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業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その565 領土問題編

2012-10-01 13:06:00 | おもしろ不思議
この所日本国は領土問題で喧々囂々かまびすしい有様である。 ある外国人が「この領土問題は子供の喧嘩みたいだ」という意味の文を、そのブログで書いていた。

まったくその通り、「オレんだ!」、「いやオレんだ!」のやり取りを見ていると、子供の喧嘩そっくりである。 一つだけ根本的に異なるのは、いよいよヤバクなった時に仲裁をしてくれるオトナがいないことだ。

国家間の紛争には、子供の喧嘩のオトナにあたる存在がない。 つまりその裁定に対しては絶対的に服従しなければならないという存在がないのだ。

オトナがいないとどうなるか? 結局は強いものが勝つ。 自然の理である。 世論などというものは、それだけでは紛争の解決には役に立たない。(利用価値はあるが)

尚、この「強い」というのは武力だけの問題ではない。 経済力科学力、国際社会への広報宣伝力などの全てのパワーの総合力である。


国家間の領土紛争にしても、これまでの例を見るとほぼ全て強いものが勝っている。

1939年、カレリア地方はフィンランドの領土だったが、ソ連(当時)に割譲を迫られて戦争になった。 この開戦の起因はソ連の自国による自国軍への砲撃だった。 自作自演、日本の満州事変のそれとまったく同じやり口である。

フィンランドは名将マンネルヘイム将軍の元に善戦したが、圧涛Iな兵力差はいかんともしがたく、結局は屈辱的な講和条約を締結せざるを得なかった。 そしてカレリアはソ連のものとなった。

ドイツとフランスの国境にあるアルザス地方(住民は大半がドイツ系)の領有権は、中世の時代から両国の間を行き来し、現在はフランス領となっている。 理由は簡単、第二次大戦でドイツが敗北したからである。

フォークランド諸島も16世紀以来スぺインアメリカイギリスフランスなどの領土権争いの舞台となっている。 その後19世紀になってアルゼンチンも領有を主張、後の紛争の遠因となった。 1982年のフォークランド紛争は記憶に新しいが、結果としては戦争に勝ったイギリスが領有権を握った。

その他、チベットも千島列島も果ては中国大陸でさえも、全て勝った方が支配しているのだ。 

例外としては近年になってからの国際司法裁判所による裁定の案件があるが、ブルキナファソ対マリとかボツワナ対ナミビアとか、小国による比較的小規模な紛争のものがほとんどである。(イギリス対フランスの小規模な紛争はあるが) 大国間での重要な紛争がこれで解決した例は、今の所はない。

所詮は強いものが勝ち、弱ければ相手にされないということである。 非情なもんですな。


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その561 驕れるマスコミ編

2012-09-21 09:03:00 | おもしろ不思議
新聞やTVなどを見ていて、時に生理的な不快感を覚えるCMがある。 東京新聞に時折掲載される口臭用の健康薬品(食品?)などが典型的な例だ。

トップにデカデカと歯をむき出した口の写真があり、これを見ているだけで生理的に不快な印象を受ける人が多いのではないか。 その下にはこれもデカデカと「思わず顔を背ける・・・」という文字が踊る。 思わず顔を背けるのは、読んでいるこちらの方である。

この種の口臭・体臭用の薬や食品の広告では、宣伝効果を狙う余り過剰に口臭や体臭を意識させる表現が多いようだ。

元々人間(人間だけではなく生物全てが)に口臭や体臭はつきものであり、これらが全くない人間などいない。 もしそんな人間がいたら、かなり異常な人であろう。

病的なものは別にして多少の臭いならあって当然、特に気にする必要もないし、エチケットに反することもないと思う。

ところが商人にとってそれでは商売にならない。 で、これでもかこれでもかとそれらを意識させるような広告を打つ。 アホな消費者はそれに踊らされ、特に体臭・口臭がひどいわけでもないのに、過剰に気にしてそれらの商品を購入する。

商品を販売する方は勿論だが、公器と称しながらそれを掲載する新聞にしても、随分と阿漕ではないか。  

もう一つ、東京新聞の場合だが、ネットからの投稿欄には、ハンドルやメアドだけではなく、住所氏名職業年齢電話番号まで記載を要求される。 ここまで詳細な個人情報が何故必要なのか? 連絡が取れる内容であればそれだけで良いと思うのだが、もしこれらの情報が漏洩したら、どのように責任を取るつもりなのだろうか?
 
笑止なのはこれらの個人情報には全て「必須」の赤マークがついているが、肝心かなめの「発言(360文字以内) 」には「必須」マークがついていないのだ。 個人情報さえあれば投稿内容そのものは不要ということらしい。


どくとるマンボウ北杜夫氏が朝日新聞だかのインタビューを受けた時の話しである。 数人の記者がやってきたが、その中の年配の男が記者達からは「先生」と呼ばれていた。 その男はマンボウ氏が何か話すと、「それは**ですね」と北さんの意志には全くそぐわない内容にすりかえる。 

で北さんが「いや、そうではなく**だ」と訂正しても、「ああ、じゃ**なんですね」とこれまた別の内容(自分達に都合のよい)にすりかえてしまう。 そのようなやり取りに終始していたそうだ。

そして掲載された記事では、マンボウ氏の話した内容とはまるで異なる内容になっていたそうである。 他にもこれに似た例を幾つも読んだ記憶がある。 

例えば、前段で何かの意見を提起し、後段でそれを否定するという論法で話した内容が、前段だけ掲載されて後段は無視され、結果としてその件に賛成というような書き方をされた、というような例があった。

マスコミ側の主張は、全てを掲載するには長すぎるのでこちらで要約した、というのものだが、全体の内容からは全く逸脱或いは逆になっているのは、要約とは言えない。

北杜夫氏等の知名人なら、そのことをエッセイなどに書いて世に訴えることもできるが、無名の市井の人ではそれすらできない。 自分の話した内容とは全く異なることを自分の意見として書かれても、結局は泣き寝入りということになってしまう。 このような例は私が知る限りでも多数あった。

よくある話しといえばそれまでだが、これがマスコミの驕りでなくてなんなのだろうか。


朝日新聞や東京新聞に限らずマスコミ特に新聞や週刊誌は、他者を攻撃非難することには熱心だが、自分自身に対する反省や自照はあまりしないのが常のようだ。 役人などと同じく、これが権力を持つものの驕りということだろう。

自分の書いたものが世に強い影響力を持つ。 これは巨大な権力であり、それを行使することには麻薬的な快感があるだろう。 それに対しての内省と抑制がなければ、官僚や政治家と変わらない。

そのような点では、いくら弱者の味方をよそおってもマスコミは典型的権力亡者なのだ。


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その559 憧れと開発編

2012-09-17 12:58:00 | おもしろ不思議
若き日の私は山好き自然好きであり、高山や僻地奥地に憧れていた。 歳を取ってからわかったことだが、「あこがれ」というのはその「あこがれている」時が最も素晴らしい時間なのだ。 それが実現してしまえば、残るのは多少の思い出とむなしささのみである。

もう随分前のことになるが、何年かぶりで西丹沢の同角沢に入ったことがある。 西丹沢の沢は交通の便が悪いこともあり、表丹沢に比べて静寂且つ険しい沢が多い。 同角沢やモチコシ沢はその代表的なものである。 

清冽な水が積み重なった巨岩の間を流れ落ち、両岸は険しく狭く迫っている。 瀑心をよじ、時にはへつって源流に至り、急傾斜のザレ場を登ると稜線にはスズタケが密生していて全く視界がきかない。 相棒を肩車するとようやく頭がスズタケの上に出るというありさま。 

コンパスと地図を見比べながら踏み跡すらない稜線を辿ると、小さな乗越しにようよう道しるべがあり、里へ下りることが出来た。 これがおよそ50年前のことである。 

そんな美しい沢だった。 再訪の時より10年足らず前には・・・

しかし・・・ 10年ぶりで訪れた西丹沢は無惨に変形していた。 美しかった沢には砂がびっしりとつまり、水の流れさえ細々となっていた。 これは上流でダム工事や伐採などがあった時の沢の状態である。 言わば「死の沢」である。

稜線まで登って唖然とした。 あの密生したスズタケの樹林が全くない。 のっぺらぼうの山肌が醜く広がっている。 それだけではなく登山道がつけられ、道には鎖まではってある。

案内板には、数年前に神奈川で国体が行われ、その際にこの道も「整備」されたとあった。 こんな自然破壊が公然と行われるのなら、国体など不要、整備も不要だ。
これは約40年前のこと。 僅か10年の間にこの変わりようである。


この時まで私はどちらかと言えば開発支持派であった。 便利になってなにが悪い。 地元の人はみな道がなくて不便と言っていると・・・ しかし、この体験以後はかなり強度の自然保護派に転じた。

列島の横幅が300キロ足らず、高山と行ってもせいぜい3千メートル程度のこの狭い日本で、このように自然を「整備」していけば、自然などあっという間になくなってしまう。

「誰もが行けるから」という。 「老人子供でも登れるから」という。

しかし誰もが行けなくてもいいではないか。 行けなければ憧れていればよい。 「あの山の果てにはなにがあるのか」、「あの山に行きたいな」と憧れれていればよい。 誰もがヒマラヤに登れるわけではない。 しかし「誰でも行けるから」とヒマラヤに道をつけるのか? ケーブルカーを建設するのか?

「できない・行けない」ということは、『「出来ない・行けない」ということができる』ということなのだ。 だから憧れはひとつの特権である。 行ってしまえばそれはなくなる。 だから「行けない」ということも特権のひとつなのだ


数十年前の懐かしくももの悲しい思い出のひとつである。


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その558 因果編

2012-09-15 09:08:00 | おもしろ不思議
ついに来ました誕生日。 又ひとつ歳を取ってしまった。 誕生日になったからといって急に歳を取るわけでもなく、毎日一日分ずつ馬齢を重ねていく筈ではあるが、やはりなにがしかの感傷はある。

「親の因果が子に報い当年とって71歳、老いさらばえたるこの姿・・・」 

私の親はまずまず良い親であり、因果が報いたのは自分自身の愚行のせいなのだが、まあたまにはこんなことも書いて見たい。

若い頃は早くおとなにみられたいと精一杯背伸びしていたが、今一番嬉しいことは「いやぁ、お若いですなあ」と言われること。(;´Д`) 

「お若い」と言われるのは既に若くない証拠で、これはもうどうしようもない。 せいぜい出来ることは、残り少ない人生を目一杯ゲームで楽しむこと位か。


Stalker Soup(日本語版) やりたいよ shocker2.0やりたいよ(日本語版) Lost Alpha(日本語版)やりたいよ  Secret Path 3(日本語版)やりたいよ  BioShock3やりたいよ  ・・・・・・


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その549 柔道二刀流の薦め編

2012-08-25 09:43:00 | おもしろ不思議
今回のオリンピックは全く盛り上がらなかった。 少なくとも私にとってはであるが。

理由は簡単至極、メダル数は多くても金メダルが少なかったからだ。 銀100個銅1000個より1個の金メダルが珍重されるのは、各メディアでのメダル数順位が金メダルの順であることからも明瞭である。

特に序盤での柔道の不振が、その後の各競技にも影響したのではないかと思える。 不振の理由は、新しいスタイルの柔道に対応しきれなかったということが、一番の理由だろう。 後は精神的な脆弱さという点も上げられる。

現在の柔道は私が柔道をやっていた頃とは全く違うものになってしまった。 腰を引いた自護体で力任せに引っ張り合うという、相撲とレスリングのあいのこのようなスタイルである。

ところが日本の選手は自然体のきれいなスタイル(昔からのスタイル)と、現在のスタイルの間を行ったり来たり、どちらにも収束しきれないようである。 その迷いというかふっきれなさが、精神的弱さとあいまって今回の成績にも影響したのではないか。

ならばいっそ柔道も2つのスタイルの共存にしてしまえばよい。 レスリングのフリースタイルとグレコローマンスタイルみたいなものだ。

かなた「フリースタイル」柔道、こなた「ジャャjカスタイル」柔道。 この二本立てでいったらよいのではないか。

フリースタイルはなんでもありの現在のスタイル、ジャャjカスタイルは自然体中心の古来の柔道で自護体禁止、というもの。 

まあ、馬鹿げたジョークではあるが、こんなのもありでは?