〈 第二十三闋 烏帽子 ( ゑぼし ) 平清盛が最も恐れた嫡男・重盛 〉
忠ならんと欲すれば孝ならず
孝ならんと欲すれば忠ならず
重盛の進退ここに谷 ( きわ ) まれり
「と言う言葉を知っているかいないかは、おそらく日本人の年齢を知る一つの目印 ( メルクマール ) になるのではないだろうか。いわゆる、〈 年が分かる 〉ということである。」
学校で教わった有名な言葉というより、二つの考えに挟まれ、決められずに悩む姿への共感でした。戦後ですから忠孝に悩んだと言う話でなく、先生と友達の意見のどちらを取れば良いのか、親の意見と近所の大人の意見が違う時、どちらに従えば良いかとせいぜいそんなものでしたが、子供心には大きな選択で、重盛の苦衷を理解していたつもりでした。
私の中にある重盛は、真面目だが気の弱い、どちらかと言えば優柔不断な孝行息子というイメージでした。79年間抱いていたその重盛の像が、氏の解説で今回大きく変わりました。偉大な父親の威厳に圧倒されながら、忠実に見習おうとした徳川の二代将軍秀忠のような生真面目な重盛像でしたが、そうではありませんでした。
これもまた複雑な要因がありますので、結果を急がず、いつものように氏の背景説明から紹介いたします。
「重盛のこの言葉を、私も子供の頃から知っていた。しかも〈 きわまれり 〉と言うところを、〈 谷まれり 〉と書くことを子供たちは知っていた。だから子供たちは、将棋をして王が詰められると、〈 谷まった 〉と言うことがあった。こんなことは、相当の本読みである今日の大学生も知らない。教養の伝統の断絶と言うべきか。」
昭和5年生まれの氏は、19年生まれの私より14才年上です。大東亜戦争の敗北が昭和20年8月15日ですから、私の受けた教育はまさに「戦後教育」です。息子たちのためもう少し説明しますと、亡国の「日本国憲法」が公布されたのが昭和21 ( 1946 ) 年、施行されたのが翌昭和22 ( 1947 ) 年5月3日です。
母に連れられて私が満州から日本へ戻ったのが3才の時ですから、憲法が施行された日に既に日本へ戻っていたのか、引き揚げ船「萩の船」で博多港に向かっていた時なのか、記憶にありません。そうなりますと重盛の言葉は学校で教わったのでなく、もしかすると中学時代の自分が、図書館で読んだ本の知識だったのかも知れません。79才になっても〈 谷まれり 〉と書くことを知らない私は、正に「教養の伝統の断絶」の見本、「生きている化石」みたいなものでしょうか。感慨深いものがあります。いくら感慨深くても、本論に関係のない雑学でしょうから、氏の解説に戻ります。
「平清盛は、保元・平治の二つの乱の勝者となり、武家にして太政大臣になるという異数の出世をとげた。右大臣も左大臣も経ないで太政大臣になったというのは、前に藤原信長の例があっただけである。更に藤原氏と違っているところは、直接に武力を握っている人間が宮廷の中で最高位にのぼったのであるから、文武の大権を握ったことになる。後には豊臣秀吉にその例が見られるが、清盛の権力はそれに似た性質のものであったと推測して良いであろう。」
つまり清盛は、摂関家であった藤原一族の誰も手にしたことのない、大きな権力を手にしたことになります。
「武家が武功で出世するのは当然であるが、なぜ平家が源氏よりも優遇されたのであろうか。この不満が源義朝をして、平治の乱を起こさしめたのである。」
「その理由は、前ページの系図を見れば容易に想像がつく。」
こう言って氏は、複雑な天皇家と平家の系図を並べ、再び「名探偵の謎解き」を披露します。それは同時に私が前にした、清盛が権力を握った原因の推測が間違いだったことの証明でした。以下、氏の解説を項目で紹介します。
・平清盛の妻時子は、二條天皇の乳母であった
・二條天皇は幼児に母を失い、鳥羽天皇の皇后である藤原得子 ( なりこ・美福門院 ) に養育され、愛された
・二条天皇の乳母時子と、美福門院の関係は甚だ良かった
・当時の乳母は、時によって若い皇子 ( みこ ) のため性的な手ほどきをもやるということがあった
・乳母が非常に重要な政治的役割を演ずるのも、こうした背景があったからである
・時子を幼い守仁 ( もりひと ) 親王 ( 後の二條天皇 ) の乳母に選んだのは、美福門院に間違いない
・つまり時子は、美福門院の眼鏡にかなったのである
・保元の乱が起こった時、美福門院が特に平清盛を味方につけるよう主張したのは、時子の亭主である清盛を気がおけないと思ったからであろう
「それは結局、保元の乱の元にもなった美福門院に由来する。従って平安朝を終わらせた保元・平治の二乱は、ともに美福門院に由来すると言う、大町桂月のような見方も出てくるわけである。」
第二十二闋の最後で氏はこのように述べていましたが、時子や清盛との関係がここまで明らかになっているのなら、美福門院説が最有力になります。
「鳥羽上皇は、自分の死後崇徳上皇らが反乱を起こすという可能性を認め、緊急の場合に召すべき武将の名前を書き残しておかれた。そのリストに、清盛の名前は加わっていなかった。」
私たちの知らない事実を、氏が次々と紹介します。
「というのは、清盛の父忠盛は重仁 ( しげひと ) 親王 ( 後の崇徳帝の第一皇子 ) に仕えていたからである。しかし美福門院が〈 清盛のような強い人を召さないということはない 〉と主張したため、清盛は反崇徳側につくこととなった。」
美福門院と清盛に関する氏の解説はまだ続きますが、スペースがなくなりましたので、次回といたします。美福門院が、保元・平治の乱の大きな要因となったことは確かですが、それでも私の次の結論は変わりません。
・宮廷と貴族社会の乱れと歪みを作った大本 ( おおもと ) は、道長の「後宮政策」である
・藤原一族の権勢を磐石なものとするため、天皇の外戚としての摂関家を築くという政策である
・美しい娘たちを天皇の皇后、皇妃、中宮、女御にする政策は、確かに氏長者 ( うじのちょうじゃ ) である藤原氏の地位を確固たるものにした
・しかし世代を重ねるうちに、歪んだ、異常な親子関係や夫婦関係が出来上がり、人心を乱れさせる結果をもたらした
・氏の解説を読んでいると、LGBT法をゴリ押した岸田政権の間違いを教えられる
・この法律は運用を誤ると、歪んだ異常な親子関係や夫婦関係を作り、人心を乱れさせる結果をもたらす
・人間平等の社会であるから、LGBT法を皇室にも適用すべきだと、そんな意見を言う学者・評論家・活動家がいると聞くがとんでもない話である
私も頑固なのかも知れませんが、どうしても岸田内閣がゴリ押しした悪法 ( LGBT法 ) と結びつけてしまいます。危機感を抱きながら、次回も美福門院と清盛に関する氏の解説を紹介いたします。