■友枝昭世の能「海人」を観る,「歩み」だけで人の感情を表現し尽す■
~次回平均律クラヴィーア曲集講座は、5月16日です~
2020.1.24 中村洋子
★1月18日は、平均律1巻8番のアナリーゼ講座でした。
小雪の舞う東京ですが、満員の皆さまの熱気の中で、
心地よく講座を終えました。
1番を源流とする平均律第1巻は、滔々と流れる大河となって、
汽水域に辿り着き、更に大海原に注ぎ込んでいきます。
★この汽水域である8番は、それ故、 Preludeは「es-Moll」、
Fugaは「dis-Moll」 であらねばならないことも、詳しく
ご説明しました。
次回≪Bachの平均律第1巻とこの1巻を源泉とする名曲≫ は、
Vol 2 の第1回で、5月16日を予定しております。
★第1回は、平均律1巻9番と、関連講座「Mozart :Piano Sonata
KV545 C-Dur 第1楽章」(講座時間の30分延長に伴うもの)です。
開始時間につきましては、微調整中ですので、暫くお待ちください。
★講座前日1月17日夜、国立能楽堂に赴き、お能「海人(あま)」を、
能シテ方の第一人者、喜多流・友枝昭世さん(79)で観ました。
バッハの大海とは異なる、日本は讃岐の国、志度寺「房崎の浦」
のお話です。
私が友枝昭世さんの実演を始めて観ましたのは、2003年9月18日、
国立能楽堂開場20周年記念公演の能「道成寺」でした。
★ピアニストの友人 渡辺純子さんが、歌舞伎の名優・故中村富十郎
さんの長女であったことのご縁で、その頃、渡辺さんから「道成寺」
を題材とした一曲一晩のリサイタル用に新しい作品を、という
ご依頼がありました。
歌舞伎の「道成寺」は、江戸時代に初代・中村富十郎さんが
初演しています。
歌舞伎だけでなく、是非ともお能「道成寺」を観たいものだと思い、
出掛けたのが偶然にも、友枝昭世さん演ずる「道成寺」でした。
当時もいまも、友枝さんの公演は、チケット入手が難しいのですが、
すっと買えましたのは、"お能を観て勉強しなさい、
よい曲を書きなさい"と、背中を押されるような、何か大きな力が
あるように感じました。
★それ以来、度々能楽堂へ通い、ほんの短期間お稽古にも
通ったりして、お能とはずっと、楽しいお付き合いをしております。
月刊誌「観世」平成16年(2004年)7月号の「巻頭随筆」に、
≪中村洋子「シテとワキの照応は、フーガにも似る」≫を、
書かせて頂いたこともございました。
★渡辺純子さんに書きましたピアノ独奏曲「道成寺物語」は、
大好きなピアノ「 Bösendorfer ベーゼンドルファ―」で、
初演されることになりました。
★「Bösendorfer」のグランドピアノ は、最低音域が
通常のピアノより低い機種もあり、extended key が付いています。
Bartók Béla バルトーク(1881-1945)のピアノ協奏曲にも、
この低音がありますが、私もこの低音を活用して作曲しました。
再演が稀なのはそのためかしら?
どちらにいたしましても、楽しく懐かしい思い出です。
さて、お話を海人に戻します。
★都の大臣・藤原房前(ふさざき)は、実は藤原不比等と、
海に潜る海女との間に生まれた子です。
その母とは、讃岐国の志度寺「房埼の浦」の海女
(史実とは異なります)。
藤原房前は、母が既に亡くなっていることを聞き知り、供養のため、
都からはるばる「房埼の浦」へと赴きました。
★「房埼の浦」に到着した房前と従者の眼前に、海女が現れます。
手には、海松藻(みるめ)を刈るための鎌と、刈ったばかりのミル。
「みるめ」とは、海藻のミルのこと、「め」は食用の海藻の意味。
★従者が海女に言います。
「海人ならば、あの水底の海松藻刈りて参らせ候へ」。
シテである海女の友枝昭世さん「痛はしや旅疲れ、飢えに臨ませ
給ひけるか、我が住む里と申せども、かほど賤しき田舎の果てに、
不思議や雲の上人を海松藻召され候へ、これに刈りたる海松藻の候」
★海女は「高貴な雲上人が、こんな田舎で旅に疲れ飢え、ミルを
所望するとはお気の毒。ここに刈り取ったミルがございます」
と答える。
従者「そうではないのだ、あの水底(海底)の月をご覧になるのに、
ミルが茂って邪魔、刈り取れとの仰せなのだ、
召し上がるのではない」。
★この問答が秀逸です。
海女はミルを食べ物と思っています、これが庶民の感覚でしょう。
一方、水底の月を鑑賞するのにミルは邪魔物でしかない、と雲上人。
★対話はさらに続き、
ようやくこの海女が、房前の亡き母の亡霊と分かります。
なぜ都のときめく大臣の母が、名もない海女なのでしょうか。
次のようないきさつがあったのです。
房前の父・不比等の妹は、唐の皇帝の后になり、その縁で、
唐から「興福寺」に、三つの宝物が贈られました。
その一つ「面向不背の珠」が途中、海の龍神に奪われてしまいました。
不比等は「面向不背の珠」を探し求め、遂に房埼に辿り着きました。
そこで不比等は、海女の少女(おとめ)と契り、子を成します。
少女は「生まれた息子を跡継ぎにしてくれるならば、名珠を
取り戻しましょう」と約束し、海に潜り自らの命と引き換えに
龍神から珠を取り戻したのです。
★眼前の房前(子方、子供が演じる)が我が子であると分かった時の、
母の驚き。
その瞬間、右手に持った鎌をポトリと落とします。
「やあ我こそは房前の大臣よ、あら懐かしの海人(あま)人や、
なほなほ語り候へ」と名乗った瞬間です。
★従者と海女との緊迫した、息詰まるような会話が続いた後の、
房前の「名乗り」と、「鎌を落とす音」とで、
この能は頂点に達します。
この「音」は、檜の舞台に鎌が落ちるコトンとした小さな音ですが、
静かな水面に一滴の水が落ち、波紋が広がっていくように、
観る人の心をえぐって、沁みわたっていきました。
★頂点の作り方は、バッハの音楽と同じですね。
"慰みの一つすらない"と、浜辺暮らしを従者に嘆いていた母、
我が子が今まさに、眼前にいると知った瞬間、
幸福感が一気に弾けます、
舞台一面が、暖かい愛に包み込まれます。
★お能では、「隅田川」のように、人買いにさらわれ、
亡くなってしまった息子を探し求める母の姿も、ありますが、
この「海人」では、逆に亡くなった母を息子が探す筋書、
どちらも母と子の、生死を隔てて愛情が交感する世界です。
★「海人」の始まり、橋掛かりから本舞台へ向かう
友枝昭世さんの一歩一歩、
海女の悲しみ、心の重さ、辛さのすべてが籠っています。
「歩み」だけで、かくも人の感情を表現できるものかと、
感嘆します。
★平均律第1巻「24番 h-Moll」 の Prelude & Fuga に通じる
「歩み」です。
実はこの「24番 Prelude」は、「8番 Fuga」から周到に
準備されていたのです。
前述の月刊誌「観世」の巻頭随筆で書きましたことを、
改めて再認識しました。
★その一部を再録しますと、
≪シテとワキの関係について、西洋音楽の根幹をなす Fuga の形式に
似ていることを発見しました。 Fuga との相似関係を簡単に説明して
みます。曲頭で演奏される Fuga の主旋律は無伴奏が多く、
これはあたかもシテが緊張感を孕み、観客の想像力をかきたてながら、
橋掛かりを歩んでくるのと似ています。しかし、それだけでは
主旋律(シテ)の全貌は現れません。補完する対旋律、つまり
ワキが必要です。
≪井筒≫で、シテの正体が「有常の娘」であることを暴くのは、
「旅の僧」のワキです。 Fuga も、目立たないが存在感がある
対旋律の出現によって、主旋律の全体像(シテの正体)、つまり
構成和音、調性などが明らかになり、リズムが補完されていくのです。
実によく似ております。旧約聖書に喩えられる Bachの
「平均律クラヴィーア曲集」第1巻最後の24番は、この関係がよく
現れています。
この曲(Prelude & Fuga)は、平均律1巻でBachが唯一、
演奏速度を指定しています。Preludeは、「アンダンテ
(ゆっくり歩く速度)」で、キリストが十字架を背負って
刑場に向かう歩み、 Fuga の「ラルゴ(ごくゆっくり)」は、
ゴルゴダの丘でよろめき、つまずき、喘ぐキリストのイメージと
重なります。
この名曲を名演でじっくりお聴きください。
(Fugaの主旋律は部分的に、二十世紀の十二音技法を
先取りしています)。人類永遠の芸術であるバッハと能。
尽きぬ感動を呼ぶのはともに普遍的な様式を根底に
もつからでしょう≫
★人類永遠の芸術である「バッハ」と「能」。
尽きぬ感動を呼ぶのは、ともに普遍的な様式を
根底にもつからでしょう。
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