ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 111 ( 皇太子の母は、氏長者の娘であるべし )

2023-06-07 19:27:41 | 徒然の記

 〈  第二十闋 剣不可傳 ( けんつたふべからず )  藤原時代の終焉  〉

 朝廷に対する藤原一族の支配権を守るため、頼通は次のことを押し通しました。

  ・  摂政関白である藤原氏は、「氏の長者」でなければならない。

  ・  皇太子の母は、「氏の長者」の娘でなくてはならない。

  ・  天皇は、「氏の長者」の孫でなくてはならない。

 氏は説明していませんが、「氏の長者」という言葉の中に頼通の思考の核があるようです。ウィキペディアの解説が、ヒントを与えてくれます。

 〈 氏長者(うじのちょうじゃ)とは 〉

  ・平安時代以降の、氏 ( うじ ) の中の代表者の呼称である。

  ・古代日本では氏上(うじのかみ )と呼ばれていた。

  ・その氏族の中で最も官位が高い者が就任し、先祖を弔う氏社 ( うじしゃ ) 、氏寺( うじでら ) の管理権とその財源を掌握した。

  ・氏上(うじのかみ )は平安時代になると、「氏長者(うじのちょうじゃ)」と名称が変化した。

 話が横道へ逸れましたが、これを予備知識として氏の説明を読み進みます。( 該当する文字がないため、東宮妃禧子は似た字を当てています。 )

 「第六十九代後朱雀 ( ごすざく ) 天皇には、二人のヨシ子が後宮にいた。内侍 ( ないし・東宮妃 ) であった禧子 ( よしこ ) と、皇后の禎子 ( よしこ  ) である。」

 「禧子 ( よしこ ) は道長の娘であり、禎子 ( よしこ  ) は孫である。後朱雀帝ご自身も道長の孫であるから、今日から見ると、まことに奇怪な関係になる。」

 文章より、項目にしたほうが分かりやすいので、文章体を止めます。

  ・まず、皇太子妃として入台していた禧子 ( よしこ ) に、第一皇子 ( 親仁親王・後の後冷泉帝 ) が生まれた。

  ・ついで皇后の禎子 ( よしこ  ) に、第二皇子 ( 尊仁親王・後の後三條帝 ) が生まれた。

  ・後朱雀天皇は、二人の皇子が順次に皇位につくことを希望され、そのことを頼通に言っておかれた。

  ・頼通にとって第一皇子 ( 親仁親王・後の後冷泉帝 ) は、道長の娘が母であり、第二皇子 ( 尊仁親王・後の後三條帝 ) の母は、道長の孫である。

 「 皇太子の母は、「氏の長者」の娘でなくてならない。」という原則を守る頼通にとって、第七十代後冷泉帝の即位には問題がありませんでしたが、第二皇子を皇太子に立てることは気が進みませんでした。それで頼通は後冷泉帝が即位されたのちも、第二皇子の皇太子決定をのびのびにさせていたと言います。

 「ところが頼通と異腹の兄弟の能信 ( よしのぶ  ) はこれを気にして、後冷泉帝に、〈 尊仁 ( たかひと ) 親王 は、御出家でもなさるのですか。〉と聞いたため、帝は〈 そんなことはない。皇太子に立てるのだ。 〉とおっしゃって、立太子のことが急に実現したのである。」

 頼通も能信も道長の子ですが、母が違いました。頼通は道長の正妻 ( 倫子・ともこ ) の子で、能信は本妻 ( 明子・あきこ ) の子でした。

 「同じ道長の子と言っても、そこに考え方の違いがあったのではないだろうか。おそらく能信は、異母兄の頼通の鼻を明かしてやりたいというところがあったのかもしれない。」

 頼通の危機感を意に介していないのか、氏の解説は私を戸惑わせます。

 「ちなみに平安朝は複数婚であるから、正妻のほかに本妻もいた。正妻は、六礼 ( 門名、納采、親迎えなど ) の形式を踏んで娶った女性であり、本妻はこの形式によらないで娶った女性である。なにしろ複数婚だから、正妻と本妻に後世の妻と妾のような差はない。」

 「後朱雀帝の場合も、東宮時代に娶った道長の娘禧子 ( よしこ )は正妻であり、後に娶った禎子 ( よしこ  ) は本妻だったはずである。しかし皇后になったのは、本妻であった。どちらの腹の皇子も皇位についているから、その間の身分の差は感じられなかったのであろう。」

 頼通は何を四角四面に考えているのかという氏の思いが、言外に感じられます。

 「道長の場合、正妻は源雅信 ( 右大臣正一位 ) の娘であり、本妻は源高明 ( 左大臣正二位 ) であって、父の身分差はないと言ってよい。」

 「しかし正妻の男子二人 ( 頼通、教通 )が関白太政大臣従一位であるのに対し、本妻の子は 、右大臣従一位 ( 頼宗 ) 、権大納言正二位 ( 能信・長家 ) 、右馬頭 ( うまのかみ・顕信 ) であるのは、ちょっと見劣りする。」

 「これは正妻・本妻の差からきたというより、正妻の娘四人がいずれも美人でことごとく天皇の皇妃となったことによるものであろう。」

 〈  第十八闋 月無缺 ( つきにかくるなし )    藤原道長の栄華     7行詩  〉で、氏は道長の美しい四人の娘について紹介しています。

  長女彰子 ( あきらこ ) 、次女キヨ子 ( きよこ ) 、三女威子 ( たけこ ) 、四女嬉子 ( よしこ ) の4人が、それぞれ皇后、中宮、皇妃となり、平安朝の文化を隆盛にし、華やかな王朝文学の中心となるサロンの主でした。正妻・本妻の違いは言うまでもなく、男女の区別さえ超えて「女性の輝く時代」をつくっていました。

 第十八闋を思い出しますと、「頼通は、何を四角四面に考えているのか。」という氏の思いがいっそう伝わってきます。その思いが読者に伝わったところで、いよいよ頼山陽の詩の解説が始まります。

 次回も、「ねこ庭」へお越しください。

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