〈 第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず ) 藤原時代の終焉 〉
このような状況で皇太子となった尊仁 ( たかひと ) 親王、後の後三條帝に対して、関白太政大臣頼通は、「氏の長者」の娘の腹でない皇子に、「壺切剣 ( つぼきりのつるぎ ) 」は渡せないと頑張りました。
「尊仁親王は、子供の頃から英邁な方であった。」
これ以後は頼通でなく、むしろ尊仁 親王、後の後三條帝に対する氏の説明に興味を覚えました。
「七歳の時参内して後朱雀帝に拝謁した時、その進退する態度があまりにも立派であったので、そこに居合わせた者たちは、世にも稀なこととして感服したという話が残っている。」
「こういう方であったから、頼通が壺切剣を渡さないと言った時も、〈 剣などなくてもかまわない、自分は自分を頼るだけだ 〉と、おっしゃられた。この激しい気迫を頼山陽は、書き出しの二行で示している。」
剣壺切りは、私が「氏の長者」の娘から生まれていないため伝えるわけにゆかぬのだと、 それなら伝えてもらわなくともかまわない
私は剣など頼りはせぬ、 私がたよりにするのは自分自身だ
ある時罪人が逃げて、皇太子の住んでいる宮殿に逃げ込み、廷臣たちが大騒ぎしました。逮捕のため検非違使が宮殿を囲んだ時、皇太子はゆっくりと着替えをし、怪しいものは捕らえたかと検非違使の長に質問をして、捕らえたと聞くと動揺された様子もなく、自若として部屋へ戻られたそうです。
「このような具合であったが、宮廷の内外に皇太子の味方となるべき人もなく、孤立した状態であった。それで宮臣の中には、皇太子の地位が危ないのではないかと心配する者もあった。」
皇太子になったとはいえ、「氏の長者」の頼通に疎まれているのですから、廷臣の多くが敬遠していたと言います。
「英邁の気質の方であったが、異母兄の後冷泉帝の治世の23年間、皇太子として自分の日のくるのを、じっと待つよりほかしようがなかった。その間にも賢臣を側に置いて学問をし、天下の政治のあり方を考えたらしい。」
気力を無くし、嘆きつつ日々を送っても不思議でない境遇ですが、学問をしながら時を待つと言うのですから、なかなか芯の強い方です。それでも皇太子の側には三人の賢臣がいたとのことで、彼らに関する氏の説明を紹介します。
〈 源師房 ( つねふさ ) 〉
・学者であり和歌も巧みで、その才識を認められ頼通の養子となり、道長の本妻の娘尊子 ( たかこ ) と結婚した
・後に後三條帝にも重用され、右大臣、右近衛大将 ( うこんえのたいしょう ) となった
〈 源経信 ( つねのぶ ) 〉
・若手ながら博識多芸で和歌に長じ、当時藤原公任 ( きんこう ) と並び称された
・事に当たって鋭敏果断であり、多くの逸話を残している
〈 大江匡房 ( まさふさ ) 〉
・穎悟絶倫 ( えいごぜつりん ・知恵と才気が並外れている) で、神童の誉があった
・八代にわたる学問の家系であったが、彼の代になり三人の天皇の師となる天才を生み出した
・皇太子時代の後三條帝は頼通に睨まれていたが、それだけに力を込めて皇太子に尽くし、日夜側にいて文学を論講した
龍のような気質と才を持つ皇太子は、三人の賢臣に囲まれ、政権の座に着くまでの23年間構想を練られたそうです。
「後冷泉帝の跡を継いで、第七十一代後三條帝として即位なさった時は、気力も学力も充実した三十五歳の壮年であった。」
「それで関白頼通も遠慮するところがあり、新天皇の御践祚と共に引退したのである。跡を継いで摂政関白に任ぜられた頼通の弟の教通 ( のりみち ) が、本来なら立太子の時に奉るべき〈壺切剣〉を天皇に献上し、恭順の意を示した。このことを頼山陽は、次の二行でまとめている。」
「壺切剣」を頼りにされないわけは、とりもなおさずご自身が古代の宝剣「龍泉」のような方だったからである
皇太子は誠に龍のような方であり、まだ淵の中で躍っておられるのに、すなわちまだ即位されていないうちから、天子のいますところにかかるという五彩の瑞雲が、周りに立ち込めているような感じであった
疎んじていても、いざ即位されると遠慮して退位した頼通と、壺切剣を献上し恭順の意を表した教通を知りますと、そこにある、天皇と臣下の厳然とした違いを見せられます。俗世の実権を握り、位人心を極めても、天皇のお立場には侵すことのできない権威のあることが伝わってきます。
ここまでで、9行詩の4行の解説を紹介しました。スペースが無くなりましたので、残る5行は次回といたします。