兵隊」を創設して以来、正規の武士以外の庶民が軍を支える力となり、日清・日露ばかりでなく、大東亜戦争でも力を発揮しました。「武士の心」は、男女の別なく、日本の隅々にまで浸透していたことの証明です。