〈 第二十一闋 朱器臺盤 ( しゅきだいばん ) 「保元の乱」の複雑な内幕 〉
頼長が為朝の意見を退けた理由を、渡辺氏が紹介しています。
「そんな夜襲は、私闘でやることだ。一人の帝 ( みかど ) が位を争うのだから、もっと堂々とやらなければならない。翌朝奈良から、僧兵が応援に来ることになっているので、それを待って堂々とやろう。」
氏長者 ( うじのちょうじゃ ) としての頼長の意見は、それなりに筋が通っています。貴族の頂点に位置する人物として矜持もあったと思いますが、渡辺氏はそのようには見ていないようです。
「軍議から退いてきた為朝は、兄義朝の方が夜襲をするだろうと予言し、公家の戦略を嘲 (あざわら)った。」
為朝の言葉を伝え、貴族と武士の戦いの違いを語ります。
「まさに為朝の恐れたように、後白河側では義朝の夜襲案を採択した。戦いのことは武士の案に従おうと言ったのは、忠道であった。」
「頼長の軽薄さ、忠道の重厚さが決定的である。逆に夜襲を受けることになった為朝の奮戦は、まさに軍記物語の華である。しかし、少人数で守るところに火をかけられたのでは防ぎきれない。崇徳上皇側は敗走した。」
崇徳上皇は馬に乗れないため、蔵人 ( くろうど ) 平信真 ( のぶざね ) らが抱えて逃げたそうです。如意山に来ると山が険しくなって、馬が使えなくなり、全員で歩きました。上皇は疲労のあまり、失神されたともいいます。
「自分は捕まっても殺されることはないだろうから、お前たちは逃げなさい。」
上皇は心を決められ、武士たちを落ちさせられたました。戦いに敗れられたとはいえ、やはり天皇です。自らを捨て、配下の兵を思いやられました。
「ただ平家弘 ( いえひろ ) ・光弘 ( みつひろ ) の父子は、代わる代わる上皇を背負って谷を降り、日の暮れるまで潜んでいた。」
それから阿波局 ( あわのつぼね ) や藤原教長 ( のりなが ) の邸に行きましたが、門を閉じて応えてくれませんでした。ようやく夜中( あるいは早朝に ) 、知恩院の僧房へ入り、お粥 ( かゆ ) を啜ることができたと言います。崇徳上皇はここで頭を丸めて仁和寺へ行き、そこから讃岐へ流されることとなります。
「一方頼長は、逃げようとした時流れ矢が首に当たり口がきけなくなった。他方頼長の父忠実は、敗戦と頼長の負傷を知って大いに恐れ、子供たちを連れて奈良へ逃げ、宇治橋を落として抵抗を試みようとした。顎に重傷を受けた頼長は父が奈良にいると聞いて、会いに木津川まで行った。」
「藤原の氏長者が、矢に当たって命を落とすなどがあって良いはずがない。自分はこの薄命の子を見るにしのびないのだ。頼長は行きたいところへ行くが良い。私は二度と頼長には会いたくないし、その話を聞きたくないと、奈良で返事を聞いた頼長は、憤然として自ら舌を噛み切ってって死んでしまった。」
この報告を聞いた忠実は、「頼長をこそ摂政・関白にしたかったのに、こんなことになるとは思わなかった。」と言って悲しみ、激しく泣いたそうです。
その頃後白河帝の側では、忠実を流刑にしようと詮議していましたが、息子の忠道がお願いをし、ようやくその刑をまぬがれることがかないました。
「これを聞いた忠実は、忠通がこんなに自分を思っていてくれたとは知らなかった。長い間、この長男をうとんじていたことが悔やまれる、と言った。ここまでの話を、頼山陽は次の三行にまとめている。」
ここでやっと、最後の三行を氏が解説します。
どちらが先に火攻めをやるか。いずれも肉親同士がお互い敵になり、相手の裏をかき、相手の肉を喰らうような争いをすることになった
流れ矢は流星のごとく飛んできて、頼長の喉に当たった
それで貴方の愛児の頼長は、君主 ( 崇徳上皇 ) に従って、朝のお粥 ( かゆ ) を ( 知恩院で)すすることもできなかった
保元の乱は皇室、藤原氏、源氏・平氏の肉親同士が敵味方となって戦った悲惨事でした。頼山陽は『日本正記』の中で、美福門院という女性が乱の背後にあることを鋭く指摘しているそうです。氏と頼山陽の意見は違いますが、これが「第二十一闋」の結びの解説なので、そのまま紹介します。
「この時期を通じて、忠通の言行の際立って優れているのが印象的である。歌人として和歌の風格も高く、百人一首にも取り上げられ、書道にも自ら一家を成した。しかし頼山陽は『日本正記』において、忠通が美福門院に近づいたことを責めている。しかしそれは酷というもので、やはり父の忠実、弟の頼長が悪かったのである。」
「この闕のすべてが、食事関係用語を用いてイメージが作られている。頼山陽の才筆陸離 ( りくり・美しくきらめく ) たるものがある。」
白河帝のなくなられた後、実力者として院政をしかれた鳥羽帝には二人の女性がありました。
皇后璋子 ( たまこ・待賢門院・たいけんもんいん )・・白河法皇の女御でもあった
皇妃得子 ( なりこ・美福門院 ・びふくもんいん ) ・・中納言・長実の娘
鳥羽帝は璋子との間に崇徳天皇、得子との間に後白河天皇をもうけていますから、乱の遠因といえばこちらの方が大きいと思いますので、渡辺氏のように忠通を賞め、忠実・頼長親子を悪かったと片づける気になれません。
氏の著書は残り後2闕となりましたが、当初からの疑問がまだ解けません。
「なぜこの書が、幕末の志士たちに〈 倒幕の書 〉〈 愛国の書 〉として読まれ、明治維新の原動力となったのか。」
次回は、
〈 第二十二闋 藻璧門 ( さうへきもん ) 平安朝の幕を引いた 「平治の乱」 〉です。
懐かしい歴史のロマンに、さまざまな思いを感じます。
私が『源為朝』の名前を初めて知りましたのは小学生のころでした。
そのころ『源為朝』と題した絵本を持っていましたが、その中には、
このブログでも御指摘の、為朝が『夜討ち』を提案したところ、頼長に反対された場面も
描かれておりました。
衣冠束帯の藤原頼長の側で、鎧を着た為朝が、悔しそうな表情をした挿し絵が、
今でも鮮明な印象に残っています。
崇徳上皇や藤原忠通の和歌も、
百人一首に収録されていますね。
当時は、さまざまな政治的な対立や内戦があったとはいえ、
長い歳月が、すぎた今となりましては、一幅の雅びな絵物語になっているのが、甘く、せつない印象です。
私は、源為朝でなく、鎮西八郎為朝と言う名前の方で覚えています。強い源氏の武将という印象だけで、あとは何も知りませんでした。
「一幅の雅びな絵物語」というこれまでのイメージが、頼山陽の詩で変わっていくのに戸惑っています。甘く切ない印象へ戻るには、時間の助けがいるような気がいたします。
これからもよろしくお願いいたします。