大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

 朝鮮と大韓帝国が亡国に向かっていく最後の30年ほど(1876~1910)の歴史を省みるとき、必然的に向き合うことになる質問は、日本がいつから朝鮮半島を飲み込むという「野心」を抱くようになったのかだ。

2024-08-14 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会
 

野心をあらわにした日本

「日本の『利益線』の焦点は朝鮮」

登録:2024-08-12 22:42 修正:2024-08-13 08:38

 

キル・ユンヒョンの朝鮮の分かれ目_08 
 
福沢諭吉は1885年3月16日、近隣に支那(中国)と朝鮮があるという事実を日本の「不幸」と評し、「隣国の開明を待ってともにアジアを興す猶予はない」と宣言した。朝鮮に事変が起きた場合、軍事力で清を制圧した後、「朝鮮独立」という虚名を掲げて朝鮮半島を飲み込もうとするものだった。
 
 
山県有朋(1838~1922)は明治維新を主導した長州藩(現山口県)出身の人物で、当時の陸軍の最高実力者だった。1889年12月に日本の第3代総理大臣になった彼は「我邦利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と主張した=日本国立国会図書館//ハンギョレ新聞社

 朝鮮と大韓帝国が亡国に向かっていく最後の30年ほど(1876~1910)の歴史を省みるとき、必然的に向き合うことになる質問は、日本がいつから朝鮮半島を飲み込むという「野心」を抱くようになったのかだ。これについては様々な見解があるだろうが、1876年2月の朝日修好条規(江華島条約)の後、日本の為政者たちが初めて感じるようになった感情は、「野心」というよりは、あの国のために大きな災いを被ることになりうるという「不安」だった。

 その決定的な契機は1882年7月の壬午軍乱だった。明治時代の日本が生んだ天才の一人である参事院議官の井上毅(1844~1895)は、壬午軍乱直後の9月17日に『朝鮮政略』と題する意見案で「朝鮮ノ事ハ賂来東洋交際政略ノ一大問題トナリテ二三大国ノ間ニ或ハ此国ノ為ニ戦争ヲ開クベシ」と見通した。この不安は、2年後の甲申政変を通じて改めて確認される。朝鮮をこのまま放置していては、遠からず清やロシアと一戦を交えることになりかねなかった。そのような意味で朝鮮は、明治維新(1868)を成功させた近代日本が初めて向き合うことになった深刻な「安全保障上の難題」だった。

 日本の為政者たちがこの問題で頭を痛めた根本的な理由は、軍事力が清やロシアに比べて脆弱だったためだった。専修大学の大谷正教授の著書『日清戦争』(2014)によると、日本は1873年に「国民徴兵令」を導入し、近代的な軍隊を組織しはじめた。ところが、壬午軍乱が勃発した1882年における陸軍の動員可能兵力は、常備兵1万8600人と予備役2万7600人を加えた4万5000人で、海軍の規模は24隻(総排水量2万7000トン)にすぎなかった。その反面、清は1880年に北洋大臣の李鴻章が率いていた淮軍(安徽省と合肥省の兵力)だけで10万人だった。1885年に就役することになるドイツ製の7000トン級戦艦の定遠と鎮遠を備えた北洋海軍の威容も凄まじかった。日本はやむをえず、1882年10~12月ごろ、「東洋平和という大局的観点から、当面は(朝鮮に対して)消極政策を取る」ことを決める。「対決」ではなく「協力」という枠組みのなかで、朝鮮の自主独立を達成していくことを決意したのだ。

 しかし、清と協力して朝鮮の自主独立を実現するということは、同時達成が不可能な矛盾した目標であった。この難題を克服するために井上は朝鮮政略で、清と日本が米国・英国・ドイツの3カ国と協力して朝鮮を「永久中立国」にするという妙案を出す。朝鮮が中立国になれば、清と日本との関係を保全しながらも、朝鮮を自主国にすることができるというわけだ。井上はこれを通じてロシアをけん制し、東洋の均勢(勢力均衡)を維持するなどして「東洋ノ政略ニ於テ稍安全ノ道ヲ得ル者トス」と考えた。

 これは井上だけの考えではなかった。当時の朝鮮で外国語や国際法などに最も詳しかった兪吉濬(ユ・ギルジュン、1856~1914)も同じ考えだった。兪吉濬もまた1885年に出した『中立論』という文章で、朝鮮は「地理的にみるならば、アジアの咽喉に位置しており、欧州のベルギーと同じだ」として、朝鮮が「アジアの中立国になることは、まさにロシアを防ぐ大機であり、アジアの大国が互いに保全できる政略になりうる」と主張した。朝鮮と日本の二人の要人が、極東の地政学的な要衝地に位置する朝鮮が独立してこそ「勢力均衡」と「東洋平和」が維持されるとして、「朝鮮を中立国にしよう」という意見を提示したのだ。

 
 
朝鮮初の日米への留学生だった兪吉濬(1856~1914)は甲申政変(1884)直後に帰国し、金玉均ら急進開化派に近かったという理由で1892年ごろまで軟禁された。日本の力を借りて朝鮮を大きく変えようとした甲午改革の主役になる=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 この構想が実現されるためには、二つの大きな障害を越えなければならなかった。一つ目は朝鮮が中立国になれるほどの「実力」を備える必要があるということだった。朝鮮中立論が出てきた時期は、清と日本の妥協で朝鮮半島情勢が比較的安定した期間(1885~1894、天津条約から日清戦争までの10年)と重なる。朝鮮が自力で改革を試みることができた事実上「最後のチャンス」だった。高麗大学経済学部のイ・ホンチャン教授の研究によると、1900年代の日本の国内総生産(GDP)は朝鮮の5倍、財政規模は50倍だった。朝鮮の経済力は日本の5分の1の水準だが、財政規模は50分の1にすぎなかったという意味だ。国家が税金を適切に徴収して国家の発展に投じられるよう、貨幣・税制・財政・金融改革を急がなければならなかった。

 もちろん、大規模な内政改革を推進した経験と能力がなかった朝鮮にとっては、容易ではない挑戦だった。これよりさらに大きな問題は「政治的意志」だった。清と日本の協力体制が稼動して国際情勢が安定し、高宗と閔氏一族はついに望んだ平和を得ることになる。彼らは国に資金がないため悪貨(当五銭)を鋳造し、破廉恥な官職売買を日常的に行いながらも、当人たちの「既得権」が保障される現実に安住した。自分の理解に反する改革は試みさえしなかった。これをみていた黄玹(ファン・ヒョン)は、著書『梧下記聞』に「様々に疲弊した政治はすべて10年以内に増えたものであり、(当時の実力者の)泳駿(閔泳駿(ミン・ヨンジュン)、後に閔泳徽(ミン・ヨンフィ)に改名、1852~1935)が国政を左右するに至り、さらに深刻になった」として、王室の贅沢、官職売買、閔氏一族の腐敗を一つひとつ告発した。

 二つ目の障害は、宗主国を自認する清の反対だった。その後の歴史が示すように、清は「最後の属邦」である朝鮮を手放すつもりはまったくなかった。これをよく知っていた「現実主義者」である兪吉濬は『中立論』で「一貫した方略は中国にかかっている」として、「わが政府がこれを要請するよう切実に望む」と記した。しかし、朝鮮は要請しなかったし、中国も受け入れる意思はなかった。最終的にこの時期の中立論は、単なる構想に終わってしまった。

 朝鮮の中立国化が現実的でないのであれば、日本に残された選択肢は「軍備拡張」しかなかった。井上の『朝鮮政略』が出る1カ月前の1882年8月15日、山県有朋参議(参謀本部長兼任)は『陸海軍拡張に関する財政上申』という文書を閣議に提出した。山県は日本の戦力が清に劣っているとして、軍艦は48隻に、陸軍の常備兵力は4万人に増やす必要があると主張した。これにあわせて大山巌陸軍卿と川村純義海軍卿は、1883年から1890年までの8年間に推進する軍備拡張計画を提出した。その後日本は、酒税とタバコ税の増税を通じて軍事力を猛烈に増強していった。その結果、日清戦争が勃発する直前の海軍戦力(総排水量5万9100トン)は清の北洋艦隊(8万5000トン)にほぼ追いつき、陸軍も7個師団(1893年改正の戦時編成により、1師団の平時定員は9199人、戦時定員は1万8000人)を基軸とする強軍に生まれ変わった。

 
 
朝鮮を中立国にすべきという意見を初めて出した人物は明治時代の日本が生んだ天才の一人である井上毅(1844~1895)だった。彼は1882年の『朝鮮政略』で朝鮮をベルギーやスイスのような永世中立国にすべきだと主張した=日本国会国立図書館//ハンギョレ新聞社

 生まれ変わった日本の姿は、8年前に軍備拡張を主張した山県による1890年12月6日の施政方針演説で劇的に示された。山県はこの日、日本のその後の安全保障政策に重大な影響を与えることになる「利益線」という概念を提示する。「国家の独立と自衛の方法には二つある。一つ目は主権線を守護することで、二つ目は利益線を保護することだ。主権線とは国家の領土を指し、利益線とは主権線の安危と密接な関係を持つ地域を指す。列国の間で国家の独立を維持するためには、主権線だけを防衛するのでは十分ではなく、必ず利益線を保護しなければならない」

 山県はこの日、日本の利益線がどこなのかは述べなかったが、同年3月に出した『外交政略論』では「我邦利益線ノ焦点ハ実ニ朝鮮ニ在リ」と明確に示した。また、利益線を防衛するためには、時には「強力(軍事力)を用いる」しかなく、シベリア鉄道完成の暁には朝鮮は多事になるとして、清と日本がロシアに対抗するためには、朝鮮で同時に軍の撤収を決めた天津条約を廃棄する必要があると述べた。

 山県は朝鮮独立という名目と清との協力の必要性を否定してはいないが、金玉均(キム・オッキュン)を支援した思想家の福沢諭吉の考えは違った。福沢は「時事新報」1885年3月16日付の紙面に掲載した「脱亜論」という無記名の社説で、近隣に支那(中国)と朝鮮があるという事実を日本の「不幸」と評し、「隣国の開明を待ってともにアジアを興す猶予はない」とする絶交宣言をする。周辺国に対するこのような蔑視が社会内に根をおろしていたならば、朝鮮に異変が起きた場合、日本は「軍事力」で清を制圧した後、「朝鮮独立」という虚名を掲げて朝鮮半島を飲み込もうとする状態だったことだろう。日本がそのような考えを固めるころ、1894年初頭、全羅道古阜(コブ)で農民反乱が起きたという知らせが伝わってきた。日清戦争が始まろうとしていた。

 
//ハンギョレ新聞社

キル・ユンヒョン|論説委員。大学で政治外交を学ぶ。東京特派員、統一外交チーム長、国際部長を務め、日帝時代史、韓日の歴史問題、朝鮮半島をめぐる国際秩序の変化などに関する記事を書いた。著書は『私は朝鮮人カミカゼだ』『安倍とは誰か』『新冷戦韓日戦』(以上、未邦訳)『1945年、26日間の独立―韓国建国に隠された左右対立悲史』(吉永憲史訳、ハガツサ刊)などがあり、『「共生」を求めて』(田中宏著)『日朝交渉30年史』(和田春樹著)などを翻訳した。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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今年5月に、ソウルで日中韓首脳会議が開催され、ASEANと協力して、東アジアサミット、AOIP(ASEANインド太平洋構想)、ASEAN地域フォーラム(ARF)などを発展させていく方向が、

2024-07-17 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

2024年7月17日(水)

東アジアの平和と日韓友好のために

韓国大使離任 志位議長があいさつ

 日本共産党の志位和夫議長が16日の尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日韓国特命全権大使の歓送会(日韓議連主催)で行ったあいさつは次の通りです。


写真

(写真)あいさつする志位和夫議長=16日、東京都千代田区

 尹徳敏駐日大使の離任にあたり、日本共産党を代表して一言ごあいさつを申し上げます。

 大使が、2年前に日本に着任され、わが党本部にごあいさつにこられたさいに、「一刻も早く日韓関係を友好関係に戻していきたい」と言われました。その後、日韓両国関係が改善し、両国民の往来も盛んになってきたことは、喜ばしいことであり、大使の尽力に心からの敬意を申し上げます。

東アジア平和構築での協力を

 東アジアでどうやって平和をつくっていくかについて、大使と何度か意見交換をさせていただく機会がありました。私は、ASEAN(東南アジア諸国連合)と協力し、ASEAN10カ国と、日本、韓国、中国、米国など8カ国が参加する東アジアサミット(EAS)の枠組みを活用・発展させ、地域のすべての国を包摂(ほうせつ)する形で、東アジアの全体を東南アジアのような戦争の心配のない地域にしていくという外交努力が重要ではないかとお話ししました。

 その後、今年5月に、ソウルで日中韓首脳会議が開催され、ASEANと協力して、東アジアサミット、AOIP(ASEANインド太平洋構想)、ASEAN地域フォーラム(ARF)などを発展させていく方向が、共同声明に明記されたことは、重要だと考えています。

 東アジアの平和構築のための協力を願うとともに、大使がこれからもお元気でご活躍されることを願うものです。

戦後80年――歴史に真摯に向き合う

 来年は戦後80年の節目の年となります。私は、日本と韓国とが本当に心の通った友好関係をつくるためには、過去の歴史問題に対して日本が誠実に向き合うことが必要だと考えております。とくに、1990年代につくられた三つの重要文書――「村山談話」(95年)、「河野談話」(93年)、「日韓パートナーシップ共同宣言」(98年)の核心的内容を継承し、それにふさわしい行動をとることが重要だと考えます。

 日韓両国のさまざまな懸案――(戦争中の労働者、軍人、軍属の)遺骨返還問題を含む諸懸案を解決していくうえでも、日本が過去の歴史問題に真摯(しんし)に向き合うことがたいへんに重要であり、そういう立場で力をつくしていきます。

在日韓国人のみなさんの権利・人権を守る

 最後に、在日韓国人のみなさんの権利・人権という点では、被選挙権を含む地方参政権を一日も早く実現し、ヘイトスピーチやヘイトクライムをなくすなどの課題を、政治が責任をもってすすめるために、わが党も力をつくしていきます。

 大使のご尽力に重ねて感謝し、そのご健勝を願い、両国・両国民の友好のために私たちも力をつくすことをのべて、ごあいさつとします。

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東京新聞は6月30日、「解釈改憲(憲法解釈の変更)は『平和国家』のあり方が変質する起点となり、10年間で日米の軍事的一体化、専守防衛の形骸化が進んだ」と指摘した。

2024-07-02 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会
 

「戦争できる国」を加速させる日本…

米国頼りの「タブー」の打破へ

登録:2024-07-01 07:46 修正:2024-07-01 09:33

 

集団的自衛権の憲法解釈の変更から10年
 
 
日本の海上自衛隊訓練の様子=海上自衛隊のウェブサイトより//ハンギョレ新聞社

 1日に創設70年を迎える日本の自衛隊が、全世界のどこでも「戦争ができる軍隊化」を加速させているという懸念が浮上している。1日は日本政府が平和憲法と呼ばれる日本の現行憲法の解釈を変更し、「集団的自衛権」の行使を可能にして10年目になる日でもある。

 米国は、第2次世界大戦直後に日本を武装解除し、警察予備隊と海上警備隊を作り、治安維持だけを日本に任せた。朝鮮戦争をきっかけに、1954年7月1日に自衛隊が創設されたが、軍隊などの戦力保有を禁止した憲法9条の制約を受けてきた。

 しかし、創設70周年を迎えた自衛隊の最近の動きは尋常ではない。中国の軍事的脅威を名目に、インド太平洋地域の国々との合同演習の回数は昨年は56回で、2006年(3回)に比べ18倍に増えた。演習地域も日本周辺(18回)だけでなく、東南アジアで10回、南シナ海で4回など、活動半径を広げている。来年には「敵基地攻撃(反撃)能力」の保有手段の一つとして、米国の巡航ミサイルであるトマホークが導入される予定で、2027年には防衛予算が約11兆円を超え、米国と中国に次ぐ世界第3位の軍事大国に浮上する見込みだ。第2次世界大戦の敗戦後、事実上阻止していた兵器輸出も徐々に解除している。

 事実上、米国の容認と協力のもとで軍事的影響力を強めている状況も注目に値する。6月10日に日本と米国は「日米防衛産業協力・取得・維持整備定期協議」(DICAS)を開き、迎撃ミサイルであるパトリオットミサイル「PAC3」などを含む兵器の共同開発や生産などを議論した。23日には米国のラーム・エマニュエル駐日大使が「米日両国がミサイルや他の最先端兵器の共同生産のスピードを上げなければならない」と述べた。朝日新聞は「これまで日本の安全保障政策は、米国が日米協力の青写真を描き、日本がその宿題をこなすように防衛力を強化してきた」としたうえで、「日本は主体性を失い、あるいは失ったふりをして米国の外圧を利用し、『戦後安保のタブー』(元外務省幹部)破りを進めてきた感が否めない」と指摘した。

 また1日は、日本政府が憲法9条の解釈を変更して自衛隊の集団的自衛権の行使を可能にしてから10年になる日だ。2014年7月1日に安倍晋三政権は、日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされる場合、必要最小限度の実力を行使することは、自衛の措置にとして憲法上許されると判断するに至ったとして、それまで禁止されていた集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更を通じて可能にした。平和憲法の改正を「宿願」に掲げていた安倍首相は、世論の反対で憲法改正が難しくなると、憲法解釈の変更を通じて自衛隊の活動範囲を拡大した。2015年には、憲法解釈の変更を実質的に後押しするための個別法の整備作業である安保法制の改正案を通過させた。昨年には日本政府は、敵基地攻撃能力も「反撃能力」という名称で保有を宣言した。

 東京新聞は6月30日、「解釈改憲(憲法解釈の変更)は『平和国家』のあり方が変質する起点となり、10年間で日米の軍事的一体化、専守防衛の形骸化が進んだ」と指摘した。

ホン・ソクチェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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 京畿道自治行政局のチョン・グウォン局長は、「強制動員の被害状況を迅速に把握し、被害者の名誉回復と権利救済の一歩を踏み出す」と語った。

2024-03-19 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会
 

韓国京畿道、

対日抗争期に強制動員の被害にあった道民の実態調査に着手

登録:2024-03-19 02:03 修正:2024-03-19 08:06
 
 
日帝は1944~1945年、朝鮮の少女たちをだまして軍需工場に動員し、航空機の部品の塗装をさせるなどの強制労働に動員しながら賃金を払わず、今まで一言の謝罪もない=日帝強制動員市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 京畿道は、対日抗争期に強制動員の被害にあった道民の名誉回復や権利救済に向け、実態調査に着手した。

 京畿道は18日、対日抗争期の京畿道民の強制動員被害の実態調査と支援のために設置された「京畿道強制動員被害者など支援委員会」の初会議を行い、本格的な活動を開始したと明らかにした。

 支援委員会はこの日の初会議の案件として、「2024年支援会運営計画」および「京畿道の強制動員被害に関する政策研究の委託」の方向性の設定について議論した。委託研究によって今まで基礎資料すらなかった強制動員の被害状況を把握し、総合的で体系的な支援計画を樹立する。

 支援委員会は、強制動員の被害者の実態把握と支援を京畿道の役割とし、支援計画の樹立を義務付ける改正「京畿道対日抗争期強制動員被害者などの支援に関する条例」が昨年10月に道議会で可決されたことを受けて設置された。支援委員会は強制動員の被害に詳しい9人の専門家からなり、委員長は互選によって東亜大学のホン・スングォン名誉教授が任命された。

 支援委員会は、強制動員の被害についての国内外の資料の収集や分析に関する事項などに関して助言するのが役割。また、強制動員の被害にあった道民であることが確認されれば、手続きを経て政府に被害判定を提案する。

 京畿道自治行政局のチョン・グウォン局長は、「強制動員の被害状況を迅速に把握し、被害者の名誉回復と権利救済の一歩を踏み出す」と語った。

イ・ジョンハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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19世紀後半、朝鮮の前には数多くの「分かれ目」が待ち受けていた。歴史の新たな分岐点で「朝鮮の分かれ目」を省みることは、2024年の韓国人にも少なからず助けになることだ。

2024-03-08 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

朝鮮はわずか「30年」で滅びた

登録:2024-03-08 07:57 修正:2024-03-08 11:26
 
キル・ユンヒョンの朝鮮の分かれ目 

江華島条約から乙巳条約(第2次韓日協約)まで要した時間はわずか30年だった。今、韓国を繁栄に導いた脱冷戦の30年が終わり、不吉な新たな30年が始まろうとしている。現在のように朝鮮半島をめぐる力の均衡が急激に変化した19世紀後半、朝鮮の前には数多くの「分かれ目」が待ち受けていた。歴史の新たな分岐点で「朝鮮の分かれ目」を省みることは、2024年の韓国人にも少なからず助けになることだ。
 
 
高宗は500年の歴史を誇る朝鮮王朝が日本の植民地に転落する過程で絶対的な権力を行使した国政の最高責任者だった=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 「もし私が幸せに見えるのであれば、(本当に)そうだからです。実に素晴らしい会談でした」

 その日、米大統領の夏の別荘であるキャンプ・デービッドには、やわらかい夏の日差しが降り注いでいた。うっそうとした木立の間を通る質素な小道に沿って、韓米日3カ国の指導者が姿を表わした。米国東部時間2023年8月18日午後3時14分、韓国時間では翌日の早朝5時14分だった。中央に立った米国のジョー・バイデン大統領がゆっくりした足取りで演壇に上がり、軽い笑みを浮かべ、「私たちは歴史的な瞬間を作るために、歴史的な場所で会談した」として、「韓米日パートナーシップの新時代」が始まったと述べた。

 バイデン大統領の発言は決して誇張ではなかった。この日の韓国は、1948年8月の政府樹立後初めて、朝鮮半島を35年間植民地支配した日本との「軍事同盟」への第一歩を踏みだしたのだ。3カ国は「共同の利益と安全保障に及ぼす地域的な挑戦・挑発・脅威に対する自国の政府の対応を調整するため、各国政府が3者レベルで互いに迅速に協議することを公約する」としたうえで、「私たちの調整された力量と協力を増進するため、3カ国訓練を年単位で定例実施」することを誓約した。外部の脅威が発生する場合3カ国が「迅速に協議する」とし、毎年定期的に訓練を行うことにしたため、その過程で育て上げられた3カ国の連合力を遠からず「共通の敵」に対して行使する選択をすることになる可能性が高まった。

 それに対する「反作用」は1カ月も経たずにあらわれた。北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長は、その年の9月13日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と極東のアムール州ボストチヌイ宇宙基地で向き合った。韓米日3カ国が北朝鮮の脅威と中国の浮上をけん制するために本格的な軍事同盟に踏みだしたことで、冷戦終結後のこの30年間は遠ざかっていた北朝鮮とロシアの戦略的協力が一気に強化されたのだ。

 金委員長はその後、朝鮮半島全体を驚愕させる発言をした。2023年12月、朝鮮労働党中央委員会第8期第9次全員会議で、韓国に向けて「米国の植民地の手先にすぎない怪異な輩と統一問題を論じることは、わが国の風格と地位に釣り合わない」と述べ、1月15日の最高人民会議第14期第10次会議の施政演説では、「大韓民国は『和解と統一の相手であり同族』という現実に矛盾した既成概念を完全に消し、徹底した他国」とみなすと宣言した。南北が半世紀前の1972年の7・4共同宣言を通じて確認した3大統一原則と、1991年12月の「南北基本合意書」で合意した「統一を指向する過程で暫定的に形成される特殊な関係」という概念を、事実上廃棄したのだ。それによって、韓国の進歩勢力が冷戦後約30年間にわたり推進してきた「太陽政策」は事実上失われ、南北分断が永久化されるかもしれないという恐れが膨らんだ。

 朝鮮半島をめぐる情勢が急激に揺れ動く「根本原因」は、この地域を取り囲む力の均衡が急変しているためだ。朝鮮半島は、大陸勢力と海洋勢力の力が正面衝突する結節点に位置する。大陸勢力は中国とロシアで、海洋勢力は日本と米国だ。この力の均衡が変わるたびに、朝鮮半島は筆舌に尽くしがたい苦痛を被った。海洋勢力である日本が大陸勢力である清とロシアを打ち負かす過程で朝鮮は植民地に転落し、第2次世界大戦後はこの2つの勢力が激しく対立し、国土が分断された。

 現在進行中の力の変化の核心は、米国の国力の衰退とそれによって発生した国際秩序の多極化だ。ウクライナ戦争はすでに3年目に突入し、ガザ戦争も同じく収拾の兆しが見えない。「米国第一主義」を掲げるドナルド・トランプ前大統領が11月の米大統領選挙で勝てば、今後の国際秩序の不確実性はさらに強まるだろう。この新たな力の再編の過程で、韓米日3カ国同盟と事実上核保有国になった北朝鮮が激烈に対立し、分断が永久化されようとしている。一歩を間違って踏みだした場合、解放(日本の敗戦)後に韓国社会が血の汗を流して成就したすべてのものを失い、想像しがたい苦痛を受ける可能性もある。

 
 
朝鮮は19世紀末~20世紀初頭、朝鮮半島を取り囲む「力の均衡」の変化に追いつけず、日本の植民地になる恥辱を負わなければならなかった。1910年8月に日本が強要した韓日併合条約の原本文書=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 振り返ってみると、今と似た殺伐とした力の変化がなされたのは19世紀末のことだった。1876年の江華島条約を通じて朝鮮が門戸を開放し、日本と西欧列強の力が朝鮮半島にずかずかと乗り込んできた。老いた清帝国は「唯一の属邦」を守ろうともがき、明治維新に成功した日本は「朝鮮独立」と「内政改革」を大義名分に掲げ、干渉を始めた。シベリア鉄道の建設を通じて極東に視線を転じたロシアは、満州を手中に収め、日本と対立した。

 これらの圧倒的な力に対抗して、朝鮮は独立を維持して国家を近代化する容易ではない課題を同時に解決しなければならなかった。そのためには、国の人的・物的能力を1カ所に集中しなければならなかった。そのために必須なのは国の目標を設定するための公的な意志決定システムと、それを実現できる有能な官僚機構だった。しかし、高宗(1852~1919)が多くの「密旨」や「別入侍」(臣下が王に密に会うこと)などで分別なく権力を行使したため、国家の公的機構はますます有名無実化した。後で問題が生じた場合は、国王は無関係を装い、命令を施行した者は死ぬことになるか島流しになった。

 権力に対する信頼がないため、国家の重要な機密文書が相手国にそのまま流出することもあった。1895年から1905年までの10年間に朝鮮の外務大臣に就いたのは何と24人だ。1898年の1年だけで、外務大臣は趙秉稷(チョ・ビョンジク)・兪箕煥(ユ・ギファン)・李道宰(イ・トジェ)・朴斉純(パク・チェスン)から、ふたたび趙秉稷と朴斉純を経て、結局はまた趙秉稷に変わった。国庫は空っぽで、清の北洋大臣の李鴻章は「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と舌打ちした。皇室予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は、国が滅びるときまで変わらなかった。

 目前に巨大な「津波」が押し寄せていたが、国家は四分五裂を繰り返した。大院君と明成皇后は互いに対する憎悪をあらわにしていがみ合い、高宗は権力を失うのではないかと戦々恐々としていた。政治エリートたちは、最初は開化が必須かどうかをめぐり(開化派と衛正斥邪派)、次はその方法論(急進開化派と穏健開化派)をめぐり、その後は、どの列強に頼るべきかについて、最後は権力それ自体を独占しようとして、激しく対立した。妥協と折衝を通じて社会的合意を形成する方法を知らなかったため、「冒険的クーデター」と「政治テロ」が横行した。

 権力が合理的に行使され、それに民意を反映するためには、立憲民主的な政治改革が「時代の課題」だった。国の運命は最大の危機に達したが、突然登場したものは、皇帝の専制権を明示した「大韓帝国」だった。1899年8月に公布された「大韓国国制」第2条は、大韓帝国の政治は「500年間伝来し、今後も万世にわたり不変な専制政治」だと釘をさしている。高宗は独立維持のために「中立国化」を追求したが、国家的な覚悟と実力が伴わない中立が可能であるはずはなかった。朝鮮の外交権を奪おうとする最後の瞬間、伊藤博文は、「一般人民の意向も確かめなければならない」とする高宗に、「貴国は、万機一切すべて陛下の親裁で決める、いわゆる君主専制国ではないか」と詰問した。朝鮮半島が植民地になったのは、日帝の鉄の杭のためではなかった。朝鮮は日帝の侵略を防ぐことができなかった。冷静に評価すれば、朝鮮は自滅した。

 江華島条約から乙巳条約(第2次韓日協約、1905年)まで要した時間はわずか30年だった。今、韓国を繁栄に導いた脱冷戦の30年が終わり、不吉な新たな30年が始まろうとしている。現在のように朝鮮半島をめぐる力の均衡が急激に変化した19世紀後半、朝鮮の前には数多くの「分かれ目」が待ち受けていた。当時の人たちに考えがなかったはずはないのに、なぜ失敗したのだろうか。今年は日清戦争開戦130年、日露戦争開戦120年にあたる年だ。歴史の新たな分岐点で「朝鮮の分かれ目」を冷静に省みることは、2024年を生きなければならない韓国人にとっても、少なからぬ助けになることだと信じる。

キル・ユンヒョン|論説委員 大学で政治外交を学ぶ。東京特派員、統一外交チーム長、国際部長を務め、日帝時代史、韓日の歴史問題、朝鮮半島をめぐる国際秩序の変化などに関する記事を書いた。著書は『私は朝鮮人カミカゼだ』『安倍とは誰か』『新冷戦韓日戦』(以上、未邦訳)『韓国建国に隠された左右対立悲史-1945年、26日間の独立』(吉永憲史訳、ハガツサ刊)などがあり、『「共生」を求めて』(田中宏著)『日朝交渉30年史』(和田春樹著)などを翻訳した。人間に最も必要な力は、自らを冷静に振り返る「自己客観化能力」だと信じている。

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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(1)東アジアで、ASEANと連携して「対抗でなく対話と協力」のAOIPを推進していくことが重要であるとともに、北東アジアの固有の問題の解決には北東アジアの独自の努力がいる(2)東アジアの・・

2024-02-11 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

2024年2月11日(日)

29回党大会決定“突破点”

東アジアの平和どうつくる

野党外交を積み重ねて「二つの発展方向」提起

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(写真)ASEAN本部を訪れた志位和夫委員長(右)と田村智子副委員長=2023年12月21日、ジャカルタ

 全党で討議・具体化が始まっている日本共産党第29回大会決定。改定綱領の生命力を世界論、日本改革論、未来社会論のそれぞれで発展させ、多数者革命と党の役割、党建設の歴史的教訓まで深く踏み込みました。1990年の第19回党大会以来、11回の党大会決議案の作成に携わってきた志位和夫議長が「今回の党大会決定ほど、多面的で豊かで充実した決定はそうはない、と言っても過言ではない」(全国都道府県委員長会議での中間発言)と語るほどの内容です。大会決定が示した理論的、政治的な“突破点”を5回シリーズでみていきます。(写真の肩書はすべて撮影当時のもの)

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(写真)マレーシアのトヤド外務副大臣(右)と夕食会で懇談する不破哲三委員長(中央)=1999年9月、クアラルンプール

 日本共産党は第29回党大会で、昨年12月の同党代表団による東南アジア3カ国訪問の成果をふまえ、東アジアの平和構築を目指す「外交ビジョン」について、新たに二つの発展方向を打ち出しました。

 (1)東南アジア諸国連合(ASEAN)のインド太平洋構想(AOIP)成功と北東アジアの課題解決のための「二重の努力」(2)東アジアの平和構築を成功させるために政府だけでなく、政党・市民社会の共同したとりくみの呼びかけ―です。

 この新しい発展方向は、日本共産党の野党外交の積み重ねを踏まえた提起でした。

 日本共産党の野党外交は、第21回党大会第4回中央委員会総会の決定(1999年6月)にさかのぼります。この会議で、外国の政党との交流について、従来の共産党間の交流にとどめず、保守・革新、与党・野党の区別なく、双方に交流開始への関心がある場合、「自主独立、対等・平等、内部問題相互不干渉」の3原則に基づいて、関係を確立し、率直な意見交換を行い、可能な場合には共同の努力を図るという方針を決めました。

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(写真)会談後に握手する志位委員長(右)とインドネシアのワルダナ外務副大臣=2013年9月、ジャカルタ(面川誠撮影)

 翌年の第22回党大会(2000年11月)では、同3原則を確認したうえで、外国の政府との関係についても、平和と進歩の課題で交流を発展させるとの方針を決めました。

 こうして、日本共産党の野党外交が本格化します。その先駆けとなったのは、1999年9月の不破哲三委員長(当時)を団長とする東南アジア歴訪(マレーシア、シンガポール、ベトナム、香港)でした。それまで関係を持っていなかった国にも大胆に訪問し、交流が始まりました。不破氏自身が「あたって砕けろ」という精神で、道を切り開いたと感想を述べています。

 この東南アジア歴訪の成果をへて、第22回党大会は、90年代に東アジア地域で起こった「平和の激動」の一つとして、ASEANの動きに言及しました。東南アジアが、非同盟、非核兵器、紛争の平和的解決など、平和と進歩の流れの強力な国際的源泉を形成していると指摘しました。

 日本共産党の野党外交は、その後、多面的に発展していきます。

 特にASEANとの関係で大きな節目となったのは、2013年9月の志位和夫委員長(当時)を団長とする東南アジア訪問(ベトナム、インドネシア)です。東南アジア友好協力条約(TAC)を基本に、平和の地域共同をすすめるASEANが、対話と信頼醸成など、非軍事のアプローチで安全保障を追求している実践について、実りある意見交換となりました。

 この訪問の成果も取り入れ、第26回党大会(14年1月)で提唱されたのが「北東アジア平和協力構想」でした。北東アジア規模で紛争の平和的解決を定めた「友好協力条約」を結ぶことをはじめ、北朝鮮問題、領土問題、歴史問題をめぐる四つの目標と原則を打ち出したものです。

 日米・米韓の軍事同盟が存在するもとで、軍事同盟に対する立場の違いがあっても、一致して追求しうる緊急の提案として提唱されたものでした。

 ASEANの実践している平和の地域共同のとりくみを、北東アジアにも構築しよう、北東アジア版のTACをめざして対話と協力を強めようと呼びかけた同構想は、当時の関係国や識者から評価を受けました。

 しかし、その後の情勢は、これが簡単には進まないことも明らかにしました。

 このもとで、日本共産党は22年1月、東アジアに平和をつくる「外交ビジョン」を提唱し、その後、関係諸国との対話を行ってきました。

 「外交ビジョン」は、軍事的対応の強化ではなく、ASEAN諸国と手を携え、AOIPの実現を共通の目標にすえ、すでにつくられている東アジアサミットを活用・発展させて、東アジアを戦争の心配のない地域にしていくための憲法9条を生かした平和外交です。

 このビジョンは、昨年12月の日本共産党代表団の東南アジア訪問で、どこでも歓迎されました。ASEAN本部では、地域の平和と安定を促進するASEANと同じ線に沿っていると評価されました。緊密な交流があるベトナムとラオスには、従来から日本共産党の「外交ビジョン」や諸政策が伝わっていて、AOIPでの協力が確認されました。

 インドネシアのハッサン元外相は、いきなり北東アジアで条約を結ぼうとするよりは、「前提として、いかに良い“対話の習慣”を育むかが優先だ」と指摘しました。すでにある北東アジア諸国も参加する枠組みを強化・活用していこうという助言で、「外交ビジョン」と共通する方向でした。

 同時に、AOIPの成功だけでは、軍事同盟や米中対立、北朝鮮問題や歴史問題のような北東アジアの課題が自動的に解決するわけではありません。北東アジア地域の責任あるアプローチが求められています。その点で、日本共産党の提言「日中両国関係の前向きの打開のために」は、東南アジアでも強い関心と評価の声が上がりました。

 同時に、「外交ビジョン」は、20世紀から21世紀への世界の構造変化という日本共産党綱領の世界論のうえに立って展開されているビジョンです。

 第28回党大会(20年1月)で行った綱領の一部改定では、20世紀に起こった構造変化の最大のものとして、植民地体制の崩壊を挙げました。

 植民地体制の崩壊で、民族自決権があらゆる人権の土台として世界公認の原理におしだされ、世界の民主主義と人権の流れの豊かな発展をもたらし、かつ国連憲章に基づく平和の国際秩序を発展させるうえでも巨大な力を発揮しているとしました。

 この大きな構造変化が、一番見事な形で現れている地域として、いま日本共産党は東南アジアに注目しています。この点から、日本共産党綱領は、ASEANが、平和の地域共同体をつくりあげ、この流れをアジア・太平洋地域に広げていることが「世界の平和秩序への貢献となっている」と明記しています。

 今回の訪問の成果は、日本共産党の野党外交の積み重ねと改定綱領の世界論に裏付けられたものです。それは、(1)東アジアで、ASEANと連携して「対抗でなく対話と協力」のAOIPを推進していくことが重要であるとともに、北東アジアの固有の問題の解決には北東アジアの独自の努力がいる(2)東アジアの平和構築は、各国政府・政党・市民社会が共同したとりくみを行ってこそ、達成できる―という「外交ビジョン」の二つの発展方向に豊かに実っています。(小林俊哉・党国際委員会事務局次長)

 ASEANインド太平洋構想(AOIP) 2019年6月のASEAN首脳会議で採択された構想。日本共産党第29回大会決議は同構想について、「インド・太平洋という広大な地域を、東南アジア友好協力条約(TAC)の『目的と原則を指針』として、『対抗でなく対話と協力の地域』にし、ゆくゆくは東アジア規模の友好協力条約をめざそうという壮大な構想である」と述べています。

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今この時、夜の景色を家々の灯りが彩っています。ここに祖国の繁栄と発展、世界の平和と安定を一緒に祈念しましょう。そして私から、皆さんのご多幸とご健康をお祈りします。

2024-01-02 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

習近平国家主席が2024年新年の挨拶を発表

人民網日本語版 2023年12月31日20:00
 

習近平国家主席は31日、中央広播電視総台(チャイナ・メディア・グループ/CMG)とインターネットを通して、2024年に向けた新年の挨拶を発表しました。全文は次の通りです。

皆さん、こんにちは。

冬の日差しを浴びていると、歳月の流れが感じられます。2024年の到来を迎えるに際して、北京から皆さまに新年の祝福をお送りします。

2023年、私たちは努力を続け、風雨にさらされても果敢に前進し、美しい景色を目にし、実り豊かな成果を収めてきました。誰もがこの1年間の苦労を覚えながら、未来への自信を固めています。

この1年の私たちの歩みは、着実なものでした。コロナ対策が落ち着くにつれて、経済は持続的に前向きに回復し、ハイクオリティーな発展が推し進められてきました。現代化された産業体系が一層完備され、ハイエンド化、スマート化、エコロジー化を目指す新型基幹産業も速やかに成長しています。食糧生産の面では20年連続で豊作が実現し、エコロジー型発展と農村部振興の事業も一層進展して、新たな様相を呈しています。東北地域の全面的な振興戦略では新たな1ページがめくられ、雄安新区は飛躍的な成長を遂げ、長江経済帯は絶え間なく活力を生み出し、広東・香港・マカオグレーターベイエリアも時流に乗って発展しています。中国経済は風雨に耐えながら、頑強な体格を鍛え上げました。

この1年の私たちの歩みは、力強いものでした。長い試練を乗り越えて、中国の革新の原動力と発展の活力は勢いよく湧き出ています。大型旅客機C919の商業運用の開始、国産豪華客船のテスト航行、有人宇宙船「神舟」シリーズの打ち上げ成功、「奮闘者」号による深海探査でのブレークスルーなどが、いずれも実現しました。時代のトレンドに合わせた国産ブランドの人気が上昇し、国産スマートフォンの需要が高まっているほか、新エネルギー車やリチウム電池、太陽光発電の関連製品も、中国の製造業の新たな代表となっています。中国はたゆまぬ努力でさらなる高みを目指して、日進月歩の革新的な創造を、あらゆるところで実践しています。

この1年の私たちの歩みは、活力に溢れるものでした。成都ではFISUワールドユニバーシティゲームズが、杭州ではアジア大会が盛大に開催され、アスリートたちが立て続けに好成績を打ち立てました。連休中の観光地は人の波で埋め尽くされ、映画市場は盛況が続き、農村部では「村サッカー・スーパーリーグ」の大会や「村の夕べ」のイベントによって活気が醸し出されました。低炭素で暖かなライフスタイル、戻ってきた忙しい日々、これらは、幸せな暮らしを求める人々の意志を表し、活力と熱気に溢れる中国の姿を見せてくれました。

この1年の私たちの歩みは、気力に富むものでした。中国は偉大な国であり、偉大な文明を継承しています。この雄大な大地に広がる、果てのない砂漠、霧雨に潤う江南地区(長江下流以南の地区)は、千年以上の記憶を語り伝え、人々の心を惹き付けます。曲がりくねる黄河と、長江の奔流を目の当たりにすると、心は激しく波打ち、元気付けられます。文明の光を灯した良渚遺跡と二里頭遺跡、漢字の源流である殷墟遺跡で発見された甲骨文字、三星堆遺跡で発掘された貴重な出土品、国家公文書館で展示されている文明の伝承の証など、いずれも中華民族の歴史の悠久さと中華文明の豊かさを物語っています。これらは私たちの自信の礎であり、力の源です。

中国は自らの発展を目指すと同時に、世界に溶け込み、大国としての責務を果たそうとしています。私たちは中国・中央アジアサミット、第3回「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラムなどを成功裏に開催し、ホスト国として全世界からパートナーを迎え入れました。私も多くの国を訪問し、一連の国際会議に出席して、多くの旧友や新しい友人たちと対面で会見し、中国の主張を語るとともにお互いの共通認識を深めました。世の中がどのように変わろうとも、平和と発展は終始一貫した主旋律であり、協力とウィンウィンは正しい道筋です。

これから進む道においては、風雨が伴うのは当然のことです。経営上のプレッシャーを抱える企業もあります。就職や生活上の困難に悩む人々もいます。洪水や台風、地震などの災害が発生した地域のことを、私は常に気にかけています。そして、風雨を恐れずに助け合い、困難を前にして果敢に挑む皆さんの姿に、私は深い感動を与えられています。懸命に耕作する農民たち、仕事に励む会社員たち、事業の立ち上げに苦心する起業家たち、この国を守る兵士たち、あらゆる業界で、誰もが汗水を流して、1人の平凡な人間として非凡なる貢献をしています。私たちが困難と試練を乗り越える上での最大の拠り所は、いつだって人民なのです。

来年は、新中国成立75周年に当たります。私たちは断固として中国式現代化の道を歩み続け、新たな発展理念を完全に、的確に、全面的に貫き、新たな発展構造の構築を加速させ、ハイクオリティーな発展を推進するとともに、発展と安全のバランスを整えていきます。「安定を前提とする発展、発展による安定の促進、新規則の実施が安定してからの旧規則の廃止」という原則を堅持し、経済の前向きな回復の勢いを一層確固たるものにしなければなりません。改革開放政策の確実な実施によって、発展の自信をさらに固め、経済の活力を高めるとともに、教育事業、科学技術の振興、人材育成を強化するために一層力を入れなければなりません。引き続き、香港とマカオが自身の優位性を生かして発展を目指すことを支持し、香港とマカオが国の発展の大局に溶け込み、長期的な繁栄と安定を保つことをサポートしなければなりません。祖国の統一は歴史的に見れば必然的なことであり、海峡両岸の同胞たちは手を携えて心を一つにし、民族の復興という偉大な栄光を共に浴びるべきです。

私たちの目標は遠大なものであり、素朴なものでもあります。最終的に目指しているのは、人々の暮らしをより幸せなものにするということです。子育てと教育、若者の雇用と育成、高齢者の医療と養老、これらは家庭のことであり、国家の事業でもあります。私たちは共に努力して、これらを全うしなければなりません。社会が急速に進む今日において、誰もが皆、とても忙しく、仕事と生活の大きなプレッシャーを抱えています。私たちは温かく優しい社会のムードを醸成し、活気に溢れるイノベーションのスペースを切り開き、便利で快適な暮らしの環境をつくらなければなりません。そして、心地よく、楽しく暮らして、夢を叶えるのです。

現在、世界の一部の地域では戦火が続いています。中国の人々は平和の尊さを深く知っています。私たちは国際社会と共に、人類の前途と人々の福祉を念頭に置いて、人類運命共同体の構築を推し進め、より美しい世界を作り上げたいと願っています。

今この時、夜の景色を家々の灯りが彩っています。ここに祖国の繁栄と発展、世界の平和と安定を一緒に祈念しましょう。そして私から、皆さんのご多幸とご健康をお祈りします。

ありがとうございました。

「中国国際放送局日本語版」より 2023年12月31日

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私たちも注目していました。今年の議長国として、どういう意気込みでそれに取り組むのかを、ぜひ聞いてみたかったというのが最大の理由です。

2024-01-01 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

ラオス――東アジアの平和、核廃絶で協力、不発弾問題で連携

初訪問で温かい歓迎――AOIP成功、核兵器禁止条約推進で協力を合意

 次の訪問国はラオスでした。日本共産党の委員長としては初めて訪問となりました。

 志位 今回ラオスを訪問した理由は二つあります。一つは、ラオスは今年、ASEAN議長国になります。これまでラオスはASEANの議長国を2回務めています。前回は2016年で、南シナ海の問題など難しい問題がありましたが、見事に会議を成功に導いたことに私たちも注目していました。今年の議長国として、どういう意気込みでそれに取り組むのかを、ぜひ聞いてみたかったというのが最大の理由です。同時に、この訪問はラオス人民革命党からの公式の招待にもとづくものでした。同党から繰り返し招待があったのですが、なかなか行く機会がつくれなかった。今回こそぜひ訪問してみたいと考えました。

 最初にラオス人民革命党のトンルン・シスリット書記長・国家主席と党首会談を行いました。先方からは、日本共産党の100年を超える歴史へのお祝いがのべられ、私の訪問に対して歴史的だとの評価をいただきました。非常に温かい歓迎を受けました。

 初対面ということもあり、両党関係の今後について話し合いをしました。日本共産党とラオス人民革命党との関係は、両党の指導者レベルとしては、宮本顕治書記長とカイソン書記長が1966年に会談を行っています。以来、アメリカに対するラオス独立戦争への連帯のたたかいなど交流の歴史があります。

 そうした経過を踏まえつつ、私は、両党の伝統的な友好と協力の関係を「21世紀にふさわしい新たな高みに引き上げたい」とし、いくつかの提案を行いました。双方は、▽両党関係の発展によって日本・ラオスの両国・両国民の友好関係をより豊かにしていく、▽世界と地域の平和のためにAOIPの成功や「核兵器のない世界」など一致点での協力を進めていく、▽国際問題での意見交換や党活動の交流のために両党間に効果的な対話のメカニズムをつくっていく――などの点で一致しました。

 私が、AOIPを成功に導くために「両党の協力をいっそう強化したい」と提案しますと、トンルン書記長は、AOIPについて、「ラオスは常に紛争の平和的解決を望み、包摂的に対話し協力することを望んでいます。来年(2024年)1月1日から議長国を務めるけれども、ASEANの中心性と団結を強化するイニシアチブを継続して諸問題に対処し、力強く、粘り強く平和を維持していきたい」とのべました。

 AOIPを協力して推進していくことが、党首レベルで合意になったことは、とても重要だと思います。私たちが事前に渡した資料などもよく読んでくれていて、日本共産党が日本政府に対して行った提言(外交ビジョン)を評価するともいわれました。

 核兵器については、ラオスは常に平和を望んでおり、核兵器禁止を進めることが重要だと、これも協力して進めることで一致しました。

 これが全体の流れです。会談は終始、和やかで、本当に心が通い合う温かい会談となりました。

 ラオスの政権党と、党首レベルで、AOIPの推進、核兵器禁止条約の推進――この二つの大きな課題での協力を合意したのは、非常に重要だと思います。

不発弾問題での対話で信頼がぐっと深まった

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(写真)ラオス人民革命党のトンルン・シスリット書記長(ラオス国家主席)と会談する志位委員長=2023年12月23日、ビエンチャンのラオス人民革命党中央委員会

 不発弾問題でも連携が確認されました。

 志位 はい。トンルン書記長との会談では、不発弾処理の問題が重要な話題になりました。あらためて調べてみますと、ラオスにとってこの問題は非常に深刻です。ラオスは1人当たり世界で最大の爆弾が投下された国と言われています。たいへんに心が痛むのは「戦後」――アメリカとの独立戦争に勝利した1975年以降も2万人もの被害者が出ていることです。

 私が不発弾処理の問題について、ラオスは1人当たり最大の爆弾が投下された国と言われていますというと、トンルン書記長は、身を乗り出してきて、「その通りです」という。当時ラオスは人口が300万人だったが、そこに300万トンもの爆弾が投下され、1人当たり1トンだと。その3分の1は不発弾となり、今でも埋まっている。戦争は終わっているのに子どもたちが犠牲になっているというのです。

 ラオスは、クラスター爆弾禁止条約(2010年発効)に、ノルウェーの次に署名しており、同条約第1回締約国会議はビエンチャン(ラオスの首都)で開かれています。この条約では、クラスター爆弾の禁止とともに、被害者を支援することが明記され、核兵器禁止条約のモデルになった条約ともいわれます。日本もクラスター爆弾禁止条約には参加しています。私は、こうした事実をのべて、クラスター爆弾の不発弾処理問題を解決して、被害者を支援することを、両国の共同事業として取り組んでいきたいと話すとともに、日本共産党としてこの問題を重視して、「しんぶん赤旗」でも継続的に記事を載せてきたと伝えました。

 そうしますとトンルン書記長は、自身が労働大臣を務めていた時期に、不発弾処理の機関をつくって、この問題に取り組んできたというのです。さらにラオスがクラスター爆弾禁止条約の第1回締約国会議を開催したさいに、自身が外務大臣として締約国会議の議長を務めたということでした。この問題に一貫して取り組んでこられた方が、書記長をやっているのです。トンルン書記長は、自身が副首相だった2000年代初頭に日本を訪問する機会があった、そのときに日本共産党の議員が「実のある支援を」と提起した、日本共産党の支援に感謝したいとのべました。

 この対話で、トンルン書記長との信頼関係がぐっと深まり、連携して解決をということを確認しました。この問題での協力の強化という約束を果たしたいと思います。

ASEANは「平等と相互尊重の精神」で運営されている

 ラオスでも外務省と意見交換をされました。

 志位 外務省を訪ねたのは、ASEANとAOIPについてのラオス政府の取り組みについて、さらに聞きたいと考えたからです。そのことを先方に伝えたら、外務省の会合をセットしてくれました。私たちは、トンファン外務副大臣と会談しました。

 今年の議長国としての意気込みが伝わってくる会談でしたが、この会談で、私が、「インドネシアの元外務大臣のハッサンさんとジャカルタで会談した際に、『ASEANでは上下関係はなくコンセンサスでやっています。それは強みです』と言われました。この点についてラオスから見てどうでしょうか」と率直に尋ねました。

 そうしましたらトンファンさんからは、ASEANは、政治、経済、宗教など多様であり、インドネシアは2億人以上の大国、ブルネイは100万人に満たない小さな国だ、経済力もシンガポール、ブルネイは発展しているが、ラオス、カンボジア、ミャンマーは後発途上国だ、しかしASEANには平等と相互尊重の精神がある、重要課題では常に対話しているという答えが返ってきました。

 「平等と相互尊重の精神」で運営されている。インドネシアのハッサン元外相が言ったことと同じことがラオスからも言われたということは、とても大事なことです。インドネシアは大国の側ですが、インドネシアの側だけが言っているのではなくて、小さな国であるラオスもそれをよく理解し、評価しているということがよく分かりました。

 ここにASEANの強みの一つがあるということですね。

 志位 その通りです。インドネシアとラオスでこの強みが共有されていることが、よく分かりました。

闘いをへて勝ち取った独立、美しい自然と文化遺産、優しい穏やかな歓迎

 初訪問でのラオスの印象はどうでしたか。

 志位 ラオスでは、二つの歴史博物館を訪問しました。その展示物を見ていくと、やはり大変な闘いを経て独立を勝ち取ったことがよく分かります。フランス植民地主義者のひどい残虐行為があった。その次に来たのが、「ジャパニーズ・ファシスト(日本の独裁主義者)」だったと展示してありました。日本軍国主義が去った後も、フランス植民地主義者が戻ってきて、残虐行為があって、それを打ち破ったあとにアメリカ帝国主義者がやってきた。それらをすべて打ち破って独立と自由を勝ち取った。こういう点では、ベトナムと同じ歴史を持つわけです。

 ラオスもまた多様な国です。そのことを私たちが案内されたタート・ルアン寺院でも感じました。タート・ルアンという金色の仏塔があって、回廊で囲んである。その寺院に訪問し、「宗教は何ですか」と聞いたら「基本は仏教です」と。2000年前からあるお寺で、仏教が基本で、キリスト教も加わって、そこにヒンドゥー教も加わっているというのです。一つの寺院でも、三つの宗教が共存した寺院というのが、とても印象深かった。

 バンビエンという、ビエンチャン郊外にある観光地にも案内されました。石灰岩でできたラオス特有のとても美しい山と川の風景です。たいへんに美しい自然がたくさんあって、2000年前からの寺院も含めて文化遺産もたくさんあって、ラオスの人々の優しい穏やかな歓迎を受けたというのが印象です。党代表団のみんなが「心があらわれるようだね」という感想を言い合いました。これが初訪問の印象です。

ベトナム――両党が協力して東アジアの平和構築を

外交学院での講演と質疑――東アジアの平和構築のための「二重の努力」

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(写真)ベトナム外交学院で志位委員長の講演をきく学生たち=2023年12月25日、ハノイ

 最後の訪問国は、長い友好関係をもつベトナムです。志位委員長にとっては、5年ぶり4度目の訪問となりましたが、今回はどうでしたか。

 志位 最初に行ったのがベトナム外交学院での講演と質疑でした。外交官などを養成している学院ですが、女性が非常に多かったのが印象的でした。「日本語を勉強している方は何人ですか」と聞いたら、第1外国語にしている人が80人、第2外国語が100人と言っていましたから、相当日本語熱は高いと感じました。私の講演も身近に受け止めてもらったと思います。

 講演は、(1)半世紀以上に及ぶ日本共産党とベトナム共産党の友好と連帯の歴史、(2)東南アジアでの平和の激動と「ASEANインド太平洋構想」(AOIP)、(3)AOIP成功のために――日本共産党としての取り組み、(4)世界の構造変化が生きた力を発揮――平和と社会進歩のために手を携え前にすすもう――という柱で行いました(詳報、本紙12月27日付)。

 ここでは、「AOIP実現のために日本がASEANと協力してできることは」という質問がありました。この質問への回答では、私たちの考え方を発展させた点がありました。

 私は、日本ができることは二つあるとして、その一つは、日本は東アジアサミット(EAS)の公式の参加国の一つだから、このEASを対話の場として活用・強化して発展させることが大事だとのべました。同時にもう一つあるとして、北東アジアの固有の諸懸案の解決に積極的に取り組むことだと答えました。ハッサンさんから指摘があったように、北東アジアには“対話の習慣”が不足している、“対話の習慣”が当たり前になるようにしたいとのべ、そのための試みとして、(1)「日中両国関係の前向きの打開のための提言」を紹介するとともに、(2)朝鮮半島問題の外交的解決、(3)歴史問題の理性的解決、これらの課題に取り組み、さらに前進のためのアイデアを探求する必要があるとのべました。

 つまり日本は東アジアの平和構築のために「二重の努力」を行うべきだということを強調しました。すなわちASEANとともにEASを発展させ、AOIPを成功させるための努力を続けることと同時に、北東アジアの固有の諸懸案を外交によって解決する――これらの両面で“対話の習慣”をつくっていく努力を払うことが必要だ、東南アジアで発展している“対話の習慣”を北東アジアにも広げたい、こういう新しい整理をしたのです。

 インドネシアでの一連の対話を生かして考えてみますと、わが党の「外交ビジョン」では、「二重の努力」のうちの最初の側面をのべたものです。ASEANと協力してAOIPを成功させる、そして、東アジアの全体を平和の地域にしていく、これが基本なのですが、北東アジアには独自の諸懸案があります。その諸懸案について「ASEANまかせ」というわけにはいきません。北東アジアの諸懸案は、北東アジアで解決する努力をやりながら、AOIPを成功させる。EASの場もそういう諸懸案の解決のために役立てていくというような姿勢がいると思うのです。「ASEAN頼み」で東アジアの平和がつくれるわけではなく、北東アジアでは北東アジアの独自の努力がいる――「二重の努力」が必要だと思います。

 講演について、「しんぶん赤旗」ハノイ支局が取材した感想が届いていますので、紹介します。

 日本語学科の1年生――「日本共産党とベトナム共産党の過去、現在、未来をよく知る機会となり、私にとって外交学院で今後4年間勉強する上で記憶に残る、また大きな意味を持つ契機となりました」

 日本語学科2年生――「参加できてとても良かった。志位委員長が話されたオリエンテーション、考え方、政策、さらに政治外交用語も含めて、とても実践的かつ有益でした。また日本共産党とベトナム共産党との関係の歴史と連帯、協力の関係を知ることができたこともたいへんに勉強になりました」

 若いみなさんからのこうした感想はとてもうれしいものでした。

東アジアの平和構築のための「模索と探求」を率直に伝えた

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(写真)ベトナム共産党のチュオン・ティ・マイ書記局常務(右から3人目)と会談する志位委員長(左から3人目)=2023年12月25日、ハノイ

 ベトナムではどのような意見交換が行われたのですか。

 志位 ベトナムでは、2日目(26日)のグエン・フー・チョン書記長との党首会談がもちろん最も重要な会談でした。その前の1日目(25日)にチュオン・ティ・マイ書記局常務との会談を行い、2日目にグエン・フー・チョン書記長との会談の前に、レ・ホアイ・チュン対外委員長との会談を行いました。この三つの会談は連動していて、二つの会談の報告は、グエン・フー・チョン書記長に伝えられていました。ですから一連の会談で私たちが行った発言と、ベトナム側の発言について、まとめて話します。

 ベトナムでは、インドネシアとラオス訪問を通じて、私たちが得た認識の発展も踏まえて、私たちの行っている模索と探求について率直に話しました。私は、日本共産党として東アジアの平和構築について、模索と探求の途上にあります――「模索と探求」という言葉を率直に言って、私たちの考えを伝え、意見交換を行いました。

 私は、要旨、次のような発言を行いました。

 ――5年前にベトナムを訪問した際には、日本共産党として「北東アジア平和協力構想」を提唱しているということを話しました。ASEANのような平和の地域協力の枠組みを北東アジアにもつくりたいという構想です。この構想は、当時、関係国から評価をいただきました。5年前の会談のさいに、ベトナムからも評価をいただきました。しかし、その後の情勢の展開は、北東アジアにそうした平和の新しい枠組みをすぐにつくることは難しいということを示しました。

 ――そういうもとで2019年にASEAN首脳会議でAOIPが採択されました。こういう新しい動きも受けて、わが党として、新しい枠組みをつくるのではなくて、東アジアサミット(EAS)という現にある枠組みを活用し発展させることが現実的だと考えました。そして「外交ビジョン」を2022年1月に提唱しました。いま日本政府がやるべきは、軍事的対応の強化でなく、ASEANと手を携えて、AOIPを共通の目標に据え、東アジアサミットを活用・強化して、東アジアを戦争の心配のない平和の地域にしていくための憲法9条を生かした平和外交にこそある――これがわが党が提唱している「外交ビジョン」です。

 ――今回の3カ国訪問をつうじて、北東アジアと東南アジアの違いは何だろうかと考えました。ASEANでは“対話の習慣”が当たり前のように根付いているが、北東アジアにはそれが欠如している。それはなぜかと考えてみると、北東アジアには東南アジアと比較して次のような困難があると思います。第一に、日米・米韓という軍事同盟、米軍基地が存在している。第二に、米中の覇権争いの最前線に立たされている。第三に、朝鮮半島で戦争状態が終結していない。第四に、日本の過去の侵略戦争と植民地支配に対する反省の欠如という問題があります。

 ――そういう状況にくわえてもう一つ問題があります。北東アジアにはそれだけの難しい問題があるもとで日本政府がどうなっているのかという問題です。グエン・フー・チョン書記長は、この3カ月の間に、バイデン米大統領と習近平中国主席の両方をハノイに迎えて首脳会談を行っています。そのさいにチョン書記長が、バイデン大統領、習近平主席の双方に対して、自主独立と全方位外交というベトナム外交の基本方針とともに「四つのノー」(軍事同盟を結ばず、第三国に対抗するために他国と結託せず、外国軍基地の設置を認めず、武力行使・威嚇をせず)を表明したことに注目しています。そういうベトナムがASEANで重要な地位を占めていることは、ASEANの中心性を保障する重要な柱となっていると思います。ところが日本政府がどうなっているかと考えた場合に、「四つのノー」ではなくて、「四つのイエス」になっている。軍事同盟イエス、ブロック政治イエス、軍事基地イエス、武力の行使・威嚇イエス――「専守防衛」を投げ捨てた大軍拡をやっています。

 ――そういう状況を変えるためにわが党は闘っていますが、日本政府がそういう状況にあるもとで、日本共産党としての独自の努力が必要だと考え、この間、努力をしてきました。「日中両国関係の前向きの打開のための提言」、朝鮮半島問題の外交的解決、歴史問題の理性的解決のために独自の努力をしてきました。

 日中関係については、日中両国政府には両国関係の前向きの打開にむけた三つの「共通の土台」――(1)2008年に交わされた「互いに協力のパートナーであり、互いに脅威とならない」という首脳合意、(2)2014年に交わされた尖閣諸島等東シナ海問題の緊張状態を「対話と協議」によって解決するという合意、(3)東アジアの平和の枠組みとしてAOIPを日中両国政府が支持している――があることに着目して、これらの「共通の土台」を生かして対話によって前に進もうという提案を行い、日中双方から肯定的な受け止めが寄せられました。

 北朝鮮問題については、弾道ミサイル発射には厳しく反対しますが、解決方法は対話しかありません。2002年の日朝平壌宣言に基づいて、核、ミサイル、拉致、過去の清算を包括的解決して国交正常化をはかることが唯一の理性的な解決の道です。その点で、最近、日朝間で接触があったということが報じられており、そういう機会も捉えて、対話のルートの確立することが大事だと主張しています。

 歴史問題については、日本政府が過去の植民地支配に対する真剣な反省と誠実な姿勢を欠いていることが、徴用工問題、日本軍「慰安婦」の問題などの解決の妨げとなっており、友好関係を築く障害となっており、解決していく必要があります。

 ――AOIPを成功させるために両党が協力していきたい。同時に、北東アジアに“対話の習慣”をつくっていくために、わが党として独自の努力をしていくつもりなので、この点でも協力していきたい。

 これが私がベトナム側に伝えた東アジアの平和構築についてのわが党の考えです。

東アジアの平和構築のために国民的・市民的運動を

 ベトナム側の発言はどうでしたか。

 志位 AOIPについてはその成功のために両党で協力していこうということが合意になりました。グエン・フー・チョン書記長との党首会談でも合意になりました。両党で協力してAOIPの成功のための取り組みを推進しようということをベトナム共産党とも党首レベルで合意したというのは、非常に重要だと思います。

 それからベトナム側から、北東アジアと東南アジアの比較はとても興味深く、深みがあるものだが、同時に共通点もあるということが強調されました。それは北東アジアでも東南アジアでも、それぞれの地域の諸民族は、みんな平和を望んでいるということだ、民衆の力は最も重要であり、民衆は平和を望んでいるんだから、民衆が協力して平和をつくることが重要だ――こういう反応がベトナム側から返ってきました。

 これは、私たちが今回の訪問で一貫して強調してきたこととも共通する提起です。すなわち、AOIP成功のためには、各国の政府、政党、市民社会が協力してやっていこうということと共鳴してくる、とても私たちと響き合う反応が返ってきました。

 もう一つベトナム側から返ってきたのは、日本共産党の「日中両国関係の前向きの打開のための提言」について、日中関係の改善に対する努力を高く評価する、ベトナムも日中の友好を支持しているということでした。わが党の「日中提言」は、ASEANの事務局次長にも歓迎されましたが、ベトナムからも歓迎の声が寄せられたことはうれしいことでした。

 とくに、東アジアの平和構築のために、政府と政党と市民社会が協力して取り組んでいくという方向で一致したことは、重要だと思います。核兵器禁止条約も各国政府と被爆者を先頭とする市民社会の共同の産物でした。東アジアに平和をつくろうと思ったら、国民的運動、市民的運動が必要になります。時間がかかったとしてもそれをやる必要はあるのではないかと話したら、賛意を得られました。

 日本共産党とベトナム共産党との両党関係については、ハイレベルの交流、理論交流、国際フォーラムでの協力、国際部門間での協力――これらの4分野で関係を発展させてきたし、今後ももっと発展させようということで合意しました。

枯葉剤被害者支援、ベトナム人労働者の権利の問題について

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(写真)ベトナム共産党のグエン・フー・チョン書記長(右)と握手する志位和夫委員長=2023年12月26日、ハノイ(VNA=ベトナム通信社提供)

 代表団は、枯葉剤被害者支援センターを訪問しました。ベトナム人労働者の問題も話し合われたと聞きます。

 志位 枯葉剤被害者支援と在日ベトナム人労働者の問題でも話し合いました。

 ベトナム人労働者の問題では、実は5年前のベトナム訪問のときに、グエン・フー・チョン書記長に、この問題に取り組んでいくという約束をしました。その後、日本共産党国会議員団がこの問題を重視して取り組んでおり、調べてみたら2019年以降で37回も国会質問で取り上げているんです。不当な大企業による雇い止めの是正を指導させたり、コロナ危機のもとで実習生への給付金支給など、生活支援が行き渡るよう要求するなど、わが党の国会議員団は頑張っています。そういう話を先方に伝えました。これには強い感謝がのべられました。

 そもそも技能実習制度の「国際貢献」という建前が成り立たなくなっており、実態は、低賃金と重労働などで人手不足が深刻な分野への外国人労働者の活用が意図されており、技能実習制度は廃止し、日本で働くことを希望する外国人に労働者としての権利を保障する制度へと、抜本的な見直しを求めていることをチョン書記長にも直接伝えました。

 またマイ書記局常務との会談では、田村副委員長が、外個人労働者の権利を守る自身の国会質問の話もくわしく紹介し、たいへんに気持ちが通じ合う会談となりました。田村さんとマイさんの間では、歓迎夕食会の席で、ジェンダー問題が真剣に議論されました。ベトナムでは男女間の賃金格差がほとんどないわけですが、それを解消していった過程をマイさんが詳しく話し、日本ではこういう遅れがあると田村さんが話し、ジェンダー平等に対するベトナムの努力が伝わってきました。

 枯葉剤の被害者の問題では、私たちは、ハノイの郊外にある枯葉剤被害者支援センターを訪問しました。この被害が今なお続いているという深刻な実態があります。枯葉剤の被害者は現在300万人いるとのことでした。直接浴びた人(1世)とともに、被害者2世、3世、4世まで問題になっているとのことでした。4世だけで3万人いるとのことでした。2世、3世はと聞くと、実態をつかめていないという話です。

 支援センターではリハビリをやったり、重度の人は特別のケアをしたりしています。私たちはセンターに贈り物を届けたいと思い、何が不足していますかと聞いたら、扇風機が不足しているという話だったので、ささやかなものですが24台を買ってお持ちしました。そうしましたら、「贈呈式」をしていただいて、みなさんが集まってくれました。一人ひとりと握手しました。そこで私は、あいさつを求められて、「いまだに世代を超えて、被害が続いていることに胸がつぶれる思いです。日本の原水爆禁止世界大会では枯葉剤被害者への支援を呼びかけて募金などに取り組み、加害国と加害企業に謝罪と補償を求める運動を行っています。ベトナムで『ヒバクシャ国際署名』を100万近く集めてくれたことも忘れません。両国民が力をあわせて、『核兵器のない世界』、大量破壊兵器、残虐兵器のない世界をつくりましょう」と話しました。

 ラオスでは不発弾という形で、ベトナムでは枯葉剤という形で、なお戦争の被害が続いていることを私たちは決して忘れてはなりません。

グエン・フー・チョン書記長との会談――「桜の花と共産主義者の心」が話題に

 代表団の最後の日程は、グエン・フー・チョン書記長との会談でした。

 志位 グエン・フー・チョン書記長との党首会談は、いまのべたことの全体が確認された会談となりました。チョン書記長は、「日本共産党代表団の活動が素晴らしい成果を上げたことを、私はもう報告を受けています」と語り、国の発展と国民の幸福のために平和と自主独立の旗をベトナムは掲げているとのべ、東アジアと世界の平和のための両党の協力を促進することに賛成の意を示しました。AOIPを両党が協力して成功に導く、「核兵器のない世界」をつくる――この二つの大きな問題での両党の協力が確認されました。両党関係については、さきほど紹介したいくつかの点での発展が確認されました。

 1994年にグエン・フー・チョンさんがベトナム共産党代表団の一員として来日し、私が団長をつとめた日本共産党代表団と数日間にわたる長時間の会談をしたことが話題になりました。ソ連崩壊直後の困難な時期で、主に国際問題で意見交換を行いました。そのときに、チョンさんは「しんぶん赤旗」の早朝配達にも参加しました。チョンさんは、帰国して、「桜の花と共産主義者の心」というたいへん文学的なエッセーを、党の機関紙である「ニャンザン」に寄稿しました。とても感動的な文章だったので、翻訳して全文「しんぶん赤旗」に載せたことがありました。そんな話題にもチョン書記長はふれて、ほんとうに心が通い合う、温かい会談となりました。

 こうしてベトナム訪問は、今回の訪問の集大成になりました。私たちの「外交ビジョン」のイメージが豊かに膨らみ、それを先方も受け止めてくれたという訪問になりました。

訪問の成果、これをどう生かしていくか

 本当に大きな成果があった訪問でしたが、これをどう生かしていくのですか。

 志位 ASEANの国ぐにの立場から考えてみますと、ASEANの域外の政党で、これだけASEANが提唱しているAOIPについて熱心に推進を訴えている党は他にないと思います。そういう点では、ASEANの側が行っている努力と探求にも響き、会談した方がた、党との関係で、強い絆がつくれた、また絆が豊かになったのではないかと思います。

 党の方針との関係でいえば、2020年の党大会で党の綱領にASEANの重要性を位置付けたこと、この間、「外交ビジョン」や「日中提言」を発表してきたこと、そういう一連の外交方針が、その中心になっているASEANの国ぐにに行って、深く響き合い、さらに、響くだけではなくて私たちの認識が豊かに発展する、方針も発展するという訪問になりました。それは非常に大きな成果と言えると思いますし、今後の日本の闘いにも生かしたいと思います。

 それから、私が、日本共産党代表団の団長として、ベトナムとラオスで政権党の党首と会談し、党首間で、東アジアの平和構築に協力して取り組もう、協力してAOIPを推進しようということを確認したことは、現実の国際政治を前に動かすことに貢献するものであり、非常に重要な出来事となったと思います。

 これを、日本国民の中でいかに世論にしていくかという課題に、ぜひ取り組みたいと思います。東アジアの平和構築というテーマは、ともすると難しくとられがちですが、今回の訪問をつうじて、うんとやさしい言葉で、「“対話の習慣”を東南アジアから北東アジアにも広げよう」というように一言で言えるようになったのではないでしょうか。このことも今後のいろいろな取り組みに生かしていきたいと思っています。

 お話ししてきたように、北東アジアは、東南アジアに比べて、“対話の習慣”という点で不足があり、それを阻む難しい問題もあります。しかし考えてみれば、東南アジアも、ベトナム侵略戦争のときには、「敵対と対立」の地域だったわけです。それが長い期間をかけての対話の積み重ねで平和の共同体に変わっていったのです。ですから、北東アジアでも、平和を願う各国国民の力に依拠するならば現状を変えることはできると確信します。ASEANと協力しつつ、北東アジアにも“対話の習慣”を根付かせ、平和な地域にしていくための努力を、ステップ・バイ・ステップで――一歩一歩進めたいと決意しています。

 最後に、3カ国の歴訪をつうじて、日本共産党の外交方針への評価と期待、日本共産党そのものの発展と成功への期待が、それぞれの立場から寄せられました。これらの期待にこたえて、今年、目前に迫った第29回党大会を成功させ、つよく大きな党をつくり、総選挙での躍進に道を開く年にしていくために力をつくす決意です。

 長時間、ありがとうございました。

代表団の構成

 志位和夫委員長・衆院議員(団長)/田村智子副委員長・参院議員(副団長)/緒方靖夫副委員長・国際委員会責任者/小林俊哉国際委員会事務局次長/井上歩国際委員会局員

 

 

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ASEANの国ぐにの努力を生きた形でつかんで、東アジアに平和をつくる日本共産党の「外交ビジョン」をさらに豊かなものにしたい、日本のたたかいにも役立つような知見を得てきたい、

2024-01-01 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

2024年1月1日(月)

東アジアの平和構築へ 

東南アジア3カ国 発見と感動の9日間

志位委員長が新春緊急報告

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(写真)東南アジア訪問について語る志位和夫委員長

 どうやって東アジアを戦争の心配のない平和な地域にするのか――昨年末、インドネシア、ラオス、ベトナムの東南アジア3カ国を訪問し、東アジアの平和構築にむけ精力的な外交活動を展開した日本共産党代表団(団長・志位和夫委員長)。どんな交流、探求がおこなわれ、どんな手ごたえ、収穫があったのか――志位委員長がその一部始終を緊急報告します。(聞き手・構成=赤旗編集局)

訪問の目的と全体の特徴は

 明けましておめでとうございます。

 志位 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 まず、今回の訪問の目的、訪問をふりかえっての感想をお聞かせください。

 志位 東南アジア3カ国を12月19日から27日までの日程で訪問しました。東南アジア諸国連合(ASEAN)は、粘り強い対話の努力を続け、この地域を平和の共同体に変え、その流れを域外に広げて東アジアサミット(EAS)という枠組みを発展させ、さらに2019年の首脳会議ではASEANインド太平洋構想(AOIP)を採択し、東アジア全体を戦争の心配のない平和な地域にするための動きを発展させています。こういう状況のもとで、ASEANの国ぐにの努力を生きた形でつかんで、東アジアに平和をつくる日本共産党の「外交ビジョン」をさらに豊かなものにしたい、日本のたたかいにも役立つような知見を得てきたい、さらに可能な協力を探求してきたい、これらを目的にして訪問してきました。

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(写真)インドネシアに向けて羽田空港を出発する志位和夫委員長(中央)、田村智子副委員長(左から2人目)、緒方靖夫副委員長(右から2人目)ら日本共産党代表団=2023年12月19日

 移動も含めて9日間の長旅になりましたが、ふりかえってみますと、毎日がわくわくする、発見と感動の連続でした。一日一日、さまざまな方がたと会談するたびに新しい視野が広がってくるという訪問になりました。

 私たちは、これまで野党外交をさまざまな形でやってきましたけれども、一つのテーマを前進させることを目的にして、いくつかの国を訪問するというのは、あまりないのです。今回は東アジアの平和構築、とりわけAOIPの成功というテーマに焦点をあてて三つの国を訪問し、私たちの知見も認識も新たにし、豊かになったと言えると思います。また、わが党の「外交ビジョン」そのものも、AOIPを成功させること自体とともに、北東アジアが抱える諸懸案を積極的に解決していくという「二重の努力」に取り組むという形で発展させることができた。こうして、今回の訪問は、わが党の野党外交の歴史の上でも特別の意義をもつ訪問となりました。

インドネシア―“対話の習慣”を東アジアに

ASEANの発展を牽引してきた国

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 最初の訪問国として、インドネシアを選んだのは、どうしてですか。

 志位 インドネシアの人口は2億8000万人。ASEANの総人口が6億7000万人ですから、ASEANの中で最も大きな国です。ジャカルタにASEANの本部があります。

 インドネシアはASEANの創立(1967年)のメンバーであるとともに、近年でいえば、2011年にインドネシアのバリで東アジアサミット(EAS)が開かれ、「バリ原則」を採択し、武力行使を禁止し、紛争の平和解決をはかるなど平和のルールを政治宣言という形で打ち出しましたが、これを中心になって進めたのがインドネシアでした。

 その後、13年にインドネシアのマルティ外相が「インド太平洋友好協力条約」を提唱、18年には、インドネシアのルトノ外相がAOIPを提唱し、19年のASEAN首脳会議でAOIPが採択されました。

 このように、ASEANの発展という点でも、それを域外に広げていくEASやAOIPという枠組みを発展させるという点でも、インドネシアは一貫して、ASEANの平和の地域協力を牽引(けんいん)してきた国です。ですから、いまASEANで起こっていることの本当の姿を知ろうと思えば、どうしてもインドネシアに行って、その中枢で頑張っている方がたに話を聞くことが必要だと考えました。

 私自身は、インドネシアを10年前(2013年)に訪問しています。このときの訪問が一つのきっかけになって、日本共産党の「北東アジア平和協力構想」(14年)の提唱、東アジアに平和をつくる「外交ビジョン」(22年)の提唱につながりました。また2020年の第28回党大会で行った綱領一部改定のさいに、ASEANの取り組みを「世界の平和秩序への貢献」として注目して位置づけました。一方、ASEANの側も、AOIPの採択という新しい道に大きく踏み出し、それを発展させる途上にあります。こうして10年前と比べて、私たちの認識にもずいぶん発展があったし、ASEANの側も大きく発展しているわけですから、新しい目でASEANの発展をつぶさにつかんでみたいという思いがありました。

年1500回もの“対話の習慣”を東アジアに

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(写真)インドネシアのアダム・トゥギオ外相特別補佐官(右)と会談する志位和夫委員長=2023年12月20日、ジャカルタのインドネシア外務省

 まずアダム・トゥギオ外務大臣特別補佐官との会談をされました。

 志位 はい。1時間あまりでしたが、たいへん重要な会合になりました。

 私からは、まず今回の訪問の目的を話し、そして、AOIPについて日本共産党としてこう理解しているということを話し、インドネシア政府としてAOIPをどう位置づけているかを聞くというところからスタートしました。

 私の方からは、私たちの理解ではと前置きして、AOIPは、

 ――対抗でなく対話と協力の潮流を強める。

 ――どの国も排除せず、包摂的な枠組みを追求する。

 ――大国の関与を歓迎し、積極面を広げるが、どちらの側にもつかない。

 ――ASEANの中心性――自主独立と団結を貫く。

 ――新しい枠組みをつくるのではなく、既存の枠組み――東アジアサミット(EAS)を活用、強化していく。

 ――東南アジア友好協力条約=TACを平和の規範として重視し、ゆくゆくは東アジア規模に広げていく。

 おおよそこういう要素からなっていると理解していますが、どうですかと、先方にAOIPの意義について聞きました。とくに、ASEANが、EAS、AOIPのような平和の枠組みを東南アジア域外に広げていこうとしている思いはどこにあるのかと聞きました。

 アダムさんからは、ASEANにとって何よりも大切なのは平和と安定だ、そして平和と安定は域外の国ぐにとの連携が必要になる、この地域には多くの紛争の危険や火種があるけれども、「なぜASEANが多くの対話プロセスを持っているかというと、私たちは“対話の習慣”をつくりたいからです」との答えが返ってきました。

 ここで“対話の習慣”という言葉が出てきたんです。ハビット・オブ・ダイアログという言葉だったのですが、非常に印象深かった。アダムさんは、ASEANが東南アジアを超えてEASなどで域外の国ぐにとの連携を包摂的に進めているのは、「紛争の危険、火種があるもとで、“対話の習慣”を推進したいからです。対話により誤解や誤算を回避できます」とのべました。そしてそれはASEANだけではなく、周辺諸国にとっても意義があるということを言われました。

 “対話の習慣”という言葉がたいへん印象深かったので、私が10年前に訪問したとき、ASEAN域内で年1000回以上の対話をやっていると聞いて驚いたと話しましたら、「今では1500回以上です」とのこと。10年間で1・5倍になったということでさらに驚きました。

 アダムさんの話を要約すると、“対話の習慣”を東アジア全体に広げるのがAOIPだということが言えるかもしれません。ASEANでやっている年1500回もの“対話の習慣”を東アジア全体に広げる、これがAOIPだというふうに言いますと、とても分かりやすいのではないでしょうか。街頭演説でも、これだったら話せるんじゃないでしょうか。

 これはとても分かりやすいですね。

 志位 はい。いいキーワードを聞いたなと思いました。

政府と政党を含む市民社会が協力して

 志位 アダムさんとの対話で、私がもう一つ提起したのは、AOIPを成功させるためには、政府と政府の間の話し合いが大事なことは当然ですが、それだけではなく政党を含む市民社会が協力することが重要ではないかと問いかけてみたんです。

 アダムさんは、市民社会も“対話の習慣”のプロセスに貢献することは可能だとの考えを示しました。政府間の話し合いだけでなく、政党も含めた市民社会が加わることで、対話がより深いものになるという認識が共有されたこともとても印象的でした。

 私がこのことを話したのは、核兵器禁止条約の経験からです。核兵器禁止条約は、政府間の交渉によってつくられたものですが、市民社会の協力がなければできなかったと思います。日本の被爆者をはじめとする世界のNGO、政党も一体になって取り組んで条約をつくりました。AOIPのような平和の枠組みをつくるうえでも、政府間の話し合いだけでなく、政党も含む市民社会が一緒になって進めることが重要ではないかと考え、そういう提起をしました。先方からは肯定的な答えが返ってきました。

ガザ危機、核兵器禁止条約での意見交換

 志位 アダムさんとの対話のなかでは、世界の緊急課題である二つの問題についても提起しました。

 一つはパレスチナ・ガザ地区の問題です。死者が2万人を超え、イスラエルの大規模攻撃は明らかに国際法違反であり、インドネシア政府も主導した国連総会決議は153カ国が賛成しており、この決議が求めているように即時の停戦が必要だ、イスラエルの攻撃中止を求めることが必要だ、ハマスがやったことは許されないが、それを理由にイスラエルが大規模攻撃をすることは許されない、この問題での協力を願っていると話しました。

 これに対して非常に強い答えが返ってきました。アダムさんは、「パレスチナ問題では、私たちは国際社会が持続的な停戦を実現するために声を一つにすることを促しています」とのべるとともに、ダブルスタンダード(二重基準)に反対するインドネシア政府の立場を表明しました。私は、日本共産党も、ハマスの無法行為を非難するがイスラエルの無法行為の非難はしない「ダブルスタンダード」には道理がないと国会でも提起してきたが、恒久的停戦のためにさらに働きかけを強めたいと表明しました。

 もう一つは、核兵器禁止条約の問題です。インドネシアについて、私がたいへん印象深かったのは、2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議に参加した際、当時のインドネシアのマルティ外相が非同盟運動を代表して冒頭に演説をしたことです。それは核廃絶を求める堂々たる演説でした。そしてこのNPT再検討会議で採択された文書は、その後の核兵器禁止条約の成立につながっていきました。そういう体験も含めて、「核兵器のない世界」への協力を願っているという話をしました。アダムさんは、非同盟やNPTでのインドネシアの積極的な役割に言及していただいたとのべ、「核兵器のない世界」にむけ連携していくべきとの考えを表明しました。

 ハビット・オブ・ダイアログ=“対話の習慣”を広げていく、年間1500回以上に及ぶ会合という話のほか、ガザと核兵器という緊急課題でも有意義な会談になりました。

ASEANの中心性――一方の側に立たず自主独立を貫く

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(写真)ASEAN本部で志位委員長(右)と田村副委員長=2023年12月21日、インドネシアのジャカルタ市

 ASEAN本部を訪問されました。

 志位 はい。2日目は、ジャカルタ市内にあるASEAN本部を訪問し、エカパブ・ファンタボン事務局次長と会談しました。エカパブさんはラオス出身の外交官で、ラオスは今年(2024年)のASEAN議長国です。その話から、私たちがこれからラオスに行くという話になったところ、エカパブさんは、ちょうど数時間前にインドネシアからラオスへの議長国の引き渡しのセレモニーが行われたと。そんな会話から会談が始まりました。

 まず、年間1500回以上に及ぶ会合が話題になりました。私が「年間1500回以上と昨日、聞きました」と話したところ、エカパブさんは、たしかに1500回になっているが、「いまでは量とともに質も大切になっています」として、会合を整理して順序だてたものにする努力を語りました。

 私が、「ASEANの成功の秘訣(ひけつ)は何ですか」と聞いたところ、エカパブさんからは、ASEANの中心性と結束が重要だという答えが返ってきました。中心性というのは、いろいろな議論が起こったときにバランスを取って平和と安定を促進する、そして中立性を保つ、つまり、どちらか一方の側を取ることはない――。こういう説明でした。バランス、中立性、一方の側に立たない、そして自主独立を貫いていく。こうしたASEANの中心性の重要性が強調されました。

 エカパブさんは、それを家族にたとえて、ASEANは家族の一員として受け入れ合い、助け合い、支える関係だ。域内でも不一致は時にはあるけれども、全ての問題を家族の一員の協力で解決していく。家族でもときどき問題が起きるが、しかし家族の問題は外部の力ではなく、家族で対応すると語りました。

域外のパートナーが同じ席につき、一緒に平和をつくっていく

 志位 私は、もう一点、AOIPにかかわって、どういう思いでASEANは平和の地域協力の取り組みを域外に広げることをしているのですかと聞きました。エカパブさんは、ASEANは常に外側を向いている(アウトワード・ルッキングだ)。常に域外のパートナーに関与しようとする。その点で、世界で最も成功した地域機構だと思っていると答えました。世界の他の国にアウトワード・ルッキングする――外側を向いていくということです。AOIPも「ASEAN・アウトルック・インドパシフィック」の略です。アウトルック――ASEANがインド太平洋全体を広く遠くまで見晴らし、関与して、平和の枠組みをつくっていこうというのがAOIPです。

 アダムさんは、ASEANは域外の大国が同じテーブルの席につくことができるプラットフォームになっている、大国が席につき、私たちの考えを受け入れなくても私たちの見解を共有することができるということも言われました。そういうことをやりながら、相互理解と協力を広げていくことをやっているということだと思います。そういう地域機構は世界にASEANしかないとも言っていました。このような表現で、ASEANというのは、ASEAN域内で平和の地域協力をつくるだけではなく、外に向かって、視野を広げて、域外のパートナー国――中国、アメリカ、日本も含めて一緒になって平和をつくっていっているということを強調していました。

日本共産党の「外交ビジョン」に高い評価が

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(写真)訪問団が持参した、ASEANなどに関わる日本共産党の活動を紹介する文書

 志位 私たちは、今回の訪問の対話用にと、「日本共産党とASEANの平和の取り組み」と題するごく簡潔な資料をつくりました。東アジアに平和をつくる日本共産党の「外交ビジョン」、トルコ・イスタンブールで開催されたアジア政党国際会議(ICAPP)でAOIPの重要性を訴え、総会宣言に「ブロック政治を回避し、競争より協力を重視する」との一文が盛り込まれたこと、「日中両国関係の前向きの打開のための提言」で、日中双方とも賛意を表明しているAOIPをともに成功させようと呼びかけ、日中両国政府の双方から肯定的に受けとめがあったことなどが一目でわかるようにした資料です。私は、この資料を使って、わが党の取り組みを紹介しました。

 エカパブさんからはいろいろな反応がありました。日本共産党の「外交ビジョン」について、地域の平和と安定を促進するASEANと同じ線に沿っているもので高く評価すると言われました。「日中両国関係の前向きの打開のための提言」に対して、日中両国政府の双方から肯定的な受けとめがあったことにたいして、とても良いシグナルだとの評価がのべられました。地域の多くの国と多くのチャンネルを持つことの重要性が指摘されました。

 私が、ASEANと協力して、政党レベルでもAOIPを成功させる取り組みをすすめたいと話したところ、エカパブさんは、日本共産党は重要なビジョンを持っており、その努力、アプローチは重要であり、その仕事を続けていただきたいと応じました。

 日本共産党の努力方向を歓迎してくれたことは、私たちにとってたいへんに心強いことでした。

ボトムアップ、ステップ・バイ・ステップで

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(写真)インドネシアのハッサン・ウィラユダ元外相と会談する志位委員長、田村副委員長=2023年12月21日、ジャカルタ市内

 ハッサン・ウィラユダ元外相との会談がとても弾んだと聞きました。

 志位 そうです。ジャカルタでは、インドネシアのハッサン・ウィラユダ元外相と、ASEAN常駐代表部事務所にある彼の事務所で会談しました。ハッサンさんは、2001年から09年までインドネシア外相を務め、EASの設立(05年)などのASEAN外交をリードしてきた人物で、2時間近くの会談になりましたが、豊かな示唆に富む発言をたくさん聞くことができました。

 ハッサンさんの発言でまず注目したのは、「ASEANは、外部から見ると、期待通りの速さではない、遅いと見られている。しかし、われわれのアプローチはトップダウンではなくボトムアップ(積み上げ型)です。ステップ・バイ・ステップ(一歩ずつ)なのです」ということでした。一歩一歩、できるところから積み上げ、広げていくことがASEANのやり方だというのですね。東南アジア友好協力条約(TAC)をつくるにしても、ASEANの設立宣言が1967年で、TACを結んだのは76年ですから、ASEAN設立からTACを結ぶまで9年もかかった。そういうふうに一歩一歩と広げていまに至っている。まずこの発言がとても印象的でした。

東南アジアには良い“対話の習慣”がある、これをいかにして北東アジアに広げるか

 志位 ハッサンさんとの対話のなかには、たくさんの示唆があったのですが、とくに印象深かったのは、東南アジアには良い“対話の習慣”がある。これをいかにして北東アジアに広げるかが課題だということを言われたんです。これは、ズバリ的を射たものだと思います。

 ハッサンさんが、北東アジア固有の困難にあげたのは、一つは、歴史問題でした。過去の歴史問題を解決できていない。日本がそれを克服できるかが大事で、ドイツが大切な例になるのではないかと指摘しました。もう一つは、朝鮮半島では、停戦合意があるだけで依然として戦争状態が続いていることです。これは難しい問題だが、正面から取り組む必要があるとの指摘でした。さらにいま一つは、米中の対抗、戦略競争が強まっていることです。三つともまさにその通りです。私は、なるほどと思ってこの提起を聞き、こういう話をしました。

 「たしかに言われる通りで、私たちもこの問題では模索と探求をやってきました。わが党は、14年の党大会で北東アジア平和協力構想を提唱しました。これは簡単に言えば、ASEANのような平和の地域協力の枠組みを北東アジアにもつくりたい、北東アジア版のTAC(友好協力条約)を目指したいというもので、当時は関係国から評価を受けましたが、その後の情勢の進展は、これが簡単には進まないことを示しました。新たに枠組みをつくるのではなく、現にある枠組みを活用・強化して平和をつくる現実的アプローチが必要だと考えました。そのときにASEANによるAOIPの提唱――現にある東アジアサミットを活用・強化するという構想を受けて、党として『外交ビジョン』を提唱しました」

 それに対してハッサンさんは、次のように発言しました。

 「東アジアでTACをつくることは、今すぐは難しいと思います。“対話の習慣”を育んできたASEANでもTAC締結には9年かかりました。TACをつくるには、条約をつくる前提として“対話の習慣”が必要です。いかに良い“対話の習慣”を育むかが優先だと思います」

 私たちが「北東アジア平和協力構想」から、現にある枠組み――東アジアサミット(EAS)を活用・強化していくという「外交ビジョン」へと外交構想を発展させていった模索と探求をよく理解してくれた発言でした。

「対話は多様性の産物」、平等に同じテーブルにつく

 志位 私は、ASEANの考え方を日中関係にも応用したと「日中両国関係の前向きの打開のための提言」の話をしました。「バリ原則」を中心になってまとめたインドネシアのマルティ外相は、かつてその取り組みについて、“誰にも反対できないような原則――国連憲章にもとづく紛争の平和的解決などの原則をきちんと定式化した。それがバリ原則です”とのべていました。こうした努力を積み重ねていけば地域の平和のルールになっていくということだと思います。

 日中両国関係にもこれを応用して、日中両国のどちらにも受け入れ可能で、かつ実効性のあるものをつくろうと、「日中両国関係の前向きの打開のための提言」を発表したという話をしました。とても真剣に聞いていただきました。

 そのうえで、私は、ASEANではどうやって、“対話の習慣”を持つようになったのですかと聞きました。ハッサンさんはこう言いました。

 「対話は多様性の産物です。インドネシアは人種、言語、文化的に多様で300以上の民族がおり、私は西ジャワの出身ですが、スマトラ北部の人と話すときは相手に何を言っていいのか、悪いのかを意識します。私たちにはそのような内的プロセスがある。基本的に全ての東南アジア諸国が多様な国です。多様性の中で、対話は日常生活、生き方そのものなのです」

 「対話は多様性の産物」――。これもなるほどと思って聞きました。

 そのうえでハッサンさんは、もう一つ大事なことを言いました。

 「インドネシアは2億8000万の人口を持ちます。ブルネイは45万人、シンガポールは600万人、ラオスは750万人です。しかし、私たちは平等に同じテーブルにつきます。ASEANはコンセンサスで運営されます。インドネシアは大国だから、もっと意向が反映されてもいいはずだとも言われますが、そうではありません。私たちは自分の意思で小国と同じ権利を持つことにしました。ASEANはコンセンサスに基づいて運営されています。多数が少数に意見を押し付けない。少数も多数を振り回さない。だからASEANは発展したのです」

 これらの一連の発言には、ASEANの成功の秘訣が深いところから語られています。

 ――ASEANで“対話の習慣”がつくられたのは、「多様性の産物」だ。多様性があるからこそ、対話せずにはいられなかった。私たちは「ハビット」を「習慣」という言葉に翻訳しましたが、「癖」とも訳せます。「対話せずにはいられない」という感じだと思います。

 ――ASEAN域内でインドネシアは人口が4割強。最大の国です。それにもかかわらず、大国として意見を押し付けることを絶対にしない。こうした自制しているということが、ASEANの安定性と団結をつくっている。インドネシア外交の懐の深さを見る思いでした。

政府と政党と市民社会が協力して

 志位 ハッサンさんとの対話の最後に話したのは、政府と政党と市民社会の協力ということでした。ハッサンさんは、「政党にもできることがあります。それは政党間で話し合うことです。ぜひそれをやってほしい。対話を促進するために政党としてもやってほしい」と言いました。そして「ASEANは“対話の習慣”で成功しているけれども、東南アジアが成功しないままでは、東アジア全体の平和の共同体には進まない。平和のために、取り組みの成功を願います」と激励してくださいました。私から、政府と政党と市民社会の協力を大いに進めたいと提起したところ、たいへん良いことだと賛意を示してくれました。

 インドネシア政府は、22年のG20で議長国を務めて、だれも発出できないだろうと思っていた共同声明をまとめ上げました。ウクライナ侵略が難しい問題で、これを非難しながら、一部の人は違う意見をのべたという言い方で共同宣言をまとめました。これに関し、ハッサンさんは「ASEANは求心力があり、すべての国、立場の対立する国ぐにをそろって快適にする」と話しました。ここにASEANの哲学が表れています。対立しているのにそろってみんな快適になる。そこにインドネシア外交のすごさがあると感じました。

 インドネシアでの収穫は大きなものがありましたね。

 志位 そう思います。私は、記者団の取材で、インドネシア訪問の成果を問われて、「ASEANとインドネシア外交の精神を深く知ることができ、今後の協力の発展の方向、党の『外交ビジョン』の発展のうえで多くのヒントを得ることができました。とくに共通のキーワードとして“対話の習慣”ということが語られたことは、とても印象深いもので、ここインドネシア、ASEANから始まった“対話の習慣”を、時間はかかっても北東アジア、東アジア全体に広げ、この地域に平和をつくるために力をつくしたい」との決意をのべました。

続き次頁

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塩川氏は「面会をしたことで結果として統一協会をアピールする広告塔となっている。その認識、自覚があるのかが問われている」と強調し、

2023-12-10 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

2023年12月9日(土)

首相も「統一協会広告塔」

事実関係調べ公表を

衆参予算委 塩川・山下両氏が追及

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(写真)質問する塩川鉄也議員=8日、衆院予算委

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(写真)質問する山下芳生議員=8日、参院予算委

 「統一協会をアピールする広告塔となっている自覚はないのか」―。日本共産党の塩川鉄也議員と山下芳生副委員長は8日の衆参予算委員会で、岸田文雄首相とニュート・ギングリッチ元米下院議長らとの面会が統一協会(世界平和統一家庭連合)をアピールするイベントの一つだったと告発し、首相が被害の拡大に加担した責任を追及しました。

 岸田首相は自民党政調会長時代の2019年10月4日に自民党本部でギングリッチ氏らと面会。その際に、統一協会の関係団体「天宙平和連合(UPF)ジャパン」の梶栗正義議長が同席していたと報じられています。

 塩川氏は、岸田首相が梶栗氏と面会した翌日の10月5日には、統一協会の韓鶴子総裁が出席したUPF「ジャパンサミット」が名古屋市で開かれ、自民党の細田博之氏(故人)が出席・講演し、梶栗氏、ギングリッチ氏とそろって記念撮影していると告発。さらに、同集会の日米議員の集まりでは、日本側から自民党の山際大志郎衆院議員が、米国側からギングリッチ氏がそれぞれ韓総裁、梶栗氏と記念撮影していることを示し、「これらの行事は統一協会をアピールする一連のイベントだ。ギングリッチ氏はUPFの『平和大使』となっており、いわば統一協会の広告塔だ」として「岸田政調会長(当時)とギングリッチ氏の面会も、統一協会をアピールするイベントの一つだったのでは」とただしました。

 岸田首相は「あくまでも元米下院議長と面会したという認識だ。私と何か関係があったとの指摘は当たらない」と強弁。塩川氏は「面会をしたことで結果として統一協会をアピールする広告塔となっている。その認識、自覚があるのかが問われている」と強調し、事実関係を再調査すべきだと求めました。

 一方、山下氏は、統一協会の被害者が「(政治家は)単なる広告塔なんです。賛同するような、誤解を招くような行動は慎んだ方がいい」と声を上げているとして、「首相が統一協会と接点を持ったことで広告塔となり被害者や加害者を増やすことに加担してしまった可能性がある。どう責任を感じているか」と迫りました。

 岸田氏は「(面会の)同行者に誰がいたか承知していない」と繰り返すのみ。山下氏は「承知していなくとも、写真を撮られれば、それを利用して信者を集めることに使っているのが統一協会のやり口だ。それに胸を痛められないなら『関係の断絶』などできない」と批判しました。

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「米国が常にそばで役割を果たすことはできるが、韓国と日本が米国を通さずに直接対話した方が望ましいと思う。過去の歴史問題を解決するためには持続的な努力が必要だ」と語った。

2023-12-07 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会
 

駐日米国大使

「『トランプの帰還』が現実となっても韓米日連携は持続」

登録:2023-12-06 06:24 修正:2023-12-06 07:48

 

エマニュエル駐日米国大使インタビュー
 
 
ラーム・エマニュエル駐日米国大使が5日、東京の米国大使館で韓日記者団とインタビューを行っている//ハンギョレ新聞社

 ラーム・エマニュエル駐日米国大使が5日、東京の米国大使館で韓日記者団に対し「米国と韓国、日本の安全保障上の利益はキャンプデービッドで具体化されたものであって、3カ国の指導者だけに依存しているわけではない」と述べた。来年の米国大統領選挙で「トランプの帰還」が現実化し、韓日の政治的変化、歴史問題があっても、韓米日の連携は長期的に持続すると強調したのだ。

 エマニュエル大使は、今月8~9日にジェイク・サリバン米大統領補佐官(国家安全保障担当)がソウルを訪問し、韓米日3カ国安全保障担当高官会議が開かれるなど、8月のキャンプデービッド韓米日首脳会談以降、約3カ月ぶりに首脳間対話だけでなく軍事・経済分野で3カ国の多様な協力が進展していると語った。また「韓米日の連携が3カ国のDNAに内蔵され定着すれば、3カ国でどんな政治的変化があっても簡単には変わらないだろう」とし、このような状況が3カ国すべてにとって自国の利益に合致するためだと述べた。

 韓米日の連携が朝中ロの協力を加速化させ、朝鮮半島の情勢に負担になっているという指摘に対しては、「習近平主席と中国外務省、安全保障担当者たちは、ロシアと北朝鮮の間で起きていることを快くは思っていないだろう」とし、朝中ロの3カ国協力には限界があると反論した。「米国と日本、韓国は戦略的利害関係と国際的ルールを共有しているが、中国とロシア、北朝鮮はそうではない」ということだ。

 北朝鮮の核問題が悪化しているのに、具体的な解決策が見当たらないという質問には、ロシアにきちんと責任を問うことが重要だと答えた。エマニュエル大使は「ロシアはウクライナに侵攻し、国連憲章に違反しただけでなく、北朝鮮の核問題に関する国連安保理決議に違反し、制裁の信頼性を損ねている」とし、来年1月から韓国が国連安保理の理事国に加われば、韓米日が国連安保理制裁と関連してよりいっそう協力できるようになると述べた。

 韓日の歴史問題については「アウトサイダーとして、(これに)触れるのは控えたいと思う」としながらも、「米国が常にそばで役割を果たすことはできるが、韓国と日本が米国を通さずに直接対話した方が望ましいと思う。過去の歴史問題を解決するためには持続的な努力が必要だ」と語った。

 また「新型コロナウイルス感染症によるパンデミック(Covid)、ロシアのウクライナ侵攻をはじめとする紛争(conflict)、中国とロシアの経済的強圧(coersion)などの『3C』がここ数年間世界を大きく変えた」とし、ロシアと中国に対する懸念を強調した。経済的には過去30年間にわたり最優先事項だった費用と効率性の重要性が低下し、政治的安定と持続性、エネルギーとデータの安全保障が重要になっているとし、中国との経済関係もこのような側面を考慮すべきだと話した。

 バラク・オバマ政権の初代ホワイトハウス秘書室長を務めたエマニュエル大使は、昨年初めから駐日米国大使として韓米日協力で重要な役割を果たしている。

東京/パク・ミンヒ論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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この時期に、ある地域は他のどの時代より戦争と大量虐殺で満ちた「熱戦」を経験しなければならなかった。第2次世界大戦の終結から1990年までの間に2000万人以上が暴力的な衝突の過程で死亡し、

2023-11-12 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会
 

[レビュー]

米ソの「長い平和」の裏には2千万人のアジア人の死がある

登録:2023-11-11 09:06 修正:2023-11-11 10:04
 
米国の歴史学者の批判的な冷戦史研究 
 
『アジア1945-1990:欧米の繁栄下で戦争と暴力で彩られた」 
ポール・トーマス・チェンバレン著、キム・ナムソプ訳|イデア
 
 
朝鮮戦争やベトナム戦争など1945年から1990年の冷戦時期を彩る戦争と暴力のシーン=イデア提供//ハンギョレ新聞社
 
 
『アジア1945-1990:欧米の繁栄下で戦争と暴力で彩られた」ポール・トーマス・チェンバレン著、キム・ナムソプ訳|イデア|5万5000ウォン//ハンギョレ新聞社

 第2次世界大戦の終結後、超大国に浮上した米国とソ連を中心に、地球規模で互いに影響力を抑制しようとする「冷戦」が繰り広げられた。影響力のある冷戦史家であるジョン・ルイス・ギャディスは、この時期を「長い平和」(long peace)と呼んだりしたが、強大国の間で全面戦争がなく、国際秩序が相対的に安定した状態を維持したことが、その主な理由だった。しかし、この時期に、ある地域は他のどの時代より戦争と大量虐殺で満ちた「熱戦」を経験しなければならなかった。第2次世界大戦の終結から1990年までの間に2000万人以上が暴力的な衝突の過程で死亡し、その大部分は民間人だった。冷戦という薄氷は、実際には数千万人が死んだこの「キリング・フィールド」を見えなくするよう覆い隠していただけだった。

 米国の歴史学者のポール・トーマス・チェンバレン(コロンビア大学教授)は、2018年に著した『アジア1945-1990』(原題:The Cold War's Killing Fields)で、「東は満州平原から、南はインドシナ半島の生い茂る熱帯雨林、西は中央アジアと中東の乾燥した高原にいたるまで、ずっとつながる地帯」、すなわち「アジア」に焦点を合わせる。「1945~1990年の間に暴力的な衝突の過程で命を奪われた人は、10人中7人の割合でこの地域で死亡した」。 「長い平和」という冷戦が、ある地域では熱戦だったという事実は、すでに多くの人が指摘してきたことだ。著者はより一歩深く入り、この時期に広がった広範な暴力を一つの流れとして通して分析し、それが超大国の勢力圏が触れ合った「冷戦の国境地帯」といえるアジアの端の地域で繰り広げられたことを指摘する。

 
 
アジア南部の周辺地帯で発生した暴力の地理的集中=イデア提供//ハンギョレ新聞社

 第2次世界大戦が終わるやいなや競争に突入した米国とソ連は、「大西洋沿岸から中東を経て、アジアのモンスーン地帯にいたる広範な地域」である「周辺地域」(Rimland)を緩衝地帯として、互いに影響力の抑制を追求した。しかし、この地域は単なる超大国のチェス盤ではなく、過去の欧州帝国の崩壊後に誕生したポスト植民主義勢力が、それぞれ新しい世界を鋳造しようとして加熱された脱植民地化の闘争を行っていた地域でもあった。「脱植民地化の過程が地域支配のための超大国の闘争と正面から衝突」し、個々の衝突は冷戦という地球規模の網に捕らえられ構造化された。大規模な戦争と虐殺がその結果として後に続いた。

 著者は、時間の流れに従い3種類の「戦線」を提示するが、第三世界の脱植民化を導いた共産主義運動が台頭してから没落し、人種と宗教を中心とする分派主義がそれに代わる過程がそれを貫く。1945~1950年の中国革命は、「ワシントンとモスクワがアジアでちょうど発生していた冷戦の重大さに目を開かせた」が、米国・英国・ソ連・中国が4大警察国家を担当するという「ヤルタ体制」を廃棄したくなかった強大国は、強くは介入しなかった。しかし、1950年に朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争は、米国に「共産主義の総攻勢」に対する危機意識を呼び起こし、米国が「開発途上の世界に大規模に介入した最初の事例」を作った。日本とフランスの植民地主義が終わった後、新たに主権国家を作ろうとしたインドシナの共産主義運動も、米国とソ連、中国などの強大国の介入を引き込んだ。

 
 
1951年6月、朝鮮戦争当時、弟を背負う少女がM26戦車の前に立っている=米国海軍提供//ハンギョレ新聞社
 
 
1950年9月15日、韓国の仁川港で防波堤を攻撃する米軍海兵=イデア提供//ハンギョレ新聞社

 1960~1979年に台頭した2つ目の戦線は「インド・アジア大虐殺」と呼べ、この時期には、第三世界を席巻した共産主義運動が中ソ紛争などでよって退潮するなか、人種的・宗教的アイデンティティをめぐる衝突が、既存の政治理念の衝突の上に覆いかぶさり、次第にそれに取って代わっていく。1965年にインドネシアで広がった共産主義者の大虐殺はその序幕だった。パキスタンが東パキスタン(バングラデシュとして分離)で行った虐殺、カンボジアで広がったクメール・ルージュの殺戮は、「ジェノサイド」(人種浄化)がその本質だった。強大国はそれを正しく認識できず、各自の利益に従い、暴力の状況を拡大させた。たとえば、米国は中国との関係を回復するために仲裁を引き受けたパキスタンを支援した、この米国・中国・パキスタンの連合はその後、ソ連・アフガニスタン戦争のなかで「超国籍ジハード(イスラム聖戦運動)」に献身する「ムジャヒディン」(イスラム戦士)が誕生する土壌となる。

 1975~1990年の冷戦の最期の戦線は「大宗派の反乱」で、中東が主戦場になる。1975年に勃発したレバノン内戦から1979年のイラン革命は、イラン・イラク戦争、ソ連・アフガニスタン戦争から中東戦争にいたるまで、「人種間の争い、部族政治、宗教紛争を扇動したこの新たな戦争は、反乱者、準軍事組織員、国際平和維持軍、ゲリラ、従来型の軍隊が戦った低強度衝突」として現れた。民族主義や共産主義などの世俗的な政治理念から道を見いだせなかった第三世界の革命家たちは、今度は宗教と人種を土台とする「分派主義」から答えを探った。「冷戦の優先的な必要のため、米国とソ連の2つの超大国は、巨大な分派反乱に対し、初めから発想が誤った対応をしながら乱闘劇に参加」し、たとえば、「神政国家」のイランの原理主義者を非難する米国が、アフガニスタンのジハード主義者については、ソ連と対抗しているとして援助と武器を提供するかっこうだった

 
 
1975年4月17日、カンボジアのプノンペンが共産軍によって陥落すると、首都でクメール・ルージュの兵士が拳銃を突き出し商店主に商店を捨てて去るよう命令している=イデア提供//ハンギョレ新聞社
 
 
1980年10月17日、イラクのバスラが空爆されている間、カールーン川に設置された吊り橋の近くにある個人塹壕にいるイラクの兵士たち=イデア提供//ハンギョレ新聞社
 
 
1988年8月、携帯用地対空ミサイルの発射機を肩に載せているアフガニスタンのムジャヒディン=イデア提供//ハンギョレ新聞社
 
 
1987年2月、レバノンのベイルートで交戦中のシーア派ムスリムの民兵組織アマルの隊員=イデア提供//ハンギョレ新聞社

 著者は、こうした冷戦期に超大国が行った競争が、どの時代より多くの民間人犠牲者を出したほど、地球規模で大量暴力・虐殺を扇動しただけでなく、ポスト植民地主義の第三世界が追求したような世俗的な代案を破壊してしまったと指摘する。「米国の指導者は、第三世界の同盟者には、民主主義より反共主義を優先視」し、「ソ連と中国は、第三世界の革命家を穏健な社会主義から引き離し、より急進的な形のマルクス主義思想に向かわせた」。そして、「超大国の闘争が第三世界で噴出する一助となった破壊的な動力は、冷戦を勝ち抜きて生き残り、21世紀に新たな世代の衝突のための種をばらまいた」。世界の一部地域は「長い平和」のなかで繁栄を達成し、米国は冷戦の勝者になった。しかし、これらが助長した人種的・宗教的な急進化の種は、全世界の各地で新たな芽を吹き始めている。

チェ・ウォンヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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発起人代表の船田元・自民党衆院議員が「外苑再開発に対し著名人の懸念の声が広がっている。国会でも閉会中審査を求めている。みなさんと一緒に頑張りたい」とあいさつ。

2023-09-22 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

「文化的資産 外苑守る」

超党派議連が院内集会

 超党派の議員でつくる「神宮外苑の自然と歴史・文化を守る国会議員連盟」は20日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)諮問機関のイコモス(国際記念物遺跡会議)が外苑再開発の撤回を求める「ヘリテージ・アラート」を出したことを受けて、計画見直しを求める院内集会を東京都千代田区で開きました。


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(写真)神宮外苑再開発の見直しを求める超党派議連と市民の院内集会=20日、東京都千代田区の衆院第2議員会館

 発起人代表の船田元・自民党衆院議員が「外苑再開発に対し著名人の懸念の声が広がっている。国会でも閉会中審査を求めている。みなさんと一緒に頑張りたい」とあいさつ。

 日本イコモス国内委員会の岡田保良委員長と石川幹子理事が講演。石川さんはヘリテージ・アラートの政府・事業者・都に対する要請を詳しく紹介し、「アラートは1カ国の反対もなく確認した。外苑は、17世紀から続く東京の庭園都市の中核として、先祖の努力で守られてきた文化的資産。(再開発で)水泡に帰すことがあってはならない」と訴えました。

 参加した市民が「外苑に工事の囲いができて、これでいいのかと事業者に説明を求めたが、開かれた場での説明が全くない。緑の中で癒やされ、清涼な空気を吸う権利が失われる」などと発言しました。

 日本共産党の笠井亮衆院議員、原田あきら都議も出席。笠井氏は計画見直しを求める22万人の署名に敬意を示し「欧州では地球沸騰化を止めようと、再生可能エネルギー100%など必死になっている中、日本で大量の木を切る計画は逆行だ。止めるためにみなさんと力を合わせ頑張る」と表明しました。

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「すみやかに返還に向けた韓国との協議に入るべき」と要求しました。加藤勝信厚生労働相は「外務省と連携して対応する」と述べるにとどめました。

2023-04-01 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

遺骨の返還協議早く

浮島丸事件 倉林氏が求める

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(写真)質問する倉林明子議員=30日、参院厚労委

 日本共産党の倉林明子議員は30日の参院厚生労働委員会で、終戦直後に朝鮮人徴用工ら数千人を乗せた船が京都府舞鶴沖で爆沈した「浮島丸事件」の遺骨を遺族に返還するための協議を速やかに行うよう求めました。

 倉林氏は、朝鮮半島出身者の遺骨9259体が2010年までに韓国に返還されたことを確認。一方で、浮島丸事件の犠牲者の遺骨(韓国出身の275体)は「いまだに返還されず祐天寺(東京都目黒区)に安置されている」と指摘しました。

 倉林氏は「浮島丸殉難者を追悼する会」など3団体が人道的な観点から遺骨の早期返還を求めており、韓国側の遺族も「親に顔向けできるよう、死ぬ前に遺骨を祖国に迎えたい」と述べていることを紹介。「すみやかに返還に向けた韓国との協議に入るべき」と要求しました。加藤勝信厚生労働相は「外務省と連携して対応する」と述べるにとどめました。

 また、倉林氏は、祐天寺に安置されている北朝鮮出身者の遺骨425体についても、人道的な観点から返還に向けた取り組みを進めるよう求めました。

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未来にわたって心の通った友好関係を築こうというのならば、岸田首相は歴史問題にどう向き合うかについて、自分の言葉で語るべきです。

2023-03-17 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

歴史問題にどう向き合うか

 首相は自分の言葉で語るべきだ

志位委員長が会見

 日本共産党の志位和夫委員長が16日の国会内での記者会見で、同日行われた日韓首脳会談について行った発言は次の通りです。


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(写真)記者会見する志位和夫委員長=16日、国会内

 2点ほど述べたいと思います。

 一つ目の点は、未来にわたって心の通った友好関係を築こうというのならば、岸田首相は歴史問題にどう向き合うかについて、自分の言葉で語るべきです。

 1998年の「日韓パートナーシップ共同宣言」では、「植民地支配への痛切な反省と心からのおわび」を表明しているわけですが、この「共同宣言」をふまえて岸田首相は自らの肉声で歴史問題に関する認識を語るべきです。

 今後、本当に心の通う友好関係をしっかり築いていくためには、植民地支配への真摯(しんし)な反省を土台にしてこそ、日韓の間に横たわるあらゆる懸案事項―徴用工問題、日本軍「慰安婦」問題、竹島問題を前向きに解決する道が開かれます。

 二つ目の点は、徴用工問題についてです。今回の韓国政府の措置で終わりにしてはならないということを言いたいと思います。

 この問題の本質は、植民地支配と結びついた人権侵害というところにあります。「日韓パートナーシップ共同宣言」の精神に立って、被害者の名誉と尊厳が回復されるよう日韓両国政府が引き続きともに努力していくことが大切です。

 その際、1965年の日韓請求権協定によって、両国間の請求権の問題は解決されたとしても、被害者個人の請求権は消滅させることはないことは、日韓両政府、ならびに両国の最高裁が一致して認めています。

 この一致点を大切にして被害者の名誉と尊厳が回復されるまで、日韓の冷静な話し合いを続けることが必要です。

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