ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 108 ( 公家の安逸と源氏の健闘 )

2023-06-02 15:33:52 | 徒然の記

  〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

 渡部氏の解説に、心が惹かされます。

 「奥州の状況がこんな時だったのに、京都の方ではどうだったのであろうか。貴族たちは、大邸宅を建てることを競っていたのである。道長の長男の頼通のその贅沢は、父以上のものがあった。彼の作った高陽院 ( かやのいん ) は、『栄華物語』にも、〈華麗比なし〉と書かれている。」

 頼通の作った平等院鳳凰堂は、10円硬貨の表面に刻まれ、国宝建築として国民の多くが知っています。贅沢も規格外になりますと、時の経過で国の宝となり、国民に親しまれるのですから不思議な魔法みたいです。

 「彼の弟の教通 ( のりみち ) も、驕侈 ( きょうし ) の点では父にも兄にも負けていなかった。彼の造った二條第 ( にじょうだい ) は、〈 広壮を極む〉と言われた。あまり立派なので兄の頼通も不愉快に思い、自分の息子の師実 ( もろざね ) に、〈 大きな私宅を構えて街並みを一杯にしてしまうのは、程度を超えたものではなかろうか 〉と言った。」

 すると息子の師実が次のように答え、頼通がうなづいたと言いますから、落語でも聞いているような気持ちになります。

 「父上のおっしゃられる通りですが、一族の人間のやることですから、別に文句を文句を言うことではないでありませんか。」

 「これを聞いて父親の頼通は、それもそうだなとうなづいた。というわけで上級貴族たちは、競走で雲に届くような大邸宅を建て始めたと言う。」

 都でこのような私邸の建築競争をやっているちょうどその頃、東北では、源頼義が援兵も食料の補給もなく苦戦していました。もちろん頼義は何度も食料の運輸を上申し、兵士を徴発する官符 ( あかふ ) を賜るよう願い出ていたと言います。

 「官符は出ても一向にききめがなく、食料も届かず兵隊も来ない。出羽守・源兼長も全く出兵する気がない。一方貞任の方は、白符を用いて徴発し、ますます勢いが盛んである。こうした狡猾な北方の敵 ( 黠胡・ かつこ ) を、どうして頼義は討つことができようか。この状況を頼山陽は、次の三行でまとめた。」

  高位の人たち ( 五侯 ) の邸宅は雲に連なるように豪華なものが、次から次へと建てられている

  それなのに東北の遠征軍に対して、兵士や食料の途絶えていることは一向に省みない

  鎮守将軍は一体、何を頼りにして狡猾な北方の蛮族 ( 胡 ) を征伐することができようか

 並の将軍でしたら、遠征を断念するところです。しかるに朝廷の方では、平定が進まないのは頼義の責任であると考え、康平5 ( 1062 ) 年、彼の任期が切れると解任し、代わりに高階経重 ( たかしなのつねしげ ) を任命しました。

 現地の事情を知らないまま軍事の判断を下すと言うのですから、驚いてしまいます。しかしよく考えてみますと、現在の私たち国民も政府も、似たようなことをしています。危険極まりない国際社会、特に狡猾な隣国の無謀さに気づかず、「平和憲法を守れ」「日本の再軍備を許すな」「戦争だけはしてはならない」と、国の守りを軽視し続けています。

 軍拡競争と言われようと、狡猾な敵から国を守るには、同等の武力行使ができる体制が要ります。「やられたらやりかえす」「攻撃されたら倍返しする」と、こういう気概が戦争を防止する事実も、忘れてはいけません。平和呆けした愚かな朝廷 ( 今で言うなら政府 ) について、氏が間違いを指摘します。

 「この辺が、当時の朝廷の甘いところであった。武士たちは頼義の威名を慕って集まっているのであるから、経重の指揮を受けようとしない。それで経重はやむをえず、なすことなく京都に帰る羽目になった。」

   第十九闋の詩は1960年前の出来事ですが、私は現在の日本の状況と重ねて読んでいます。

 「頼義は朝廷に頼るわけにいかないことを知り、援軍を出羽の俘囚の酋長である清原光頼 ( みつより ) と武則 ( たけより ) に求めた。最初のうち二人はなかなか協力しなかったが、頼義が自腹を切り何度も珍しい宝物を贈ったので、二人はようやく説得され、一万余の軍勢を率いて頼義を加勢することになった。」

 加勢は死の覚悟無しにできませんから、二人の決断は宝物 ( 金銭 ) に目が眩んだと言うより、自らの懐を痛めても戦おうとした頼義の気概への共感だったのではないでしょうか。

 「と言っても、戦いは簡単に終わったわけでない。平野にまた城攻めに激戦を重ねたのち、ようやく厨川 ( くりやかわ ) 、ウバ戸の柵を囲んで、敵を全滅させることができたのである。貞任や経清の首は箱に入れて京へ送り、家任 ( いえとう ) ・宗任 ( むねとう ) らを捕虜にした。」

 その功によって頼義は正四位下、伊予守に任ぜられます。彼が鶴岡八幡宮を造ったのは、この時だそうです。しかし他の功労者には朝廷から恩賞の沙汰がなく、頼義の願い文は朝廷での議論が定まりませんでした。

 「そのことを要請した頼義の上疏文 ( 天子に差し出した書状 ) は、今日なお人の心を動かす名文である。」

 こう言って渡部氏が、その一部を紹介しています。

 「虎狼の俗 ( 官に反対する人間 ) に向かい、甲冑をまといて、もって千里の道に赴き、矢石 ( しせき ) に交わりて、もって万死の命を忘れ・・・」

 名文なのかどうか見分ける力はありませんが、伝わってくる頼義の熱い思いがあります。

 「こうして戦った者たちに、恩賞がないのだ。それで頼義は私物を与えたのである。そのような行為に対して、部下が感激しないはずはない。朝廷は当てにならないが、頼義は当てになる。かくして源氏は、東北・関東に強固な基盤を築き始めるのである。」

  結局頼義は、金で人心を掴んだ。金権政治家の走りではないかと、そんな誤解をする人たちのため、説明をしておきます。金銭ほど人間の姿を映すものは、ありません。強欲、吝嗇、狡猾、卑劣などと言う言葉が、金に目のくらんだ人間を表すときに使われます。逆に言いますと、金銭は人間にとってそれほど大切なものであると言うことになります。

 大事なのは、持っている金銭をその人がどのような使い方をするか、ここにかかっている気がします。自分の金は少しも使わず、公金を浪費する者を褒める人はいません。大切なお金をどのような使い方をするのか、高名な人物でも庶民でも、人物評価の判断をここにおいている人間は沢山います。彼が自腹を切っているのか、公金を使っているのか、区別のつかない人間はいません。

 金権腐敗政治をする政治家が尊敬されない理由が、ここにあります。自由民主党の政治家が槍玉に上がることが多いのですが、野党の政治家も同じでないかと考えています。大手マスコミが報道するかしないかで、金権腐敗政治家が決められていますが、ネット世界が進化すれば世相も変わる気がします。

 頼山陽の七行詩の解説を、五行まで紹介しました。余計なことを述べスペースを使いましたので、残る二行は次回といたします。

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『日本史の真髄』 - 107 ( 赤符と白符 )

2023-06-02 00:22:12 | 徒然の記

  〈  第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ )  奥州をめぐる武力抗争  〉

 ここから、朝廷による討伐が開始されます。

 「永承6 ( 1051 ) 年に陸奥守・藤原登任 ( なりとう ) は、秋田城介・平重道を先鋒として、数千の兵を率いて安倍頼良を討伐しようとした。しかし、鬼切部で戦って大敗してしまった。」

 「この知らせを受けた朝廷は事態を重視し、源頼義を陸奥鎮守府将軍に任命して討伐させることにした。頼義は元鎮守府長官であった源頼信 ( よりのぶ ) の長男で、珍毅にして武略多く、騎射をよくして将師の器ありとされ、坂東 ( ばんどう ) 武士の信頼が厚かったから、まさに適任であった。」

 陣を整え、これから頼義が討伐に向かおうとする時予定外の事態が発生します。

 「上東院彰子( あきらこ ) 、道長の娘で一條帝の后、後一條帝・後朱雀帝の母の病気平癒祈願の大赦 ( たいしゃ ) があって、安倍頼良の罪も許されることになった。」

 平安時代ならではの話なのでしょうか。頼良は大いに喜び、新しい鎮守府将軍の源頼義と名前が同音になることを遠慮して、頼良を頼時と改めます。そして頼義によく服従したので、東北の地は再び平穏になろうとしました。しかし頼義が任務を終えて京へ帰る途中に、また事故が起こり、前九年の役という長期戦が始まります。

 「頼義が、帰途阿久利川 ( あくとがわ )に宿営した時、夜に藤原光貞の陣が襲われ人馬が殺傷された。捕らえた者を問い糺して見ると、頼時 ( 元・頼良 ) の子の貞任 ( さだとう ) の家来であるらしい。( 実際には、これは光貞の推測であり、証拠不十分というべきものであった。)」

  しかし貞任の仕業と信じた頼義は、貞任を捉えようとします。すると今まで頼義に心服していた頼時 ( 元・頼良 ) が、わが子のために意を翻しました。

 「不才の子でも、居ながらにしてその死を見るわけにはいかない。」というのが理由でした。彼は一族を挙げて、頼義と戦うことになります。だが彼は、頼義に味方した別の俘囚の酋長・安倍富忠軍の矢に当たって死んでしまいます。

 「しかし息子の貞任は、父の死後も敢然と戦い続けた。彼は厨川邑 ( くりやかわむら・現在の盛岡あたり ) にいて、厨川次郎 ( くりやかわ じろう ) と称し、容貌魁夷 ( かいい ) 、色白で身長は六尺 ( 180センチ ) を超え、腰の周り7尺8寸という力士のような体の男だった。」

 「父が死んだ天喜5 ( 1057 ) 年の11月、四千余の精兵を率いて頼義の千八百余人を大雪の中で攻撃し、徹底的に破った。」

 頼義は壊滅的打撃を受け、長男の八幡太郎義家のほか藤原景道 ( かげみち ) など6騎と僅かの従兵のみとなった。大将頼義の馬も射倒され、彼も生き残った者たちの力戦によりようやく虎口を脱したと言います。

 戦いの様子を詳しく紹介しているのは、頼山陽の詩が、奥州で苦戦している武士たちと、都で優雅に暮らす貴族 ( 藤原氏 ) たちの危機意識の低さを詠っていますので、詳述の方が息子たちの理解を助けるのでないかと思うからです。

   赤符 ( せきふ ) を用うる無かれ 白符 ( はくふ ) を用いよ 

      白符は憑  ( よ ) る有り 赤符は無しと 

   五侯の第宅 ( ていたく ) は雲に連なりて起こる

   省 ( かえり) みず東征は運輸を絶つを

   将軍何に頼 ( よ ) りて黠胡 ( かつこ ) を撃たん

   君見ずや他年赤符を肯 ( あ ) へて剖 ( わか ) たず

   路傍に空 ( むな ) しく棄 ( す ) つニ酋 ( しゅう ) の首 

 山陽に七行詩についての説明が、ここから始まります。

 「貞任はますます勢力を得、諸郡に使者を出して、私符を用いて官物を徴収した。衣川関の外に数百の武装兵を出し、宮廷に収納されるべきものを、自分の方に取り上げたのである。この時、〈 白符を用うべし、赤符を使うべからず 〉と命じたのである。」

 氏の説明によりますと、符とは中央官庁から地方官庁へ下す公文書のことで、こうした公文書には大きな朱印が押してあるから「赤符」と言われ、地方の豪族が勝手に出す令書には朱印が無いから「白符」と呼ばれたのだそうです。息子たちのためには、政府日銀が発行する日銀通貨 ( 赤符 ) と、地域内だけで使われている地域通貨 ( 白符 ) だと言う方が分かり易い気がします。

 「陸奥六郡は安倍氏の固有の支配地として黙認されていたが、衣川関以南において白符で官物を徴収するのは、律令国家に対する公然たる挑戦である。こんなことをされても、白符を使っている方に信頼度があるため、源頼義はなんともできなかった。この状況を頼山陽は、次の二行でまとめている。」

  京都から来る朱印付きの文書 ( あかふ ) などの言うことを聞くことはない、俺の出す文書 ( 白符 ) の方が大切なんだぞ

  俺の出す文書 ( 白符 ) の方には信頼性があるが、官符 ( 赤符 ) には力がないのだから

 今回はここまでとし、三行目以降の解説は次回以降に紹介いたします。

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