西向日駅は、阪急が出来た最初から現在まで、住民運動で使いやすい駅に!
■□阪急西向日駅の改善 ここにも住民運動の歴史あり
阪急西向日駅に、なぜ東西通り抜けの地下道があるのかは、向日市民でもその経過をご存じない方がほとんどでしょう。
阪急電車(新京阪電鉄)が開通したのは昭和三年春のことです。当初の計画には「西向日駅」がなかったのです。しかし向日市南部に住む人々から、もう一つ駅をつくってほしいという要求が広がっていました。
私の祖父大橋孝(よし)などが、みんなで座り込み、炊き出しなどをしてがんばって設置させたと事情を知る老人から聞いたことがあります。
当時の向日町長が、住民の意向を受け「新京阪電鉄」に対し交渉した内容が向日市史に書かれています。町長は、「今は周辺に家はないが駅ができれば周辺に住宅地を誘致する」という約束をし、その実現にこぎつけたのです。当時としては「町長アッパレ」です。
そのとき、伏見の方向に線路を延ばすという話もあったらしく、側線が引けるように駅の敷地を広く買い取ったために、現在上りも下りも両方に自転車置き場をつくるスペースがあったのです。
西向日駅が現在のように改築されるとき、「向日市議会」として何名かの議員とともに阪急本社へ交渉に行ったことがあります。構内のスロープや東西通り抜けのスロープがあるのはそのときの成果です。改築前の駅は、構内踏切があり、通り抜けできましたが、もう覚えている人は少なくなりました。この西向日駅は最初から現在まで住民運動で使いやすいものにしてきたのです。
ついでですが、駅の西口を出た北側のタバコ屋さんから線路敷地内を見ると細い溝が線路を横断して通っています。よく見ると溝が二本並んでいます。これも住民運動の成果です。
あるときの大雨でタバコ屋さんの前から西口一帯が水つきになりました。原因は阪急の線路敷の溝が細く、東に水が抜けなかったのでした。早速ご近所の署名を集め、市役所へ行き「もっと広い溝にするよう阪急と交渉していただきたい」と申し入れました。
線路の下を工事するのはなかなか困難なことで、すぐには解決しませんでした。しかしこんな高い場所で、しかも部分的に水つきするのはおかしいじゃないかと食い下がって、何度も問題にしました。要求が切実なら相手が誰であれ解決の道はあるものです。何日かして土木課長から、「阪急が今の溝をつぶさずに、同じ広さの溝を平行してもう一本造ることになりました」と報告がありました。なるほど、うまく考えたものだと感心しましたが、今もそのまま二本並んで立派に役目を果たしているのです。