ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 114 ( 後三條帝の急死 )

2023-06-10 14:29:22 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 今回も、渡辺氏の解説をそのまま紹介します。

 「そして後三條帝は治世の四年目に、譲位され、太上天皇になって国政を見ようとなされた。これが院政の始まりである。しかし、半年後に病死なされた。宝算40年、このあまりにも早い治世の終わりを、頼山陽はこう痛嘆する。」

  かくして皇室の御稜威 ( みいつ ・天皇の威光 ) の光は、まさに大八島 ( にほん ) の国のすみずみにまで及ぼうとしていた

  しかし残念ながら剣身自体がそのまま折れたように、天皇は急になくなられた

  ああ、惜しんでもあまりあるのは、剣身がたちまち自然に折れたかの如く、この英邁な天皇が在位わずか数年でなくなられたことである

 意外な結末に言葉を失くすとは、このことなのでしょうか。渡辺氏もそうだったのか。亡くなられた後三条帝には直接触れず、別の話で第二十闋を締めくくっています。現在の皇室にも繋がっていることなので省略せずに紹介し、同時に「第二十闋」を終わります。

 「ちなみに、〈壺切剣〉を後三條帝が受けなかったと言うのは誤伝で、実際は三条帝の皇子敦明 ( あつあき ) 親王が道長によってこの宝剣伝授を妨げられたため、皇太子の位を受けなかったこととの混同らしい。」

 「ちなみにこの剣は、後冷泉帝の康平二 ( 1059 ) の火事、一説には治暦二 ( 1068 ) の火事で焼けて別の剣に換えた。それがまた承久の乱 ( 1221 年) で紛失し、新しく作らせたが、後深草天皇の時 ( 1258 ) 年に、勝光明院の宝庫から古い方が出てきたので、この剣を使うこととして今日に至るという。」

 「現代の立儲礼付式 ( りつちょれいのふしき ) では、立太子礼の当日、賢所 (  かしこどころ ) 大前の儀で、皇太子となる皇子は、天皇より〈壺切御剣〉を受けられることになっている。」

 私たちが知らないだけで、古来よりの伝統は今も皇室に受け継がれていることが分かりました。

 次回は、

 〈  第二十一闋 朱器臺盤 ( しゅきだいばん )  「保元の乱」の複雑な内幕  〉です。

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