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業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その595 犬を呪わば穴二つ編

2012-12-04 10:10:00 | おもしろ不思議
犬捕獲しようと注射器用意、誤って自分に刺し昏睡=浙江
Y! 【社会ニュース】 より

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  浙江省杭州市内の同徳病院に、意識を失って唐黷トいた30代前後とみられる男性が運び込まれてきた。男性が意識を回復したのは3日後だった。男性は外を歩いている犬を強力な筋肉弛緩剤注射を使って捕まえ、食肉用に売りさばくことを続けていた。誤って1本を自分に刺して昏唐オた。中国新聞社が20日付で報じた。

  「もう恐いことはありませんよ。なんでも話しますよ。犬をつかまえようと思って、薬が入った注射器を持ってオートバイに乗っていました」――。男性は話し始めた。「何でひっくり返っちゃたかは分かりません。何も思い出せないんです」という。
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要するにこの男、筋肉弛緩剤を使って犬を捕らえ、食用として売って金にしようとしていたらしい。 ところが天罰てきめん、犬を呪わば穴二つ、ば天に向かって吐いたつばは自分にかかる。 オートバイの振動などで注射器の針が自分のおケツに刺さってしまったというお粗末。

しかしこんな奴が売ったDOGMEET(犬肉)を食べたら危険なんじゃないか? 筋肉弛緩剤入りの肉ですぞ。 筋肉弛緩剤ならまだしも、青酸を使う奴までいるらしい。

それにしてもあの国ではなんでもありますなあ。 まあ、バクハツしなかっただけましだが・・・


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その592 最悪の場合死に至る編

2012-11-28 14:10:00 | おもしろ不思議
暴チャンネルのおもしろスレより天災

「ことわざに「最悪の場合、死に至る」を入れると物騒になる」というものだ。
はいよるこんとん より

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犬も歩けば最悪の場合、死に至る

二階から目薬、最悪の場合死に至る

糠に釘 最悪の場合、死に至る

猿も木から落ちる、最悪の場合、死に至る

ミイラ盗りがミイラに、最悪の場合、死に至る

河童の川流れ 最悪の場合、死に至る

泣きっ面に蜂 最悪の場合、死に至る

石橋を叩いて渡ると最悪の場合死に至る

暖簾に腕押し、最悪の場合、死に至る

石の上にも3年 最悪の場合、死に至る

一寸先は最悪の場合、死に至る

仏の顔も三度まで 最悪の場合、死に至る

出る杭は打たれる。最悪の場合、死に至る。

頭隠して 最悪の場合、死に至る

二度あることは三度ある、下手すれば死に至る

聞いて極楽見て地獄 最悪の場合、死に至る

鬼に金棒最悪の場合、死に至る

溺れるものは、最悪の場合、死に至る

風が吹けば桶屋が最悪の場合、死に至る

二兎を追うもの、最悪の場合死に至る

釈迦に説法 最悪の場合、死に至る

塵も積もれば最悪の場合、死に至る

医者の不養生、最悪の場合、死に至る

毒を喰らわば最悪の場合、死に至る

早起きは、最悪の場合、死に至る

飛ぶ鳥を落とす、最悪の場合、死に至る

楽あれば苦あり、最悪の場合、死に至る

娘一人に婿八人、最悪の場合、死に至る

井の中の蛙、最悪の場合死に至る

飛んで火に入る最悪の場合、死に至る

弘法にも筆の誤り、最悪の場合、死に至る

勝って兜の尾の締めると、最悪の場合、死に至る

青菜に塩 最悪の場合、死に至る

飼い犬に手を噛まれる、最悪の場合、死に至る

良薬口に苦し、最悪の場合、死に至る

清水の舞台から飛び下りる、最悪の場合、死に至る

明日は明日の風が吹く。最悪の場合、死に至る

虎穴に入らずんば虎児を得ず、最悪の場合、死に至る

ローマは最悪の場合、一日にして死に至る

撃ヘ身を助ける。最悪の場合、死に至る

人を呪わば最悪の場合、死に至る

後悔先に立たず、最悪の場合、死に至る

聞いて極楽見て地獄、最悪の場合死に至る

喉元過ぎれば熱さを忘れ、最悪の場合、死に至る

秋茄子は嫁に食わすな 最悪の場合、死に至る

足元に火がつく、最悪の場合、死に至る

武士は食わねど最悪の場合、死に至る

爪に火を灯す 最悪の場合死に至る

笑う門には最悪の場合、死に至る

船頭多くして船山のぼる最悪の場合、死に至る

立てば芍薬、座れば牡丹、最悪の場合、死に至る

噂をすれば影がさす、最悪の場合、死に至る

雀の千声鶴の一声、最悪の場合、死に至る

人の噂も七十五日、最悪の場合、死に至る

雀百まで踊り忘れず、最悪の場合、死に至る

爪の垢を煎じて飲む、最悪の場合、死に至る

可愛さ余って憎さが百倍、最悪の場合、死に至る

三人寄れば死に至る
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とまあ、よくもならべたものですな。 しかし、パロでなく実際にその通りというものも多い。 以下などその代表。

清水の舞台から飛び下りる、最悪の場合、死に至る
(まあ、大体死にますな、これは)

飛んで火に入る最悪の場合、死に至る
(これも虫の身になってみれば、確実に死にます)

足元に火がつく、最悪の場合、死に至る
(そりゃ足下に火がつけば死ぬでしょうよ)

犬も歩けば最悪の場合、死に至る
(交通事故で死ぬ犬、かわいそ)

猿も木から落ちる、最悪の場合、死に至る
(いくら猿といえども木から落ちれば死ぬこともあり得ますな)

爪の垢を煎じて飲む、最悪の場合、死に至る
(野生動物の爪にはもの凄い数の細菌がいるらしい しかし煎じて、つまり煮沸消毒すれば問題はないと思うのだが)

人を呪わば最悪の場合、死に至る
(これもごもっとも 他人を呪えばいつかは我が身にふりかかることも)

溺れるものは、最悪の場合、死に至る
(まあ、溺れれば大体死にますな)


しかし、どうにも理屈がおかしいというのも多い。

暖簾に腕押し、最悪の場合、死に至る
(これなど、どうしてのれんに腕押しすると死ぬの?)

仏の顔も三度まで 最悪の場合、死に至る
(これも同じ 仏の顔は何度でもいいんじゃね?)

頭隠して 最悪の場合、死に至る
(これもわからん 頭隠すとどうして死ぬの?)

ローマは最悪の場合、一日にして死に至る
(は?)

撃ヘ身を助ける。最悪の場合、死に至る
(身を助けることはあっても、死に至ることはないと思うが)

二階から目薬、最悪の場合死に至る
(??? なんで目薬さすと死ぬの?)

糠に釘 最悪の場合、死に至る
(これもわからん 糠に釘を刺しても死ぬことはあり得ないぞ)

立てば芍薬、座れば牡丹、最悪の場合、死に至る
(歩く姿は死に装束とでもいいたいのか)

雀百まで踊り忘れず、最悪の場合、死に至る
(これもわからん なんで踊りを忘れないと死に至るの?)

釈迦に説法 最悪の場合、死に至る
(? お釈迦様に説法すると、何故死ぬのか? 糞害した弟子どもに撲殺されるとか?)



業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その585 懐かしき思い出よ編

2012-11-12 09:06:00 | おもしろ不思議
ブルーグラスミュージックの雄レスター・フラット(元アール・スクラッグズと共にFoggy Mountain Boysのリーダー) の曲に、「Cabin On The Hill」という名曲がある。 私は長い間フラットの自作だとばかり思っていたが、別人の作らしい。 作者名「De Voll」とあり、「匿名」と言うことらしいが、正体は不明。


Cabin On The Hill

There's a happy childhood home in my memory I can see
Standing out upon the hill 'neath the shadow of the tree
If I only had my way it would give my heart a thrill
Just to simply wander back to the cabin on the hill.
(中略)
But the saddest of it all I can never more return
To that happy childhood home matters not how much I yearn

というような歌詞であり、ブルーグラスミュージックによくある少年時代への郷愁に溢れる内容である。

幸せな少年時代の思い出よ
岡の上の木陰にたたずみ
心のときめきを聞く
嗚呼 あの頃に戻りたい 丘の上の我が家へと

しかし哀しきかな
あの幸せな少年時代には戻るすべもない

というような意味だろう。 哀しきかな、人は一度老いれば二度と少年には戻れないのだ。


私にも思い出がある。 楽しいものも哀しいものもある。 その中の一つは小学校時代の先生である。

5.6年生の担任だった大島先生という若い女性の先生の思い出である。 大学を卒業後直ぐ先生になったそうなので、当時は22.3だったのだろう。 ふっくらと小太りで美人とは言えないが、とにかく優しい愛情の深い先生だった。

いつも子供のことを第一に考え、愛し慈しんでくださった。 大島先生とよく相撲をとったのも懐かしい思い出である。 ふっくらとした胸元に顔を埋めると、不覚にも*起しそうになったこともある。(´?ω?`)

もう一人は1.2年生の時の鈴木先生である。 昭和25.6年頃だったとおもうが、こちらは特攻隊帰りという勇ましい経歴の先生だが、おっかない先生でもあった。 悪ガキ(私のことじゃ)が悪さをすると、拳固でごちんとやられた。

今だとやれ「体罰だ」、それ「虐待だ」とうるさいが、当時の私たち悪童連は誰一人鈴木先生を悪くいうものはなかった。 それどころかみんな鈴木先生が大好きだったのだ。 ごちんとやられるのはそれなりの理由があってのことで、何もしないのにやられることは絶対にないことを、みんな知っていたからだ。

それに鈴木先生は当時としては珍しく、ピアノが弾けた。 子供たちにせがまれてピアノに向かい曲(なんの曲かは忘れてしもた)を弾いてくれた。 これも懐かしい思い出である。

一体に学校の先生は、昔の方が良い先生が多かったのではないか。 教育方法とか教育技術などはさておいて、少なくとも子供に対する愛情については、昔の先生の方がよほど純粋に子供たちを愛していたと思う。


こうやって昔のことを思い出していると、ニコライ堂の鐘の音が聞こえてくるような気がする。 

当時昭和20年代の終わり頃は、本郷近辺には図書館がなく(あったのだが戦災で焼けてしまって未だ再建されていなかった)、本好きの私ははるばる神田の図書館まででばっていた。

私の家はお茶の水駅からだらだらと坂を登った所にあり、駅迄は大人の足で10分程だが、そこから図書館(今のYMCAの近くか?)迄更に10分程かかった。 子供だと片道30分以上かかったのではないか。

その頃から読書好きだった私は、シートンの動物記とかファーブルの昆虫記、或いはドリトル先生シリーズなどを借りるため、とことこと神田の図書館まで通ったのだ。
司書のお姉さんも優しい人で、通常貸し出しは1度に2冊迄という規則があったのだが、3冊差し出すと「いいわよ」と許可してくれた。

小学校を終えてから神田の図書館へ行き、本を選んで出る頃になると既に夕暮れである。 赤く染まった夕空にニコライ堂の鐘の音が響きわたり、暗くなる前に家に帰ろうと足を速めるのだった。


忘れていた思い出も、何かの折にふと脳裏に蘇る。 60年も前のことなのに、鮮明なイメージが頭の中の忘れられたひだからわき上がってくるのである。 今回のお話しはその中の一つである。

ガラにもなくおセンチな(笑)


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その584 感覚喪失編

2012-11-10 09:05:00 | おもしろ不思議
暴チャンネルのまとめサイトに面白いものがあった。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、一つ失わなければならないとしたらどれを選ぶ?
というもの。 嗅覚というのが一番多かったが、さて私なら?


まず視覚、これは論外。 目が見えなくてはゲームもできないし、*の女の子を鑑賞することも出来ない。 第一危なくて外も歩けないじゃないか。

聴覚 これも不可。 耳が聞こえないと電話もできないし、車の警笛も聞こえない。 危険きわまりないので却下。 人とのコミュニケーションが出来なくなる感覚は失いたくない。

触覚 これは痛みがある場合には無くてもよい。 というよりない方がよい。 しかしそれ以外の場合は不便だろう。 不便と言うより危険な場合が多いのではないか。 例えば階段を下りる時の手すり、これが触覚がなければ掴むことさえ出来なかろう。 触覚がなければ満足にものを掴むことさえできないだろう。 これまた危険且つ不便なのでNG。


残るのは以下の2つだが、これは迷うところだ。

味覚 これがなくなると文字通り味気ない生活になりそう。 食べ物の味がなければ食欲も湧かないのではないか。 栄養失調で衰弱死の可能性大。

嗅覚 嗅覚がないと食べ物の味も判別しがたくなるらしい。 それに腐った食べ物もうっかり食べてしまいそうで浮「。 もう一つ大事なのは、火事などでものの焼ける臭いや漏電でショートした焦げる臭いも感じなくなるから、これまた危険である。


・・・・・・

なんだ、どれも必要なものばかりじゃないか。 なくてもよい感覚など一つもない。 それもなければつまらぬというようなどうでもよいものではなく、ないと危険、ないと死ぬという切実なものばかり。

私の母は晩年嗅覚を失った。 風邪で熱が出て数日後に嗅覚がなくなったのだが、医者に言っても現在の医学ではいかんともしがたいということだった。 匂いを感じる細胞自体ではなく、そこから脳に繋がる神経が死んでしまったということらしい。(80歳過ぎ位だったか)

嗅覚が無くなって以後は鍋の空だきなどが多くなったが、幸い私が気をつけていたので火事などの大事に至ることはなかった。 しかしこれがもし一人暮らしだったら、かなりヤバイことになりそうである。

そう考えると、人間の感覚は一つでも失えば、文字通り致命的な大事に至る可能性が高い。 しかもこの感覚は存在しているとその恩恵には全く無関心で、あって当然としか思えない。 そして、失ってみて始めてそのありがたさ、有用さに気づくのだ。 

これらの感覚、ありがたいような浮「ような・・・


業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その577 ネットが無い時代何をやってたか編

2012-10-25 10:55:00 | おもしろ不思議
「ネットが無い時代、お前ら何やってたの」というスレが暴チャンネルにあった。
「特に80年代から90年代」だそうである。

さて、私の場合は?

80年代にはインターネットはなかったがそのかわりパソコン通信というものがあった。 (今でもあるが) いわゆるBBSである。 大手ではアスキーネットやニフティ・テレスター、NEC主催のビッグローブなどがあった。

当時はブロードバンドなんてものはなかったので、通常の電話回線に弁当箱位の大きさの音響カプラーを装着(送話口受話口にかぶせる)して行っていた。 通信速度は現在から見ると信じられない位の低速だった。 初期の速度は300ボーとかそんなものではなかったか。 おまけに通信中はピーヒャラメ[ヒャラと、やたら騒々しい音をたてる。

82.3年頃だったか、上野の松坂屋で「日本草の根BBS大会」(正確には違うかもしれないが、およそそんな内容のイベント)が開かれ、私も訪れてみた。 おもろそうやなと思ったのが運のつき、凝り性の私ゆえ、後は一瀉千里のめりこんでしまった。

でも今振り返ってみると、現在の進歩したネットよりその頃の草の根BBSの方が数段楽しかったような気がする。 ハードウェアもソフトウェアも現在とは桁違いに貧弱だったのにである。 

貧者の幸福というものかも知れないが、その頃の友人とは随分長くつき合い、10年ほど前迄続いた人もいた。 しかし、その友人達も次第に音信不通になり、この数年は当時の友人達とは全く無縁になってしまった・・・


それで80年代90年代には、私は何をしていたか?

今とあまりかわらないような気がする。 

パソコンを始めた81年頃からゲームにのめり込み、次第に自分でもゲームを作りたいという気持ちが強くなった。 80年代の中頃に98を手に入れてからは、独学でCやアッセンブラを学び、今のフリーソフト、当時はPDSなどと言っていたが、そんなものを作り始めた。

最初はグラフィックを扱う記述を知らなかったので、テキストオンリーのゲームから始まり、後にグラフィック関係のツールが出て来てからは、フリーの画材を使ったアドベンチャーゲームなどを作った。 音楽も自前で作ったりしていたのだ。 今思うと根気がありましたなあ・・・

しかし、私には画才というものが全くなく、コップを使って丸を描くことすら出来なかった。 つまりグラフィックを入れたゲームは自分一人では製作できないということである。

それで仲間を募ってゲームを作り始めた。 いわゆる同人ゲームという奴である。  その内に商業化の話しが持ち上がり、会社を設立現在に至るということなのだが、それで良かったのか悪かったのか。

会社を作ってからは随分とひどいめにもあってきた。 いずれ詳しく書くつもりだが、今でも思い出す都度はらわたが煮えくり返るという記憶もある。

でも過去の時間に戻って人生をやり直せるとしたら、私はなにをするだろうかと考えてみると、やはりゲームを作っていたかも知れないなとも思う。 因果というのか妙なもんですな。