ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 123 ( 我欲の学者、藤原通憲 ( 信西 ) )

2023-06-23 20:14:56 | 徒然の記

 〈  第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん )  平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉

  本日は、渡辺氏の解説を最初に紹介いたします。

 「保元の乱の後、大いに不満だったのは源義朝であり、得をしたのは平清盛であった。義朝は父を切り弟五人を殺しているのに、恩賞は清盛とその一族に及ばなかった。」

 「義朝の不満をさらに具体的な形で高めることが起こり、そこに登場するのが藤原通憲 ( みちのり ) 、すわわち信西 ( しんぜい ) である。」

 信西は伝説的な天才で、谷崎潤一郎が本にし、主人公に自ら次のように語らせているそうです。

 「わしは若い自分に、唐土 ( もろこし ) の孔子の道を学んだ。そうしてわずか一年ほどの間に、その奥義を究めてしまった。」

 「それからわしは老子の道を学んだ。そうしてまた一年も経つと、その奥義を究めることができた。その次には仏の道を学んだ。そうしてこれも、一年ばかりの間に、残らず学び尽くしてしまった。」

 「天文でも、医術でも、陰陽五行の道でも、わしの学ばないところはなかった。星の運行によって、世間の有為転変を占うことも、人間の相を見て、その人の吉凶禍福を判ずることもできるようになったのじゃ。」

 これを裏付けるように、『大日本史』の中にも信西を評して、「宏才博覧にして、典故 ( てんこ・典礼と故実 ) に暗練 ( あんれん ) し、兼ねて仏教、天文に通ず」、と書かれているそうです。

 宋から来た淡海という僧に、鳥羽法皇がお会いになった時言葉が通じない為、信西が通訳したそうです。流れるような応対に驚いた淡海が聞いたといいます。

 「貴方は宋で勉強したことがあるのか。それとも宋の人なのか。」

 信西は若い頃、外国に行く使者になるかも知れないと思い、独学をしていたと言いますから、語学の天才だったことに間違いなさそうです。

 「この信西が保元の乱では、後白河天皇側の勝利の一因となった。彼が源頼朝から軍略を聞き、これが採用されるよう取りはからったからである。また乱の後に、潜伏している敵方の者を巧みに誘い出して降参させた。」

 「某は某国へ流し、他の某は某国へ流そう」という計画を流布させたため、敵方の者は死刑にならないらしいと思い、皆出て来たと言います。ところが信西は降伏して来た者を皆逮捕し、死刑にしてしまいました。これに関しては、嵯峨天皇以来朝臣が死刑になった例がないという反対論が出ましたが、彼は次のように言って後白河天皇を説得しました。

 「反乱した者を諸国へ放したならば、後々まで災いになるでしょう。」

 信西の妻は、後白河帝の乳母 ( うば ) であったため、彼に対する天皇の信任は特別に厚く、すべての相談に預かっていたと言います。どうやらこの信西が、頼山陽の詩に書かれている、「謀 ( はかりごと ) を造る二匹のまむし」の一匹であるようです。もともと彼の家系は曾祖父の藤原実範 ( さねのり ) 以来、学者の一門であり、祖父季綱 ( すえつな ) は大学頭 ( だいがくのかみ ) でした。

 「信西の意見が保元の乱の勝因ともなり、その終戦処理を徹底的にやったので、彼の宮廷における勢力の高まりは想像に難くない。ところがこの信西が、まさに平治の乱の元になったのである。」

 いつの世においても、学者は多くの人に尊敬されます。立派な意見を述べる立派な学者が沢山いるからですが、中には志が低く、名誉欲と権勢欲の強い人物がいます。全員とは言いませんが、現在の日本でも「日本学術会議」の中によく似た学者がいて、政府を批判攻撃しています。信西は下級貴族の家柄ですから、もとより「武士 ( もののふ ) の心」がなく、愛国心もなく、あるのは人間の業である「我欲」です。

 宏才博覧 ( こうさいはくらん ) にして、典故暗練 ( てんこあんれん ) の天才でも、魂のない学者は世のためになりません。ネットの情報によりますと、彼は如才のない人物だったらしく五人の天皇に重宝がられています。

  主君・・鳥羽天皇 →  崇徳天皇 →  近衛天皇 →  後白河天皇  →  二条天皇

  「ここに、藤原信頼 ( のぶより ) という男がいた。関白藤原道隆 ( みちたか ) の八世の孫であるが、凡庸で軽薄で、取り柄のない人物だった。しかし後白河天皇のお気に入りで、参議・右衛門督 ( うえもんのかみ ) 、検非違使の別当 ( べっとう・長官 ) となった。当然信西とは、権力争いの関係になる。」

 「信頼が上皇の寵 ( ちょう ) を良いことに、近衛大将の地位を望んだ時、信西は断固反対した。後白河上皇ははじめ信西の反対を喜ばれなかったが、彼が唐の安禄山 ( あんろくざん・元の皇帝に謀反を起こし、帝位を奪った軍の大将 ) の例をあげて反対したので、帝は信頼を近衛大将にすることを思いとどまった。信頼はこれを大いに恨んで、参内 ( さんだい ) を怠るようになった。」

 信西は得意の知識を駆使し信頼との権力争いに勝ちましたが、我欲の強い彼はこれに満足せず、源義朝にも対峙します。こういう功名心が強く、我欲を通す学者たちが「日本学術会議」と「東大社会科学研究所」に多く集まっていることを、以前「ねこ庭」で取り上げたことがあります。

 これまでは、マルクス主義だけが反日の要素と思って来ましたが、平安時代の天才学者信西を知りますと、もう一つ加えなくてなりません。

 「人間の業である我欲、つまり名誉欲・権勢欲が、自分に反対する者を敵としてしまう。」

 国を愛する国民に反対し、反日の言辞を世間に撒き散らす学者の姿は、頼山陽の詩に詠われる通りではないでしょうか。

 「チロチロと炎の舌で、こっそり天いっぱいにみなぎるほどの毒を吐く」

 次回は、信西が源義朝に対しどのような仕打ちをしたかにつき、氏の解説を紹介します。

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