音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■Goldberg変奏曲の「反復」に深い意味、ケンプ「Für Elise」にその答え■

2016-05-21 23:19:05 | ■私のアナリーゼ講座■

■Goldberg変奏曲の「反復」に深い意味、ケンプ「Für Elise」にその答え■
   ~アマゾンに素晴らしいブックレビューが投稿されました~

            2016.5.21   中村洋子

 

 

★前回の「Goldberg-Variationenゴルトベルク変奏曲」アナリーゼ講座の、

アンケートに、次のようなご質問が書かれていました。

『Ariaだけでなく、すべてのVar.にリピート記号が付いてます。
第一括弧 、第二括弧の曲もありますので、
単に形式的なものではないと思いますが、
何か意味があるのでしょうか』


★ゴルトベルク変奏曲のテーマであるAria(全32小節)は、

前半16小節を反復し、後半16小節も反復しますので、

実は64小節のテーマです。


★講座で既にお話いたしました第1~6変奏につきましても、

第1、3、5変奏は、Ariaと同じように、前半16小節、後半16小節を

反復します。


第2、4、6変奏は、前半と後半で各々、「第1括弧」と「第2括弧」が、

指定されています。

そして、第7変奏以降15変奏まで、ずっと規則正しく前半を反復し、

後半もまた反復します。


★しかし、それは本当に「規則正しい」反復なのでしょうか?

凡庸な変奏曲でしたら、規則的な反復ですが、

この「ゴルトベルク変奏曲」は、親しみやすい外見とは裏腹に、

強固な構造、構成で聴かせる曲です。

 

 


★その各変奏も、一般的な変奏曲とは、全く異なります。

ゴルトベルク変奏曲の、ある変奏の出だしは、

その前の変奏の最後に、接続します。

そして、その変奏の前半を弾き終え、反復に移る際は、当然のことですが、

前半の変奏の最後の部分に接続して、弾き始められます。


★それが意味することは、同じ部分の反復でありながら、

音楽の流れから見ますと、

全く異なった構成上の位置、つまり、結果的に異なった意味となるのです。

当然、演奏も同一のものでは、あり得ません。


★それにつきましては、まず、私の著書

≪クラシック音楽の真実は大作曲家の自筆譜にあり!≫Chapter 1

「エリーゼのために」の7小節目「ミドシ」は誤り、「レドシ」が正しい>を、

よく、お読みください。


★特に、P18に記しました

Wilhelm Kempff ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)の

「第1括弧と第2括弧の解釈」を熟考され、それをヒントにして、

「ゴルトベルク変奏曲」での「反復」の意味を、お考えください。

 

 

 


Kempffは、「エリーゼのため」の単純な反復部分での、

第1括弧と第2括弧の意味の違いを、読み取ることにより、

驚くような解釈と演奏を実現させています。


★上記原稿は、1964年のハノーファーでの演奏を基にして書きました。
                                                                   CD(POCG 90112)

Kempffは実は、その約10年前の1955年にも「エリーゼのために」を、

録音しています(DECCA 480 1288)。
       

1955年の古い録音では、Kempff は7小節目 「レドシ」を、

「ミドシ」で弾いています。

Beethoven 自筆のDraftを知る以前だったのでしょう。


この演奏も優れていますが、

1964年録音の 私は反復をこのように解釈しました” という

確固たる演奏と比べますと、やや単調です。


聴く側の印象としましては、

後の演奏は、自由自在に Beethoven の世界に羽ばたき、

遊んでいるという、楽しさを感じさせるのですが、

その楽屋裏では、思考に思考を重ね、

彫刻家が塑像を彫琢していくようにして、

たどり着いた結論と言えます。

 

 


★反復記号一つ取りましても、それをどう扱うかにより、

演奏家の力量が問われるという具体例でしょう。 


Sviatoslav  Richterスヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)が、

Franz  Schubert(1797~1828)シューベルトの

長大なピアノソナタだけでなく、

作曲家が書いた反復記号は、すべてその通り弾くべきであると、

たびたび言及してますが、その意味をかみしめるべきです。


★ところで、私の本に対する、アマゾンのブックレビューが、

新しく投稿されました。

以下がそのレビューです。

深く理解していただき、喜んでおります。

 

 

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■本物とは何か。本当に音楽を愛するとは
             投稿者  abicat  投稿日 2016/5/19
 
1980年~クルトホフマンとの対談の中で、F.Guldaはスピード競争化した
社会の中で音楽もまた本来持っていた豊かさや愛情などが置き去りされてしまったと
指摘している。

21世紀を16年過ぎた今状況はさらに深刻だ。

本書の中で紹介されているアファナシエフの『ピアニストのノート』
(講談社選書メチエ)
からの言葉―『今や音楽は内側からも外側からも破壊されている。
アーティストが内側から。
聴衆が外側から破壊する』
これは著者自身の嘆きでもあるだろう。

クラシック音楽を勉強(演奏)する意味をみつけたい人、
あるいは音楽と関係なく今の社会に言いようのない息苦しさを感じる人に
本書は最適な道案内となるのではないか。

この本は『本物とは何か。本当に音楽を愛するとは』という主題のもとに編まれた
9章64編の変奏曲のようだ。
各章末には著者の身辺所感が書いてあり、それらは全てテーマと無関係ではない。

西洋音楽を学ぶということは誰かの真似ではなく、思考した結果自分の音楽を作ること、
その為の必要な二つの柱、和声と対位法を学ぶにはバッハの音楽を
自筆譜から丹念に読み込む以外道はないとある。
そこで勘違いしてはならないのはタイトルの意味するところであろう。
自筆譜には当然ながら当時の演奏習慣(例えばリズムなど)を含め全てが
書かれているわけではない。
それらは自ら学んで身につけるものだ。
著者が言うのは、自筆譜及びメモを含めた関係書全てを読み取り、
理解した上で作曲家と作品に対する自分のスタンダードを確立せよ
ということではないか。

ではなぜバッハなのか?

それはどんな偉大な作曲家も先人から学ばなかった作曲家はなく、
音楽の長い歴史の中でバッハから真のレパートリーが始まったからであろう。
演奏はその時代に応じて時々に変化するがバッハの音楽自身は普遍にあらゆる面で
圧倒的な強さを持って迫ってくる。

この本には音楽を読み込む為の具体例として豊富な譜例と考察、校訂版の紹介、
練習方法に至るまで幅広く網羅されている。
優しく語りかけるように綴られた本書は、入門書の形を取っているが
極めて高度な専門書というべきであろう。
著者が読者に向ける眼差しは温かいが、学ぶ姿勢に対する要求は非
常に厳しいものがある。

なにもそこまでしなくてもよいではないか、
その時の心境、雰囲気に応じ気軽に音楽を楽しみたいという人も、
もちろん多くおられることだろう。否定するものではない。

でも、本物とは何かを知りたい、
自分の演奏に確かな手応えを感じたい、生きる意義(味)や喜びを
見出したい人には
本書を強くお勧めする。
特に私のようにレビューを参考にこれから購入しようとする人は、
直接自分の目で読んで判断することが大切だと思う。
この本は読むことが必ずやひとつの豊かさになる、
肯定するにしろ批判するにしろ読んだ経験のあるのと知らずに終わるのでは
全く違う、
そんな本である。

 

 

ここで著者と複数の方の名誉の為に一言申し述べたい。
本書を繰り返し読んでみたが、あるレビュアーが書いているように
個人名を挙げ
批判するような文章はどこにも見当たらなかった。
実名を挙げられた方も困惑することだろう。
確かに日本におけるバッハ演奏、専門書の問題点には触れている。
が、このレビュアーが書いていることは根拠のないものである。
事実に反することは控えるべきできである。
個人的な感想を書くのは勝手だが、公にする以上自身の文章には
責任が伴うことを自覚されたい。

いつの時代も真面目に書かれた作品、演奏は真面目に
受け取られるべきである。

どんな最良の言葉も読み取る力のない者には虚しくひびくだけ、
とは誰の言だったか。
真意が伝わらないことは残念なことである。

ショーンバーグはかつてその著書で『どんな芸術を鑑賞するにしても、
鑑賞者が作者の精神過程と一体化することが鍵となる。
音楽の持つ微妙なニュアンスはバッハ時代の教会や精神生活と
一体化できる人でなければ完全に理解できない』と書いた。

伝記を読むとバッハは音楽を神性のものとして、
音楽の目的とその最終的存在理由は『神の栄光をたたえ精神を
再創造すること』だと
信じていたそうである。
『単に音を弾くだけでなく、その作品の意味、感情に訴える点など情緒を
表現しなければならない(弟子への言葉)』

本書には大バッハに対する愛と尊敬、敬謙さが溢れている。
著者はまぎれもなくバッハの系譜に連なる人だろう。

現在の効率主義的社会の中で、我々はグルダの言った
『失われた喜びや愛情』を
取り戻すことができるのだろうか。
それに対するアファナシエフの答えは悲観的だ。

『ローマは一日にしてならず』
しかしそれを建てようとした人達がいたことも事実。

この本と共に希望を持って学んでいきたい。

続編を期待するものである。

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★私の本を、ここまで深く読み込んで頂きますと、

本当に、苦労して出版した甲斐がありました。

とても嬉しいです。

 

 


※copyright © Yoko Nakamura
             All Rights Reserved
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲

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