向日市自治功労者、大橋 満 の平和ト-ク・・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好交流促進
日本語版新聞紹介

弥勒とは、仏教で釈迦牟尼が涅槃に入った後、56億7000万年が過ぎた未来に出現するという仏だ。

2019-09-13 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

石窟庵の石仏より3倍大きな「恩津弥勒像」が国宝に昇格

登録:2018-02-13 22:44 修正:2018-02-14 20:15

 
     「恩津弥勒」という別称で有名な論山潅燭寺にある高麗時代の石仏立像=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 韓国の古い仏像の中で最も大きな巨人仏で、奇怪な容貌で有名な忠清南道論山(ノンサン)潅燭寺(クァンチョクサ)の「恩津(ウンジン)弥勒」像(国家指定宝物)が国宝になる。

 文化財庁は、高麗初期の光宗(在位925~975)時に作られたと伝わる論山市恩津面の石仏「恩津弥勒」像を国宝に指定予告したと13日発表した。

 「恩津弥勒」の名で世間に良く知られたこの仏像の正式名称は「論山潅燭寺石造弥勒菩薩立像」だ。像の高さは18.12メートルで、この地で19世紀以前に作られた仏像の中で最も大きい。高麗末期の文人である李穡(1328~1396)の『牧隱集』と僧侶である無畏が書いた『龍華会疏』、16世紀朝鮮初の人文地理書『新増東国与地勝覧』などによれば、高麗光宗の命により彫刻僧の慧明が作ったという記録が残っている。王室の支援の下に当代の優れた彫刻名匠の手により誕生した作品だということがわかる。

 
                「恩津弥勒」像の全景=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 この仏像は立像だ。左右にとかした髪の上に仏像の頭よりはるかに長い円筒形の宝冠をかぶり、両手には青銅製の花を持っている。広く扁平な顔にはっきりした目鼻立ち、まっすぐ伸びた胴体もどっしりしていて、遠くからでもすぐにわかるほど造形的印象が強烈だ。巨大さと花こう岩の胴体の量感が際立っている高麗初期仏像の代表作の一つに選ばれる。写実的様式に基づいて、調和と理想美を追求した統一新羅の仏像とは克明な対照をなす恩津弥勒像は、高麗初期に地方各地に造成された仏像特有の奇怪な美感が漂う作品でもある。文化財庁側は「統一新羅彫刻とは全く異なるおおらかな美的感覚を持つ仏像で、国宝に昇格する独創的価値が充分にある」と明らかにした。国宝への昇格は、1963年に宝物に指定されてから55年ぶりになされた。石仏を新たに再評価する契機になると見られる。文化財庁は30日間の予告期間中に各界の意見を取りまとめ、国宝指定を確定する予定だ。

 
 後方から眺めた「恩津弥勒」像と潅燭寺伽藍全景。伽藍の向こう側に論山の平野が見える=文化財庁提供//ハンギョレ新聞社

 弥勒とは、仏教で釈迦牟尼が涅槃に入った後、56億7000万年が過ぎた未来に出現するという仏だ。この地では昔から塗炭の苦しみに落ちた民衆を救援する信仰対象として広く信奉され、統一新羅時代から朝鮮時代まで随所に弥勒仏像が多様な形式で作られた。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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光州広域市にあるオルタナティブ大学「市民自由大学」は今月から11月まで、韓日関係の専門家11人を招いて「ノウジャパン(KNOW JAPAN)」講座を開く。

2019-09-11 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

「日本の歴史、文化、思想の深層探求」韓日関係専門家講座を開催

登録:2019-09-10 07:31 修正:2019-09-10 09:12

光州市民自由大学9~11月 講座全10回
韓日軋轢の根本原因探る場
映画・哲学講義、美術館プログラムも

 
          光州広域市光山区長徳洞の近代韓屋にある光州市民自由大学//ハンギョレ新聞社

 安倍政権が北東アジアの平和を脅かしている現在、韓日関係を歴史・経済・文化思想の面から深く考察する韓日関係専門家講座が開かれる。

 光州広域市にあるオルタナティブ大学「市民自由大学」は今月から11月まで、韓日関係の専門家11人を招いて「ノウジャパン(KNOW JAPAN)」講座を開く。今回の講座は、日本の輸出規制に刺激された韓日の対立以降、「ノージャパン」を叫ぶ声が高い中で企画され、注目を集めている。市民自由大学のチョ・ユンホ学長は、「韓日歴史対立や帝国日本の成立の背景だけでなく、戦後の歴史認識など、今日の日本を支えている歴史、文化思想の深層を探求するために設けられた講座」と語った。

 建国大学のチェ・ベグン教授(経済学科)は、国際的な経済分業という状況における日本の経済報復の性格を規定して展望を語る。延世大学のキム・ハン教授(文化人類学科)は、明治維新以後の日本帝国主義形成の過程と推移を扱う。ソウル大学日本研究所のナム・ギジョン教授は、朝鮮半島の紛争と平和状況に対する日本の再武装論、普通の国家論、平和主義などを扱う。漢陽大学のパク・ギュテ教授(日本言語文化学科)は『菊と刀』を読み、日本の文化コードを読み解く。

 パク・スチョル教授(ソウル大学東洋史学科)、キム・ソンウン教授(全南大学日語日文学科)、ハ・ジョンムン教授(韓信大学日本学科)、キム・ジョンヒ弁護士(法務法人チウム)、イ・ヨンジン研究教授(西江大学トランスナショナル人文学研究所)など、国内の専門家の講義が並ぶ。 11月23日の第10講義では、チョ・ユンホ教授とパク・クヨン教授・市民自由大学理事長の司会で市民参加の総合討論を行う。

 一方、市民自由大学は秋学期の正規講座(9~11月)を17日から開始する。「事件と映画:歴史を見る映画の視線」(イ・サンフン全南大学講義教授)は毎週火曜日、光州科学技術院(GIST)小劇場で行われる。「中世哲学の顔たち:地中海中世哲学再考」(ユ・デチル・オッカム研究所所長)は水曜日に全南大学人文大学1号館(106号)で開かれる。「ドゥルーズが作った哲学史」(チョン・スンベク全南大学学術研究教授)は毎週木曜日に全南大学人文大学1号館(313号)で行われる。光州地域の美術館やギャラリーなどを訪れる講座「フォール・イン・アート」も毎週土曜日の午後に行われる。受講申し込みは市民自由大学ダウムカフェ(cafe.daum.net/volkshochschule)で可能。教職員は研修として申請することができる。(062)961-1110.

チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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植民地近代化論は、社会的イシューになるたびに世論の袋叩きにされたが、忘れた頃には必ず飛び出してくるようだ。

2019-09-02 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

「植民地近代化論」は“不都合な真実”でなく“不都合な虚構”だ

登録:2019-09-01 21:22

特別寄稿/『反日種族主義』に反論する(1)植民地近代化論 
 
日帝強制占領期間に所得不平等が深化 
開発利益は日本人に集中し 
朝鮮人は依然として飢えていたし 
解放後も永く貧困に苦しんだ

イ・ヨンフン元ソウル大教授らが書いた『反日種族主義』が論議を呼んでいる。この本は、10万部近く売れベストセラー1位に上がった。「日帝は朝鮮を収奪しなかった」「強制徴用はなかった」 「日本軍“慰安婦”らは性的奴隷ではなかった」などの極端主張が流布され、政府高位公務員が「親日することが愛国」と言うまでに達した。この本で最も問題となる植民地近代化論、強制動員、「慰安婦」問題に関し、各分野の専門家の寄稿を3回にわたり載せる。

 
                  ホ・スヨル忠南大経済学科名誉教授//ハンギョレ新聞社

 2005年4月、日本の極右新聞と呼ばれる産経新聞の姉妹誌「正論」という雑誌に、ハン・スンジョ元高麗大教授(政治学)が「親日行為がすなわち反民族行為か?」という寄稿を載せ、韓国が沸きかえったことがある。当時制定された「日帝強制占領下親日反民族行為真相究明に関する特別法」がこうした寄稿文を書いた直接的契機であった。一部の新聞では「日本の植民支配は祝福」という刺激的なタイトルで報道したことにより、ハン教授は世論の厳しい叱責を受けた。彼の主張の中には、植民地近代化論の特徴がそっくり含まれていた。そこでイ・ヨンホ仁荷大教授(史学科)は、これを「植民地近代化論のカミングアウト」と述べた。

 植民地近代化論は、社会的イシューになるたびに世論の袋叩きにされたが、忘れた頃には必ず飛び出してくるようだ。植民地近代化論を主張する学者が書いた『反日種族主義』もまた同じだ。この本を読んで、洪準杓(ホン・ジュンピョ)前自由韓国党代表は「保守右派の基本的考えにも外れる内容」と述べたし、チャン・ジェウォン自由韓国党議員は「本を読む間、激しい頭痛を感じた」と話した。それほどこの本は保守・進歩を問わず大多数の韓国国民の普遍的常識とはかけ離れている。

 
日本植民地時期に朝鮮の少年たちが作ったかますを売る市場の様子。学校では貧しい子どもたちにかますを作らせ学費の足しにする児童強制労働をさせた。朝鮮総督府は、米を収奪するためにかます作成を細かく計画し管理した=ソウル特別市史編纂委員会『写真で見るソウル2』//ハンギョレ新聞社

 それにもかかわらず、植民地近代化論者などは臆するところがない。たとえそれが“不都合な真実”かもしれないが“客観的事実”であるためだということだ。それで、学者的良心からそのように言うほかはないということだ。ハン・スンジョ教授は、韓国の代表的政治学者のひとりであったし、『反日種族主義』の著者も高い学問的水準を持っている学者だ。彼ら自分たちの主張を裏付ける論拠を持って主張するだろう、感傷的に主張しているのではない。

 植民地近代化論という用語は、国史学界が覆いかぶせたフレームのようなものだと言い、植民地近代化論者本人たちは別にありがたがっていないようだ。それでこの用語を使うことには慎重である必要があるが、本人が自分たちの学問思潮に対して別に何か規定しているわけでもないので便宜上その用語をそのまま使うことにする。

 植民地近代化論というのは、だれか一人の見解ではなく、多様な研究者の集合された考えだ。研究者の専攻も経済学だけでなく、歴史学、政治学、社会学などとても多様で、研究対象の時期も朝鮮末期から現在に至るまで多様だ。それで、共通分母を探すことは容易でなく、ややもすれば一般化の誤りを犯しかねないが、時期別に植民地近代化論の核心的主張を要約してみれば次のとおりだ。

(1)朝鮮末期社会が生産力の崩壊とともに自滅するほかはない危機に置かれていた。

(2)日帝強制占領期間、日本から近代的な色々な制度が導入され、先進的な資本が大挙投入されることによって朝鮮が急速に開発され、その結果朝鮮人の生活水準も向上した。

(3)このような植民地的開発の経験と遺産が、解放後の韓国経済の高度成長の歴史的背景になった。

鉄道・道路拡充で耕地・生産性拡大
植民地近代化の根拠提示するが
所得分配は独占・不平等の拡大再生産

 日帝強制占領期間の資料を覗いて見れば、その当時植民地朝鮮で注目すべき開発が行われたことを簡単に識別できる。近代的な日本の法が朝鮮に適用された。市場制度が発展した。鉄道・道路・通信・港湾などの社会基盤施設が拡充された。先進的技術を持っている日本の資本が大挙投入されて、工場と鉱山が建設された。河川が改修された。農地改良と農業改良によって耕地面積が拡大し、農業生産性も上がった。都市計画と上下水道施設が普及した。こうした証拠はこの他にも逐一数え上げられないほど溢れている。

 不都合な真実はここから生じる。「こうした近代的な色々な変化が、植民地朝鮮を開発させたことで、その開発のおかげで朝鮮人も少しは豊かに暮らせたのではないだろうか」という気がしてもおかしくない。「日本人たちが開発の利益の多くの部分を持っていったと言っても、朝鮮人にも餅が少しは落ちただろうし、それで朝鮮人も多少は豊かに暮らせたのではないか」と考えることもできるということだ。

 ところで、朝鮮が開発されたということと、それが朝鮮人にとっても利益になったという論理展開の中には論理の飛躍という陥穽がある。朝鮮という地域の開発と、朝鮮人の開発を区別できない飛躍だ。日本人たちは猛烈な速度で朝鮮の土地を掌握して行き、鉱工業資産は90%以上が日本人たちの所有であった。少数の日本人が土地や資本のような生産手段を集中的に所有したので、所得分配が民族別に不公平にならざるをえなかった。こうした不公平な所得分配構造は、日本人たちにより多くの生産手段を所有できるようにし、それが所得不平等を拡大させた。こうした民族別不平等の拡大再生産過程が、植民地時代に朝鮮で広がっていた開発の本来の姿だった。

 不公平な開発は民族差別を拡大させた。朝鮮の開発は日本の、日本人による、日本人のための開発であったため、本来この地の主人だった朝鮮人はそうした開発の局外者に過ぎなかった。歳月が流れますます民族別生産手段の不平等が拡大して、経済的不平等が拡大するいわゆる「植民地的経済構造」に閉じ込められることになった。したがって、植民地体制が清算されない限り、朝鮮人は植民地的経済構造から抜け出すことができず、未来に対する希望も持てなくなった。解放がまさにこの植民地的経済構造から脱皮できる唯一の道だった。まさにそうした点で、民族独立運動が何よりも重要で大切だった。筆者が以前に書いた本に『開発なき開発』という一見形容矛盾したタイトルを付けた理由もそこにあった。

 筆者の話が反日種族主義のドグマを抜け出せなかった極端主張と聞こえるだろうか? 筆者は永く植民地近代化論が得意とするその実証により植民地近代化論を批判する論争を無数に行ってきた。紙面の制約のために、ここでその多くの実証を具体的に扱うことはできない。多くの実証的論争の中で、最も重要で簡単に説明できる一つの指標を挙げて植民地近代化論の主張が事実でないことを証明してみることにする。

「強制占領期間、朝鮮人の背が高くなった」という主張
過去100年余り、食品需給表統計には
1918~1945年栄養供給量減少傾向
所得が増加したという命題は成立しない

 植民地近代化論は、「日帝強制占領期間に朝鮮で行われた開発の結果、朝鮮人の生活の質も高まった」と主張する。「日帝強制占領期間に朝鮮人の背が高くなった」という主張もここから派生したものだ。植民地近代化論の最も核心的な主張の一つだ。『反日種族主義』の筆者の1人である落星垈(ナクソンデ)経済研究所のチュ・イクジョン研究委員の研究によれば、日帝強制占領期間に朝鮮人1人当り国内総生産(GDP)が60%以上増加し、1人当りの消費も大きく増加したという。日帝強制占領期間に朝鮮人の生活水準が向上したという主張だが、これは落星垈経済研究所が出した「韓国の経済成長1910~1945」という研究結果を土台にしている。果たしてこうした主張は妥当だろうか?

 忠南大のユク・ソヨン博士は、1910~2013年の食品需給表を利用して、朝鮮(韓国)の1人1日当たりの栄養供給量の変化を分析した。韓国農村経済研究院は、食品需給表を1962年以来現在まで毎年公表している。ユク博士は、食品需給表が存在しない1910~1962年に対する食品需給表を追加して、その時系列を1910年までさかのぼった。この食品需給表から、1人1日当たりのエネルギー、蛋白質、脂肪質、無機質(Ca,Fe)、ビタミン(A,B1,B2,Niacin,C)などの栄養供給量が分かる。エネルギー、蛋白質、脂肪質など主な栄養供給量を中心に、その分析結果を整理してみれば次のグラフになる。

1人1日当たりの栄養供給量(資料:ユク・ソヨン「食品受給表分析による20世紀韓国の生活水準に関する研究」,2017)点線=タンパク質 細線=脂肪質 太線=カロリー//ハンギョレ新聞社

 グラフからわかるように、1918年までは栄養供給量が増加したが、その後1945年までは減少傾向を見せ、解放後に反転して明確な増加傾向を見せている。1990年代中盤以後のエネルギー供給量と蛋白質供給量がほとんど停滞しているのは、この時期になればダイエットが主な関心事になるほど栄養供給がすでに飽和状態に到達したことを意味する。

 日帝強制占領期間に朝鮮人の所得は非常に低い状態だった。この期間に朝鮮人の所得が増加したと仮定してみよう。低い所得のために食べ物をまともに食べられなかった時期、すなわち常に空腹だったそのような時期には、所得が増加すれば当然何より先に食べ物を求めるので、食物消費量は増えるだろう。栄養供給量が増加しなければならないという話だ。ところが、グラフを見れば日帝強制占領期間に栄養供給量は減少していたので、朝鮮人の所得が増加したという命題は成立しえない。

 一般的に人々の身長は長い場合で二十歳まで高くなり、その後は成長を止める。身長と成長期の栄養供給量の間には強い相関関係があるという。成長期によく食べれば、そうできなかった場合に比べて平均身長が高くなる。日帝強制占領期間に栄養供給量が減少したということは、平均身長が高くなったと主張するすべての研究が事実でない可能性が高いことを強く示唆する。

 留意すべき点は、1918年までの増加傾向だ。筆者は、この増加が朝鮮が日本の植民地になった直後の初期統計が持つ問題点のためであり、現実ではないと主張してきた。同時に、この期間の経済成長をめぐって植民地近代化論とすでに多くの論争を繰り広げてきた。結論的に言えば、1910~1918年の間にも栄養供給量は減少または停滞したと見てこそ正しいというのが筆者の考えだ。筆者の主張が信じられないならば、争点となる期間を論外にするなり、それをそのまま受け入れて見ても結論には大差ない。

 ある国の生活条件を、物質的な消費だけで説明することはできない。例えば、ブータンのような国は所得水準はそれほど高くないものの、幸福指数は非常に高いという。しかし、貧しくて食事さえままならない状況で幸福を云々することはできないではないか?そうした点で、日帝強制占領期間に朝鮮人の生活の質が良くなったとか、生活水準が向上したなどという主張には説得力がない。

 広く知られているように、解放後の韓国は所得水準が非常に低い国の一つであった。解放後、長期にわたり春窮(春の端境期)という言葉がなくならなかった程にいつも飢えに苦しめられた国だった。遠い昔の話のようだが、筆者自身が経験したことだった。日帝強制占領期間にそれほど多くの開発が行われたならば、解放後の韓国がそれほど貧しくなかっただろう。こうした経験は、上のグラフとも整合する。これがファクトではないのか?植民地近代化論の“不都合な真実”は“不都合な虚構”に過ぎない。

ホ・スヨル忠南大経済学科名誉教授

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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独立運動は、激しく続き1919年3月1日に中国上海で大韓民国臨時政府が樹立され独立運動が続けられたのです。このことが韓国民が「併合」を認めなかった何よりの証拠です。

2019-08-29 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

第2の「起」、事の起こりは、

大日本帝国と大韓帝国の「併合」です。

         併合が間違いなので私は併合に鍵かっこを付けて「併合」としています。

           本文とカットは無関係です。

「併合」に関する論争の到達点は、1910年の日韓「併合」は間違いで無効だということです。1965年の日韓基本条約第2条「もはや無効」という玉虫色の条文の文言に関して意見が違っても「すでに無効」なのだということは全員が一致しています。

 私は1910年の締結そのものが無効だと思っています。その理由は、当時の併合条約の論拠になっている「万国公法」(当時の列強国だけの申し合わせで、法の解説書です。)にも違反しているからです。

 万国公法では①軍隊を動員して占領、侵略支配することは認められていない。②どの国も対等平等で条約を結んで外交をおこなう。と説明されていますが、

大日本帝国は、大韓帝国に対して、数々の不平等条約を押し付け、軍隊を動員して占領、侵略し、かいらい政府をつくって条約を結ばせ、「併合」するよう策動しました。万国公法を支持する列強を納得させるため「条約」という体裁をとりましたが、条約そのものが自作自演で、不法占領を示す証拠として歴史に残す結果となりました。

具体的に日本が押し付けた、第二次日韓協約は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国大韓帝国が締結した協約で、これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となりました。日韓保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で、乙巳条約乙巳五条約乙巳保護条約とも言われています。締結当時の正式名称は日韓交渉条約でした がその時行われた「条約」の締結とその条約文・条約手続き・公表の不備、韓国内の法律違反、王印がない等のもので「条例そのものが無効」であり、私は「併合は無効」であるとおもっています。

ところが、日本政府や右寄りマスコミは、1910年の日韓「併合」は「条約」を結んだから合法的に併合が行われたと言い張っているのです。韓国内の侵略行為が韓国の発展に寄与したとまで言いはり、御用学者を動員してその正当性を繕っています。しかし、韓国内の独立闘争がすべて弾圧された中でも独立運動は、激しく続き1919年3月1日に中国上海で大韓民国臨時政府が樹立され独立運動が続けられたのです。このことが韓国民が「併合」を認めなかった何よりの証拠です。

それでも、日本政府などは1910年から1945年までは有効だったと言っています。その間の蛮行の数々や皇民化政策から徴用・徴兵などは有効だったと主張し公式謝罪や補償も拒否しています。これが右寄り学者の論拠になっているのです。

併合から始まった韓国支配は、現在の国際法に照らせば「併合」を含めて無効であり韓国最高裁判所の判決は正当なものです。それが現在の国際的法解釈の流れです。

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その時の韓国とベトナムの関係は、今の韓日関係とは異なる姿になれるだろうか?未来を予断することはできない。

2019-08-28 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

[インタビュー]

「ベトナム戦争虐殺の痛みを治癒して『平和の種』育てよう」

登録:2019-08-28 08:28 修正:2019-08-28 11:59

 
今月11日、ベトナムのクアンガイ市で開かれた「済州・ベトナム 詩の朗唱の夜」で、済州作家会議のイ・ジョンヒョン氏(最前列左端)、ベトナムのタン・タオ氏(最前列中央)などの参加者が同席した=済州作家会議提供//ハンギョレ新聞社

 「私の友達」。ベトナム最高の詩人として評価を受けるタン・タオ氏(73)は、今月11日、イ・ジョンヒョン済州作家会議会長(64)をこのように呼んだ。夕方、ベトナム中部のクアンガイ市で開かれた「済州・クアンガイ 詩の朗唱の夜」でのことだった。1979年、詩集「草原を渡る足跡」でベトナム作家会議の「最高文学者賞」を受賞したタン・タオ氏が、去年、詩集「花より先に訪れた名前」で「5・18文学賞」を受賞したイ氏を呼ぶのに適切な呼称である。

 しかし「友達」という言葉には、二人の詩人の間の個人的友情を飛び越える何かがある。まさに1960年代後半のベトナム戦争時、韓国軍による民間人虐殺を経験したベトナムと戦闘兵を送った韓国が、その痛みを飛び越えて「友達」になろうという望みが込められた言葉でもある。

2008年にソウルに来たベトナム詩人の証言
「韓国軍民間人虐殺の『憎悪の碑』がある」
すぐにクアンガイ省を訪問し、現場検証
従軍記者出身の詩人タン・タオ氏らと出会い
8回に渡り「済州・クアンガイ 詩の朗唱の夜」
「二人の詩人の友情のように、閉じた心が開くことを」

 「韓国軍によるベトナム民間人虐殺」問題は、韓国社会では相変わらずタブーに近い。1999年「ハンギョレ21」の通信員だったク・スジョン「韓ベ平和財団」常任理事の勇気ある報道によって知られ始めたが、相変わらず韓国政府レベルでの実態調査さえ行われていない。その被害規模について、ク常任理事が現地調査を通じて「ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺が約80の村で起こり、9千余名が犠牲になった」と推定する程度である。

 その後、ク常任理事などを中心に「ベトナム平和紀行」を進行し、民間レベルの謝罪と和解の動きが続けられてきた。平和紀行団は、ベトナム中部の虐殺現場を訪ねて慰霊祭を行い、虐殺被害の村の子どもたちに奨学金を与えている。しかし、まだ韓国軍によるベトナム民間人虐殺問題は、韓国社会で全面化することができない。

 イ氏はこのような状況で、2008年から両国の文学者の交流を通じて、この問題と関連した和解の糸口を作っていこうと提案した。きっかけは2008年夏、ソウル国際文学行事に参加したベトナムの詩人チム・チャン氏(1938〜2011)との出会いだった。

 
左からク・スジョン韓ベ平和財団常任理事、タン・タオ氏、イ・ジョンヒョン会長=済州作家会議提供//ハンギョレ新聞社

 「当時、済州島に来たチム・チャン氏を通じて、ベトナムのクアンガイ省に韓国軍虐殺に関連した『憎悪の碑』があるという事実を確認して、大きな衝撃を受けました」

 イ氏は同僚で詩人のキム・スヨル氏などと共に、直ちにその年の12月にベトナムを訪問し、チム・チャン氏の紹介でクアンガイ省が故郷である詩人タン・タオ氏と初めて出会った。ベトナム戦争に従軍記者として参戦したタン・タオ氏は、1975年にベトナムが統一された後、故郷のクアンガイ省でずっと作品活動を行っていた。

 その出会いをきっかけに、イ氏とタン・タオ氏を中心に、済州とクアンガイの文学交流が始まった。計15人の韓国作家会議所属の詩人と5人のクアンガイ作家会議の詩人が参加した今回の「済州・クアンガイ 詩の朗唱の夜」は8回目の行事だ。

 これまでの交流を通じてタン・タオ氏は「済州鎮魂の儀式のムーダン」など、済州4・3事件の痛みを抱く詩を作り、イ氏はベトナム虐殺を素材に「目と手」「カイ カイ カイ」などの詩を出した。2015年には「昼にも夢を見る者がいる」というタイトルの済州・クアンガイ共同詩集も発行した。

 済州の詩人たちはベトナムを訪問する度に、さまざまな交流プログラムと共に、クアンガイ省ビンホア村、クアンナム省フォンニィ・フォンニャット村などの虐殺現場を訪問して、犠牲者に対する追悼行事も一緒に進行している。去年初めに済州作家会議の会長に就任した詩人のイ氏はそれまで、済州作家会議事務局長、済州文学の家事務局長としてこの交流事業を主導してきた。

 このような努力が果たして韓国人とベトナム人を「友人」にすることができるだろうか?イ氏は「できる」と答える。実際、文学は長期間隠されてきた偽りを明らかにし、痛みを治癒する役目を果たしてきた。権力が頑なに隠そうとした済州4・3虐殺までもが、1978年に作家の玄基栄(ヒョン・キヨン)氏が季刊 「創作と批評」に中篇小説『順伊おばさん』を発表して、初めて韓国社会にその姿を明らかにした。

 イ氏は、済州とクアンガイの詩人の努力も「和解と平和の種」になることができるはずだと考える。イ氏はまず「両国の文学者交流を通じて、韓国人とベトナム人が戦争の時に起きた悲劇について、よりいっそう真剣な見解を持つようになるだろう」と見通した。ベトナム戦争の虐殺が、孤立した一つの地域の問題ではなく、20世紀的野蛮が引き起こした全世界的問題だという点を喚起させ、成熟した市民意識を造成することができるということである。イ氏は「さらに、詩に昇華させた虐殺の痛みは、加害と被害を超え、お互いを治癒して閉ざされていた心を開く触媒になりうる」と見る。

 現在、韓国と日本は過去の問題で経済戦争を行っている。もちろん、韓国とベトナムの状況とは異なる。何よりベトナムは「過去を閉じて未来に出よう」というスローガンの下で経済発展に重点を置いている。しかし、ベトナムも、いつか近い未来に経済成長が軌道に乗った時、過去の門をまた開こうとするだろう。イ氏の言葉通り「傷が治癒されていない状態では、過去の門は、政権が閉ざそうとしても閉ざせるものではないから」である。

 その時の韓国とベトナムの関係は、今の韓日関係とは異なる姿になれるだろうか?未来を予断することはできない。ただし確かなのは、両国の詩人が一緒に植えている「友達の心」を込めた平和の種が、今も育っているという事実だ。

クアンガイ(ベトナム)/キム・ボグン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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「韓国の大衆が日本社会と日本政府を区別し、『NOジャパン』ではなく『NO安倍』のスローガンを叫ぶことに意味があるように思います。

2019-08-22 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

光化門の反・安倍集会に行った日本の大学生

「日本の報道と違い驚いた」

8/21(水) 16:06配信

中央日報日本語版

「韓国の大衆が日本社会と日本政府を区別し、『NOジャパン』ではなく『NO安倍』のスローガンを叫ぶことに意味があるように思います。日本が1つの巨大な塊ではなく、多様な集団からなる社会という認識が韓国に生じたことが小さな成果だと思います。両国の関係の変化と成熟の始まりではないかと思います」

20日午前、冠岳(クァナク)区ソウル大学国際大学院の建物に日本の若者20人が訪れた。津田塾大学で国際関係学を専攻し、特に韓半島(朝鮮半島)や東アジア地域に関心を持っている学生達だ。彼らはソウル日本研究所のジュニアフェロープログラムに参加した韓国の大学生10人余りと一緒に韓国の「NO安倍」集会からK-POPが好きな日本の若者の文化などについて話した。

ある日本人学生は「私は日本人だが、むしろ韓国に来てから『オタク文化』についてよく知るようになった」とし「韓国人のオタク文化を通じて日本を見ているという事実が新しい。この文化が韓日関係の新たな可能性になれると思う」と話した。続けて「もちろん日本でもK-POPは良いが韓国は嫌いだと言う人がいるが、韓国文化を通じて韓国全般に対する関心が高まったのは事実だ」と伝えた。

「日本のアニメなど、全体的な日本文化に関心が高い」と明かしたKさん(21、ソウル大学生命科学3年生)は「オタクの間でも不買運動をする人もいるし、しない人もいる。オタクだからといって、このようなことに敏感に反応するわけではない」と説明した。オタクが日本文化により頻繁に接するため不買運動などで受ける影響も大きいという視線に疑問を提起した。

「旭日旗」をめぐる議論についても話を交した。旭日旗は第2次世界大戦の時に日本がアジア各国を侵略しながら前面に掲げた旗で、日本軍国主義と帝国主義を象徴する戦犯旗として知られている。過去に有名芸能人が旭日旗が印刷された服を着て大衆の激しい批判に直面したこともある。ある日本の学生は「韓国が旭日旗を日本の右翼の象徴だと理解することに驚いた。ところが、実際は日本では旭日旗を見て必ずしも戦争を思い出すわけではない。日本はこのようなことに鈍感なようだ。このような面から雰囲気の違いを感じた」と話した。
ソウル大学の学生Cさんは「『Yahoo!JAPAN』に表出する意見が日本全体の意見ではないことが分かった」と話した。


                  写真は、記事とは関係ありません。


今回の踏査の公式日程は19日から始まったが、一部の学生は先週末に先に韓国に来て反日集会などに参加した。彼らは光化門(クァンファムン)で開かれる「NO安倍」集会に参加し、西大門(ソデムン)刑務所、平和の少女像などを見学した。集会及びデモ文化との距離が遠い日本の学生達は、光化門で行われる多くの団体の集会を珍しがった。

Tさん(20)は「韓国人は確かに日本人と日本政府を区別しているようだった」と語った。Tさんは「日本の人という事実が露呈しても反日デモではまったく攻撃的な感じを受けなかった。デモ隊が安倍政府に対する不満と日本人に対する感情を区別していたからだ」と説明した。続けて「少女像の前に行った時に日本人であることを知って、むしろ親切に写真まで撮ってくれる韓国人がいた」とし「日本のメディアが伝える『反日デモ』の雰囲気と違って、むしろ違和感を感じた」と伝えた。

学生を引率した津田塾大学国際関係学科の朴正鎮(パク・ジョンジン)教授は「現在の韓国の状況を見せてあげることも勉強だと思い、特別に韓国踏査を企画した」とし「ここに来た学生は1990年代に韓日交流を始めた頃に生まれたが、そのような意味から日本の以前の世代とは異なる視点を持っている」と紹介した。

彼らは21日に板門店(パンムンジョム)を訪問する。

 
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第二次世界大戦のよく似た敗戦国でありながら、周辺国に対する態度に変わりがないドイツと比べると、日本の姿勢はますます理解されない。

2019-08-19 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

[寄稿]日本はなぜ韓国を「取り戻すべき故郷」と言うのか

登録:2019-08-18 21:30 修正:2019-08-19 08:47
 
日本民族の北方起源説

日本は自分たちの隣国を時には辺境と見なし、時には起源の地と見なして、自分たちの侵略を合理化した。最近になっても現れる近隣諸国を必要以上に蔑視する発言の背景には、自分の数千年に及ぶ隣国を植民地にしてしまった日本帝国主義の歴史がある。このような日本の自己矛盾的歴史観が、今なお近隣諸国を意図的に無視する態度として現れているのである。

 日本が韓国に対して他国と異なり行ったことは、昨日今日の事ではない。第二次世界大戦のよく似た敗戦国でありながら、周辺国に対する態度に変わりがないドイツと比べると、日本の姿勢はますます理解されない。日本は米国と西欧国家には過度なまでに低姿勢で、被害の当事者である韓国と中国には極度の反感と嫌悪感を示す。

 こうした日本の矛盾的な態度の裏には、19世紀末から始まった日本の東アジア侵略と文化財侵奪事業があった。日本は、自分たちを大陸から下った天孫民族と自任してきた。韓国を植民地にしたことは、すなわち自分たちの「故郷」を植民地にしたつもりだった。日本は、韓国を越えて満州を経て中国を侵略し、日本民族の北方起源説でこれを正当化してきた。日本は朝鮮半島を自分たちの故郷であり、同時に劣等な植民地統治の対象と見た。過去100年余りに及ぶ日本人の歪曲された韓国観は、こうした自己矛盾的歴史観の産物である。

ドルメンに埋まった日本の「インディ・ジョーンズ」

 映画「インディ・ジョーンズ」の背景である20世紀序盤は、帝国主義が競い合って世界各国の文化財を略奪した時期だった。明治維新以後、西欧の文物を受け入れた日本も、そのような帝国主義考古学に積極的に関与した。日本は韓国を正式に侵奪するはるか前の1899年から、韓国の文化財を調査し始めた。元々、日本の朝鮮半島調査の目的は、日本人の起源を探すためのものだった。当時活動した代表的な学者が、東京大学人類学教室の鳥居龍蔵(1870〜1953)だ。日本の中でも田舎だった四国の徳島県出身である彼は、正規の学校にまともに通った時期がないにもかかわらず、東京大学人類学教室の教授になった立志伝的人物である。彼の成功の秘訣は、まさに日本軍国主義に積極的に応じたことであった。19世紀末から彼は、日清戦争の戦地だった遼東半島を皮切りに、台湾、沖縄、さらにはシベリアまで、四方に無慈悲に進出した日本軍について回った。鳥居は各地域の原住民を調査して、劣等な集団と優越な集団を区分し、その中から大陸から渡って来た日本人の起源を探そうとした。日本が島を抜け出して大陸各地を占領したことに国民的な興奮が高まった時期だったため、彼の資料は大きく注目された。鳥居は日本が韓国を植民地にするやいなや、1910年に朝鮮総督府の斎藤総督に会い、韓国に日本民族の起源を探す調査を助けてくれるよう説得した。彼の6年にわたる朝鮮半島調査がこのようにして始まった。

 彼が韓国で注目したものは、咸鏡道地域の石器と朝鮮半島全域に分布したドルメン(支石墓)だった。咸鏡道の石器に関心を持ったのは、当時韓国で暮らしていた「未開な」土着韓国人を探すためだった。一方、ドルメンに注目した理由は、未開な土着韓国人の中に住んだ「偉大な」日本人の先祖を見つけることを期待したからである。鳥居は、イギリスのストーンヘンジに類似したドルメンを作った人々は、未開な土着の韓国人ではないと考えた。朝鮮半島のドルメンが、日本の九州一帯でも発見されたため、ドルメンを追跡すれば偉大な日本人のルーツを見つけられると考えた。

 
日本軍憲兵とともに遼東半島の遺跡を調査する鳥居龍蔵(右側)=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社
 
 
朝鮮総督府の要請で韓国を調査するために来た鳥居龍蔵(立っている人)とその一行。背後の建物は景福宮=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社

 鳥居の考えには、当時の日本帝国主義の矛盾がよく現れている。元々、西欧では、植民地ははるか遠いアフリカや近東地域で、文明の開化が極めて遅れた地域を占めるのが通常だった。しかし、韓国は日本と歴史を共にした隣国であり、何よりも日本の原住民より優越な日本人の起源と考えた場所だった。そんな朝鮮半島を植民地にした日本では、これをどう歴史的に合理化するかが大きな悩みの種に違いなかった。 結局、鳥居以後に朝鮮総督府は、北朝鮮の楽浪郡と韓国の任那日本府を強調することで、本来韓国人は未開で、彼らの間を日本民族の起源となった者が通ったという形の強引な解釈をした。今、嫌韓勢力が韓国を馬鹿にし蔑視する論理は、すでにこの時から始まっていたと言っても過言ではない。

 学者としての鳥居に対する評価に先立ち、私たちが記憶しなければならない点は、彼が日本軍国主義の信奉者だったという事実である。1920年代、ロシア革命の混乱に乗じて日本軍がシベリアを侵略した時、鳥居は「シベリア出兵は人類学、人種学、および考古学に対する貴重な貢献だ!」と言って感激するほどだった。しかし、日本軍国主義の敗亡とともに、鳥居は帝国主義の御用人類学者の烙印を押され、ひっそりと人生を終えた。大陸の夢を忘れようとしなかった彼は、故郷の徳島に北方式ドルメン形態の墓を作って自分を埋葬してほしいとの遺言を残した。

 
日本帝国主義考古学の鳥居龍蔵は、日本民族の起源が北方にあるという自分の理論に従い、彼の故郷の徳島に北方式ドルメン形態で作られた墓に埋葬された=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社

 しばらくの間タブー視された彼の名前は、1980年代以後に日本の影響力が拡がり復活した。彼の名前が四方で言及され、さらに「鳥居学」と彼の研究を神格化して従う研究者が増えている。韓国国内にも鳥居の資料を貴重な資料として分析しようとする試みがある。もちろん、彼が残した写真やその他のさまざまな資料の学術的な意味を無視することはできない。しかし、資料に対する評価以前に、隣国を「未開人」、「辺境」と罵倒し、帝国主義的侵略に積極的に加担したことに対する厳重な評価は必要である。事実、日本帝国主義に加担した学者は、鳥居の他にも大勢いた。今も私たちの周辺には、学者的力量や資料の価値を無視することはできないということで、彼らを合理化しようとする動きがある。しかし、植民地時代、韓国と満洲で活動したすべての日本の御用学者たちは、例外なく価値中立を掲げていたことを忘れてはならない。

日本の朝鮮半島認識の根源

 日帝は1920年代から朝鮮半島を越えて満州と中国一帯に勢力を拡大し始めた。それにより日本帝国主義の考古学者たちが朝鮮半島を眺める観点も変化した。すなわち金石併用期と北方文化論が登場したのである。

 金石併用期という用語は、元々欧州とユーラシア考古学の用語で、新石器時代と青銅器時代の間に存在した時代をいう。しかし日帝は、この用語を朝鮮半島に取り入れて、韓国人はまともな青銅器や鉄器を使うことができなかった劣等な人種という意味に誤解して使った。早い話が、櫛目文土器に代表される新石器文化に留まった土着の韓国人集団と、無文土器の青銅器文化で先行していた日本民族が混じって住んでいたということである。こうした金石併用期説によると、朝鮮半島の発達したすべての遺物は、北は中国の植民地である楽浪、南では日本の植民地である任那日本府の影響が及んでから初めて現れたことになる。日帝の考古学者らも、すでに櫛目文土器と無文土器がそれぞれ異なる時代だということは十分にわかっていた。日本国内でも、新石器時代である縄文時代と朝鮮半島から渡った渡来人が作り出した弥生文化が、それぞれ時期を異にして存在したことを知っていたからである。しかし、日帝が組んだ金石併用期というフレームは、解放以後も約30年間持続し、韓国文化の自主的発展を否定する他律性とアイデンティティ論の基盤になった。

 
20世紀初め、日本人が日本の原住民である「コロボックル」を想像して描いた絵。日本人は自分たちを天孫民族と強調するために、原住民を未開な姿で描いた=カン・イヌク氏提供//ハンギョレ新聞社

 また、別の日本帝国主義考古学者の観点である北方文化論は、日本人の起源を朝鮮半島を越えて北方満州と見る理論である。このような日本人の態勢転換は、1920年代から露骨化された満州と中国の侵略に関連がある。自分たちが侵略しなければならない土地は、元々は日本人の起源の地だから、侵略ではなく故郷の回復であるという強引な論理だった。この説は、北方ユーラシアの優越な騎馬民族が馬に乗って日本列島へ下り、古墳時代の主人公になったという騎馬民族説に整理することができる。現地人を未開としながら、彼らの間には偉大な日本人の先祖がいるという論理は、朝鮮半島に対する認識と特に違うところがないのである。最近まで韓国でも「北方ユーラシアは元々私たちの領土」だったと根拠が貧弱な主張が流れたが、実はその根は日本軍国主義が主張した侵略論理と一脈相通ずる。

 日本はこのように、自分たちの隣国を時には辺境と見なし、時には起源の地と見なして、自分たちの侵略を合理化した。最近になっても現れる近隣諸国を必要以上に蔑視する発言の背景には、自分の数千年に及ぶ隣国を植民地にしてしまった日本帝国主義の歴史がある。このような日本の自己矛盾的歴史観が、今なお近隣諸国を意図的に無視する態度として現れているのである。

カン・イヌク慶煕大学史学科教授

http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/902476.html韓国語原文入力:2019-07-19 06:00
訳M.S

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『主戦場』は日本の右翼をはじめ韓米日の学者や活動家が互いの主張を反ばくし、また再反ばくする形で進められる“論争的映画”だ。

2019-07-23 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

[インタビュー]『主戦場』の監督

「日本の右翼は米国を通じて世界の認識の変化狙う」

登録:2019-07-23 06:32 修正:2019-07-23 08:27

慰安婦ドキュメンタリー『主戦場』のミキ・デザキ監督 
 
「自分の映画が慰安婦問題における“挑戦的映画”となることを望む」 
韓国人にも不都合だが考えるべき問題投げかける

 
     慰安婦問題を取り上げたドキュメンタリー『主戦場』のミキ・デザキ監督//ハンギョレ新聞社

 「安倍政府は“人権”問題を“韓日両国の対決”にすり替えてきました。韓国に対する日本人の憎悪と敵対感が深まり、支持層が結集する効果を狙っています。しかし、日本人が強制徴用や慰安婦の歴史についてよく知っていたらこのようなことが可能だったのでしょうか。被害者の声を排除すると、人権蹂躙の問題は隠蔽され、国家間の外交問題へと観点が切り替わってしまう誤りが生じます。2015年、朴槿恵(パク・クネ)政権の韓日慰安婦協定がまさにそのような誤りの産物です」

 日本軍慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー『主戦場』(25日に封切り)を制作したミキ・デザキ監督(36)は17日、江南区CGV狎鴎亭(アックジョン)で行った約1時間のインタビュー中、“人権”という言葉を二十回以上使った。最近、安倍政府が韓国最高裁(大法院)の強制徴用賠償判決に対する報復措置と経済制裁を断行したことについても批判し、「慰安婦問題と同一線上にある人権問題」だと強調した。

 日系米国人で、日本で英語教師として働いたこともある彼は、「Racism in Japan 日本では人種差別がありますか?」というユーチューブ動画をアップロードしたことで、日本の右翼の攻撃を受け、その過程で日本軍慰安婦問題を初めて報道した植村隆・元朝日新聞記者に対する同様の攻撃について知った。「日本の右翼はどうしてこんなに慰安婦問題に敏感になるのか?」という疑問の答えを探すため、彼は日本の右翼関係者約30人を直接インタビューして映画に収めた。

 
     慰安婦問題を取り上げたドキュメンタリー『主戦場』のミキ・デザキ監督//ハンギョレ新聞社

 日本の右翼は、彼のインタビュー要請に快く応じたのだろうか。「彼らが主催したシンポジウムに出席し、私が上智大学で勉強する大学院生だと言ってインタビューを要請しました。その後は電子メールのやり取りをしましたが、承諾を得るまで『映像を前もって見せてほしい』という要求をめぐり折衷したことを除いて、特に問題はありませんでした。彼らが問題を提起したのは、映画が公開された後でした」。これに先立ち、今年4月に日本で映画が公開された際、右翼らは上映反対記者会見を開き、訴訟を起こすと脅しをかけた。身の安全が危ぶまれるような状況だった。「ツイッターで私の住所を流出しようとするとか、私が反日だと噂を流し、韓国政府から金を受け取ったという陰謀論を展開して、配給会社に抗議の電話をするくらいでした。露骨な暴力はありませんでした。この映画を通じて社会的な知名度が上がったからかもしれません(笑)」

 『主戦場』は日本の右翼をはじめ韓米日の学者や活動家が互いの主張を反ばくし、また再反ばくする形で進められる“論争的映画”だ。日本人でも、韓国人でもない彼の“特別な立場”は映画の観点に大きな影響を及ぼした。「この問題に対して感情的利害関係がないという点が、適切な距離感を生んだようです。“歴史戦争”で誰が勝っても、私には関係ありません。ただし、慰安婦問題があまりにも広範囲な問題だから、両方の話を十分に聞こうというのが目標でした」

 「互いの主張を聞き、知らなかった新しい事実が分かれば、理解の幅を広げることができるのではないか」という願いを込めて作った映画だが、韓日の間に埋められない隔たりが存在することに気づいたという。「『性奴隷』や『強制動員』について、双方が全く異なる概念として捉えていました。それを裏付ける歴史的証拠についても、異なる解釈をしています。どっちにより説得力があるのか、観客が判断するように映画を構成しました」

 
     慰安婦問題を取り上げたドキュメンタリー『主戦場』のミキ・デザキ監督//ハンギョレ新聞社

 映画は2013年、国外で初めて少女の銅像が設立された米カリフォルニア州グレンデール市の事例を通じて、慰安婦問題の主戦場が米国に拡大されていることを示している。「日本の右翼は、米国の見方を変えれば全世界の見方を変えることができると信じています。また、彼らはすでに歴史戦争で勝利したという自信を持っているため、日本の若い世代が慰安婦に対する英語の情報を探しても(すでに知っている情報と)矛盾しないことを望みます。英語のウェブサイトを作り、米国人の親日ユーチューバーを支援することも、そのためです」

 映画は「20万人と推算する慰安婦の数が不正確だ」と指摘するなど、韓国人にとっても100%穏やかではない内容も取り上げている。監督はこの映画が韓日両方で“問題作”になることを覚悟したという。「私なりには一つの結論に向かっていますが、誰もがそれに同意するわけではないでしょう。私はこの映画が挑戦的な映画になることを望んでいます。そのような点で、韓国人がどのような反応を示すか、とても楽しみです」

ユ・ソンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/movie/902767.html韓国語原文入力:2019-07-22 20:30
訳H.J

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徳川家康が晩年を過ごした駿府城(静岡市)の近くで、戦国時代末期の造成とみられる城下の道と、道沿いに立ち並んだ武家屋敷の石垣の一部の遺構が見つかった。

2019-07-14 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

駿府城下で新たな遺構、

静岡 戦国時代末期の石垣と道

 
駿府城近くで見つかった、戦国時代末期の造成とみられる道と石垣の遺構=8日、静岡市

 徳川家康が晩年を過ごした駿府城(静岡市)の近くで、戦国時代末期の造成とみられる城下の道と、道沿いに立ち並んだ武家屋敷の石垣の一部の遺構が見つかった。静岡市が12日発表した。

 同様の遺構は、戦国時代の城下町の町並みを復元した福井市の一乗谷朝倉氏遺跡の例があるが、専門家は「当時の駿府城下の様子が分かる遺構で、貴重だ」としている。

 駿府城跡では昨年、初めて駿府城を築いた家康が関東に領地替えになった後、豊臣方が別の城を築いたことを示す石垣や金箔で装飾された瓦が見つかったばかり。

 市によると、道は長さ約30mで幅約2・7m、土で固めた表層部分は厚さ約10センチ。


(共同通信)

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世界文化遺産へ「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」、韓国の朝鮮王朝時代の教育機関だった「書院」9カ所も・・・

2019-07-07 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

「陵墓は祈りの場」宮内庁は静観、保存管理に一層努力

7/6(土) 18:18配信

 

写真は産経新聞のものではありません

産経新聞

 世界文化遺産への登録が6日、決まった「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)の構成資産には、世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵古墳」(大山=だいせん=古墳)など宮内庁が管理する陵墓29基が含まれる。今後参拝客の増加が見込まれるが、宮内庁は「世界遺産となっても皇室祭祀(さいし)が行われる『祈りの場』に変わりはない」と強調。「墳丘内部への立ち入りを認めることはなく、保存管理に一層努力する」と静観している。


 陵墓は宮内庁が管理する皇室祖先の墓。皇室典範では天皇と皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を「陵(りょう)」、他の皇族の墓を「墓(ぼ)」と定める。皇族の墓である可能性が高い「陵墓参考地」を含めると計899に上る墓を宮内庁が管理している。

 陵墓は皇室祭祀が行われる聖域として宮内庁が管理してきた結果、戦後の宅地開発から守られてきた経緯がある。

 陵墓には「拝所」が設けられており、一般人も参拝が可能だ。宮内庁には「世界遺産登録がお代替わりと重なり、皇室の歴史に関心が高まる」と肯定的な見方がある一方、陵墓担当者は「現在も毎年被葬者の命日に祭祀が行われている」と説明。静かな環境と尊厳を守ることが宮内庁の役目とし、墳丘内部の立ち入りや一般公開は「墳丘の破壊につながり、今後も認めることはない」と明言する。

 ただ、宮内庁には陵墓の保存管理に「地元自治体との協力は不可欠」とする声もある。昨秋、仁徳天皇陵で初めて、堺市とともに実施した堤での共同発掘調査を念頭に「他の陵墓でも可能な範囲で学術調査に協力していきたい」(宮内庁幹部)としている。

 ■宮内庁の坂井孝行書陵部長の話「(登録決定は)喜ばしい。お墓としての『静安と尊厳』が損なわれないことを前提に、今後とも陵墓を含む世界文化遺産の保全に向けて必要な協力を行いたい」

 

韓国の「書院」9カ所 世界遺産への登録決定

社会・文化 2019.07.06 21:01
 
 

【ソウル聯合ニュース】国連教育科学文化機関(ユネスコ)は6日、アゼルバイジャンで世界遺産委員会を開き、韓国の朝鮮王朝時代の教育機関だった「書院」9カ所で構成される「韓国の書院」を世界文化遺産への登録を決定した。

屏山書院(資料写真=聯合ニュース)

 「韓国の書院」は1543年に「白雲洞書院」の名称で建立された朝鮮で最初の書院、紹修書院(慶尚北道栄州市)をはじめ、玉山書院(慶尚北道慶州市)、陶山書院(慶尚北道安東市)、屏山書院(安東市)、道東書院(大邱市達城郡)、藍渓書院(慶尚南道咸陽郡)、武城書院(全羅北道井邑市)、筆巖書院(全羅南道長城郡)、遯巖書院(忠清南道論山市)の9カ所。

 これらの書院は全て2009年以前に国家指定文化財の史跡に指定され、保存状態が比較的良好とされる。

 書院は公立学校だった郷校と違い、郷村社会で自主的に設立された私設学校だ。儒教が発達していた朝鮮の建築物として、儒学の一学説である性理学の社会への伝播をけん引し、定型性をもった建築文化をつくり上げた点で、世界遺産の必須条件である「顕著な普遍的価値」(OUV)を認められた。

kimchiboxs@yna.co.kr

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先月28日に訪れた鉄原ファサルモリ高地は、朝鮮戦争当時の1951年11月から1953年7月まで韓国・国連軍と北朝鮮・中国共産軍の戦闘が4回も繰り広げられた場所だ。

2019-06-01 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

[ルポ]穴の開いたヘルメット、錆びた水桶…

70年ぶりに掘り出された戦争の傷痕

登録:2019-05-31 21:35 修正:2019-06-01 07:29

鉄原のファサルモリ高地の遺骨発掘現場 
発掘開始から2カ月で朝鮮戦争戦死者と推定される遺骨325点 
銃や防弾チョッキ、鉄帽、階級章など遺品2万3055点などを発見
戦争から70年ぶりに初めて非武装地帯で遺骨を発掘

 
  5月28日、江原道鉄原ファサルモリ高地で兵士が遺骨を発掘している=鉄原/ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社

 歪んだ鉄製の水筒に銃弾の跡がくっきりと刻まれている。バレルには弾丸がそのまま残されていた。錆びついた鉄帽(ヘルメット)は何発もの弾丸が突き抜けたようで、穴が空いていた。江原道鉄原(チョルウォン)郡にある「ファサルモリ高地」の遺骨発掘現場で発見された戦争の傷痕だ。

 70年近く、地中に埋もれていた戦争の傷跡が日の目を見た。先月28日に訪れた鉄原ファサルモリ高地は、朝鮮戦争当時の1951年11月から1953年7月まで韓国・国連軍と北朝鮮・中国共産軍の戦闘が4回も繰り広げられた場所だ。高地を奪われ、また奪い返す過程で、韓国・国連軍約300人が、また北朝鮮・中国共産軍約3000人が、死亡または行方不明になった。韓国軍当局は4月1日から2カ月近く、この地域で地雷除去など南北共同遺骨発掘に向けた基礎作業を進めている。ファサルモリ高地は、6月から一般に公開される「非武装地帯平和の道・鉄原区間」の最後の訪問先である鉄原の非常駐監視警戒所(GP)の近くにある。この監視警戒所から北側を見渡すと、目の前にファサルモリ高地の遺体発掘現場が飛び込んでくる。

 
江原道鉄原のファサルモリ高地で発見された遺品。この水筒は韓国・国連軍が使用したものと推定される=ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社
 
江原道鉄原のファサルモリ高地で発見された遺品。この鉄帽は韓国・国連軍が使用したものと推定される=ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社
 
 
 江原道鉄原のファサルモリ高地で発見された遺品。バレルに弾丸がまだ残っている=ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社

 草木で覆われた茂みのなか、真っ赤な山肌を露わにしたファサルモリ高地の斜面が目に入る。遺骨発掘のために斜面の草を全部刈り取ったため、はげ山のように見える。前日、雨が降ったせいか、地面から土の匂いが漂い、ほろ苦い草の香りが立ち昇った。発掘兵が草を切る音や空気圧縮機の轟音が鳴り響いていた。兵士たちが基礎発掘のために空圧機を動かすと、土が飛び散り、土埃が立ち上がった。28日午前10時、ファサルモリ高地では、2時間前から始まった発掘作業の真最中だった。ファサルモリ高地の稜線から45度の斜面のいたるところで、地雷除去と基礎発掘が行われていた。

 2メートルの深さの穴がいくつか見えた。軍関係者によると、「避難壕」だという。ファサルモリ高地の稜線では、朝鮮戦争当時、兵士たちが敵の奇襲攻撃に備えて安全に移動するために掘った交通壕が発見されたが、そのすぐ下の斜面で避難場所の避難壕が見つかった。「洞窟陣地」とも呼ばれる。8人ほど避難できる空間だ。発掘初期には交通壕は全長が300メートル程度であり、洞窟陣地は28日現在まで発見されたものだけで12個だ。一人がやっと隠れることができる小さな「個人壕」は約30個発見されたという。

 
江原道鉄原のファサルモリ高地で発見された洞窟陣地(避難壕)。2019年5月28日、現場関係者が洞窟陣地について説明している=ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社

 28日現在、ファサルモリ高地で、朝鮮戦争戦死者と推定される遺骨が325点(約50柱と推定)も出た。2カ月足らずの間、銃や防弾服、ヘルメット、水筒、階級章など遺品がおよそ2万3055点、地雷138発、不発弾2180発が発見された。現在、軍当局は地雷除去など基礎的な発掘だけを行なっている状況だが、本格的に発掘を始めれば、さらに多くの遺骨や遺品などが出るものと期待されている。今回の遺骨発掘は「非武装地帯」では初めて行われるという面で意義深い。軍当局は2000年から、朝鮮戦争当時激戦が繰り広げられた地域で、戦死者の遺骨を発掘している。しかし、9・19軍事合意前まで非武装地帯で遺骨の発掘が行われたことはない。70年近く手つかずで、開発も行われなかったため、実際に発掘される遺骨や遺品も他の発掘地域より毀損されたり、損失されている部分が少ないという。今年4月1日以降、この地域では完全な形の遺骨や4人と推定される遺骨が同じ場所で見つかった。国防部のカン・ジェミン遺骨発掘鑑識団発掘チーム長は「非武装地帯ではなく、南側地域の発掘現場で見られなかった様々な遺品、朝鮮戦争当時の遺品や遺骨がそのまま保存されているのを見て驚いた」と語った。

 
2019年5月28日、江原道鉄原のファサルモリ高地にある洞窟陣地(避難壕)で発見された遺品=ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社

 遺品も多数発見されている。最近発見された横・縦3メートル、深さ2メートルの洞窟陣地(避難壕)では、弾薬と薬きょうが100発以上発見されており、戦闘靴や防弾チョッキ、懐中電灯、銃弾、化粧品のビン、水筒、カップ、弾倉、銃の手入れに使うオイル用のタンク、スナップボタン、歯ブラシなどが大量に発見された。砕けた頭蓋骨の欠片が入った鉄帽も見つかった。軍当局は、遺品からみて、韓国軍が使っていた洞窟陣地と見られ、鉄帽に入っていた頭蓋骨も韓国軍の遺骨の可能性が高いと説明した。カン・ジェミンチーム長は「洞窟陣地の中に鉄筋と通信・電話線として使われた野戦線を編んで椅子の形に作ったものが見える」とし、「遺品を見る限り、作戦を立てたり、休息を取る場所ではなかったかと思われる。敵軍が人海戦術で攻め込んできたため、洞窟のようなところに隠れて砲兵射撃を要請し、敵軍を殲滅しようとした可能性もある」と説明した。

 
           2019年5月28日、逆曲川の姿=ノ・ジウォン記者//ハンギョレ新聞社

 ファサルモリ高地の稜線に上って北側を見渡すと、北朝鮮が昨年、遺骨の共同発掘に先立ち、地雷除去作業のために作った細道が見える。この道は軍事境界線を通過して南北を繋いでいるが、まだ往来はない。ファサルモリ高地から軍事境界線まではわずか500メートルだ。高地のすぐ隣には孔雀稜線と、もう一つの激戦が繰り広げられた白馬高地がある。この丘の間に水が流れている。この流れは軍事境界線にかかわらず、上ったり下ったりを繰り返す。この川は、曲線を描きながら北から南へ、また南から北へと遡るという意味で、「逆曲川」と名付けられた。

 現在、韓国軍当局は9・19南北軍事合意書の履行に向け、約束通りに4月1日から遺骨発掘のための基礎作業を進めている。当初、南北が共同発掘作業を行う予定だったが、北側が約束された日に発掘を始める意思は示さず、ひとまず韓国軍当局が先に発掘を始めた。今後の共同発掘に向けた地雷除去など、基礎作業を行っている。地雷除去作業の途中、多くの遺骨が発掘された区域では、基礎的な発掘作業を並行している。 基礎発掘の面積は28日現在1万2650平方メートル、地雷除去の面積は14万9000平方メートル、遺骨発掘の全体面積は16万1650平方メートルとなる。

 軍関係者の説明によると、北側の監視警戒所から北朝鮮軍が南側の遺骨発掘を注意深く観察する姿が見られることもあるという。昨年は、南側で動きがある度に北側が一々確認したが、今年は全くそのような動きを見せないと現場関係者たちは説明した。

鉄原/ノ・ジウォン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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外交部当局者は「800万ドル対北朝鮮支援に限定しない方が良い」とし、「いくつかの分野で、(関連)協議を行っていると聞いている」と述べた。

2019-04-18 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

国連安保理、

満月台の共同発掘に向けた装備搬出に対する制裁免除を承認

登録:2019-04-18 06:16 修正:2019-04-18 06:33

17日、安保理制裁委員会で、全員同意で免除判定の手続きを完了

 
         南北共同調査団が開城満月台を発掘する姿=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 国連安全保障理事会で17日(現地時間16日)、高麗時代の宮殿跡地、開城(ケソン)満月台(マンウォルデ)の南北共同発掘に必要な装備の対北朝鮮搬出に対する制裁免除の手続きが完了した。

 安保理傘下の対北朝鮮制裁委員会は同日、韓国政府が申請した開城満月台の共同発掘に必要な装備を北朝鮮に持ち込むための制裁免除を承認したと、外交筋が伝えた。装備や物品の具体的リストは公開されなかった。

 安保理15カ理事国で構成された対北朝鮮制裁委員会は、全員同意(コンセンサス)方式で運営されており、制裁免除が行われたというのは、どの理事国も反対意思を表明しなかったことを示す。これに先立ち、韓米当局者は先月14日、米ワシントンで作業部会会議を開き、満月台の共同発掘事業に対する制裁免除と関連して、事前協議を行った。

 一方、外交部当局者は16日、ドナルド・トランプ米大統領が今月11日の韓米首脳会談で、対北朝鮮食糧支援について言及したことと関連し、「根拠もなく言ったわけではないだろう」と述べた。トランプ大統領の発言が、韓国政府が2017年9月に国際機関を通じて北朝鮮に供与することにしたものの、執行を先延ばしにしている800万ドル規模の対北朝鮮支援を念頭に置いたものという分析について、外交部当局者は「800万ドル対北朝鮮支援に限定しない方が良い」とし、「いくつかの分野で、(関連)協議を行っていると聞いている」と述べた。

パク・ミンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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こうした日本の後退した歴史認識を見せる一節が、検定を通過した小学校教科書で少なからず目につく。

2019-03-27 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

“主語”が消された強制動員…日本教科書、歴史認識も後退

登録:2019-03-26 20:47 修正:2019-03-27 07:31

 
東京書籍の小学校社会科教科書に載った日本の世界文化遺産。地図と写真で軍艦島と呼ばれる端島は登場するが、朝鮮人強制動員に対する言及はない//ハンギョレ新聞社

 「植民地だった朝鮮の人に、名前を日本式に変えさせたり日本軍兵士として徴兵し戦場に送ったりした」

 26日、日本の文部科学省検定を通過した日本教育出版の小学6年生の社会科教科書には「主語のない文章」が登場する。日帝強制占領期間(日本の植民地時代)の末期に日本政府が朝鮮人に強要した創氏改名と強制動員を叙述したが、この政策を推進した「日本政府」の責任が曖昧にされたのだ。2014年の検定を通過した現行教科書には「政府」という主語が明示されている。

 主語を抜いた例は他にもあった。東京書籍は、1923年9月関東大震災を記述して「多数の朝鮮人と中国人が殺害される事件があった」と書いた。少なくとも6千人余りの朝鮮人を虐殺した主体である日本軍・警察と自警団にはまったく言及しなかった。これに先立って日本政府は、日本軍慰安婦問題に対する12・28合意や2015年8月の「安倍談話」でも自己の責任を明確にしなければならない主要な文章で主語を省略したことがある。

 こうした日本の後退した歴史認識を見せる一節が、検定を通過した小学校教科書で少なからず目につく。日本政府は、学習指導要領解説に「多くの国家、特にアジアの様々な国の人々に莫大な損害を及ぼしたことなど、大戦が人類全体に及ぼした影響を(児童たちが)理解するようにしなければならない」と明示した。だが、安倍晋三首相が主導してきた“歴史覆し”の影響のためか、アジア周辺国に及ぼした被害を詳細に記述した内容は多くなかった。

 責任を曖昧にする態度は、2016年に韓日間の外交懸案に浮上した軍艦島関連記述でも目につく。東京書籍の社会科教科書は、日本の「世界文化遺産」を紹介して軍艦島という別名で広く知られる長崎県端島の写真を入れ地図に位置も表示した。だが、朝鮮人強制動員に対する言及はなかった。中世史では教育出版が文禄・慶長の役の説明で従来の「侵略」という表現を除き、「朝鮮に大軍を送った」とだけ記した。

 日本の戦争責任に言及した教科書は、日本文教出版の1種だけだった。この教科書は「戦争などでアジアの人々に大きな被害をもたらしたこともあった。このような歴史的事実を忘れずに、お互いの国家を尊重し、さらに強い友好と信頼関係を構築していくことが重要だ。日本に対して戦争中の被害の責任を問う声が今でもある」という内容を入れた。だが、この出版社は、日本が朝鮮半島を植民地にする決定的契機となった露日戦争を「欧米帝国の進出と支配で苦痛を受けるアジアの多くの国の人々に独立に対する自覚と希望を与えた」と美化した。

 韓日交流や韓国関連叙述も縮小された。日本文教出版の現行教科書には「韓国と2002年ワールドカップを共同開催するなど、友好を強化している」という一節があるが、今回は「友好を強化している」という部分が無くなった。日本の古代文明に及ぼした朝鮮半島出身者らの影響に関する記述も縮小された。現行の教科書は「(朝鮮半島)渡来人が大陸から文化と技術を伝えた」と叙述していたが、新しい教科書ではこれも削除された。

東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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今でも古代史論争の主要な素材として登場する三国時代の朝鮮半島の地理風俗を言及する際に欠かせない引用出処になっている『翰苑(かんえん)』筆写本がそれだ。

2019-03-25 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

古代史論争で常に引用される『翰苑』訳注本、韓国で初めて発刊

登録:2019-03-24 23:13 修正:2019-03-25 06:59

日本の神社に保管されていた唐の古文献 
東北アジア歴史財団、3年かけて講読・研究 
筆写本唯一の「蕃夷部」を訳注

 
                                                  『訳注翰苑』の表紙//ハンギョレ新聞社

 九州の大都市である福岡の郊外には、太宰府天満宮という有名な神社がある。春には境内に咲き誇る梅と、随一の入試祈願所として広く知られ、韓国人観光客も好んで訪れる名所だ。だが、韓・中・日の歴史学界は100年間余りにわたり、まったく異なる理由でこの神社に注目してきた。1917年、この神社の神事を司る官吏が自宅に所蔵した宝物を調査していて発見された7世紀の中国唐時代の貴重な文献が残っているためだ。今でも古代史論争の主要な素材として登場する三国時代の朝鮮半島の地理風俗を言及する際に欠かせない引用出処になっている『翰苑(かんえん)』筆写本がそれだ。

 韓国の学界が日本に伝わる『翰苑』の漢文テキストを考証し、内容を韓国語で解説した訳注本が初めて出版された。東北アジア歴史財団韓国古中世史研究所(所長 イ・ソンジェ)傘下の翰苑講読会のメンバーである研究者20人余りが、約3年をかけて講読と比較研究の末に出版した『訳注翰苑』だ。仁川都市公社のユン・ヨング文化財部長と、ソウル市立大学のアン・チョンジュン教授、淑明女子大学のキム・ジヨン講師、成均館大学のチョン・ドンジュン研究教授、成均館大学のウィ・ガヤ博物館学芸士らが執筆した。『翰苑』は、唐時代の中国とその辺境地域に居住する民族の地理・風俗などをまとめた百科事典の性格を持つ本だ。唐の歴史家、張楚金が660年頃に編纂し、雍公叡が注を付け、当初30冊が作られた。しかし、ほとんどが失われ、朝鮮半島三国と倭国、そして匈奴と烏桓、鮮卑など北方一帯の異民族を扱った「蕃夷部」1冊だけが9~10世紀に日本に伝えられ、原本を書き写した筆写本として残り、今に伝えられた。この「蕃夷部」は、高句麗の官等と政治状況、綿織物などの生産基盤、鴨緑江の起源、三韓の位置、百済の年代呼称など、現存する他の史書にはない稀少な記録が多く書かれているだけでなく、今は存在せず名前だけが残った歴史書物『魏略』『高麗記』が引用根拠として言及されているため、韓・中・日の古代史研究にとって大事な基盤資料と認められている。今回出版された訳注本は、古代史の理解に必須の文献だが内容自体が難解で、誤記も少なくないため解読が難しいことで有名だった『翰苑』「蕃夷部」の原文内容を詳細に韓国語で解釈して訳し、解説を付けたものだ。日本では1922年、中国でも1934年にすでに影印・訳注本が出版され、韓国での刊行はしばらく遅れていたが、今回の出版は韓国学界の古代東アジア史研究のために重要な踏み石を置いたと評価される。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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6世紀初めの榛名火山爆発による  群馬県金井東裏遺跡 

2019-03-11 | 東アジアの文化と歴史を学ぶ会

日本の群馬県から出土したうろこ鎧は百済式だった

登録:2019-03-10 21:28 修正:2019-03-11 08:42
クォン・オヨンの21世紀古代史 
(9)日本版ボンペイと朝鮮半島 
 
6世紀初めの榛名火山爆発による 
群馬県金井東裏遺跡 
一家四人が埋められた悲劇の現場で 
「鹿骨うろこ鎧」出土し関心 
ソウルの夢村土城出土品と同一
 
群馬県の金井東裏は、6世紀始め榛名火山の爆発で当時の様子が保管された。百済の夢村土城で出土した鹿骨うろこ鎧と同じものが発見され関心を集めた。左は夢村土城から出た鎧を復元したもの、右上は金井東裏、下は夢村土城の鎧出土当時の姿だ=クォン・オヨン教授提供//ハンギョレ新聞社

 百済では武寧(ムリョン)王が、新羅では智證王が即位したばかりの6世紀始め、日本では暴君として悪名高い武烈の虐政が終わりに向かっていた。上毛野(かみつけの)と呼ばれた現在の群馬地域は、内陸に位置し海がなく夏には摂氏40度まで上がる蒸し暑いところだ。真夏の暑さに一人の男が夫人と幼い二人の子供を連れて歩いていた。突然大地が揺れ榛名山が爆発を始めた。

 轟音と共に、火砕物(火山の爆発で出るガスや火山灰など)が吹き上がった。その家族は急いで小川のそばにうつ伏せになったが効果はなかった。有毒ガスで窒息した家族は、まもなく息をひきとり、次いで数十分間にわたり火砕物が家族を襲った。火山爆発の被害者は彼らだけではなかった。火砕物は噴火口の北東側25キロメートルまで流れ下り、数百人が瞬時に命を失った。村、田畑、道路がすべて火砕物に覆われてしまった。日本版ボンペイの悲劇と呼ばれる金井東裏遺跡だ。日本古代史の研究で重要な中筋遺跡もこの時、まるごと埋没した村の一つだ。

 Hr-FA(Hr=榛名山、F=二ツ岳峰、A=火山灰)大災難をかろうじて助かった人々は再び生活を続けた。家屋を修理し村を興し、水路を復旧し畑を作った。火山灰を掘りおこし畑を作ったり、火山灰の上に肥沃な土を盛って、その上に畑を作る刻苦の努力の末にある程度の安定を得た。ちょうど武烈の暴政も終わり、継体という新しい王が擁立され、政治的にも安定を得た。新しい王を迎えた倭は朝鮮半島の新羅、百済とも友好的な関係を維持した。

20年の時間差を持つ群馬県の遺跡

 だが、群馬では太平聖代が長くは続かなかった。Hr-FAが噴火して20年ほどの時間が過ぎ、榛名山が再び噴火した。今度は火山噴出物の種類が異なり、軽石が榛名山の東側を広範囲に覆った。Hr-FP(P=軽石)と呼ばれる火山爆発では前回よりはるかに多くの村がまるごと埋没したが、そのうち発掘調査で確認された遺跡が黒井峰遺跡だ。

榛名火山の爆発で埋められる前の黒井峰遺跡を復元した模型=クォン・オヨン教授提供//ハンギョレ新聞社
鎧を着てお辞儀をするようにうつ伏せになった姿勢で亡くなった男性。群馬県金井東裏遺跡=クォン・オヨン教授提供//ハンギョレ新聞社
榛名火山の爆発で厚く積もった軽石(Hr-FP)=クォン・オヨン教授//ハンギョレ新聞社

 20年ほどの時間差を置いて順に埋没した黒井峰村と中筋村は、1500年前の人々の暮らしの様子をそっくり大切に保管して見せるという点で大変重要だ。住民が引っ越しをしたり、家屋を廃棄すれば家財道具が残らないために、発掘調査をしても多くの情報は得られない。ところが一瞬で火山の被害を受けた群馬の村は、住民が待避できないほど緊迫した状況が展開して、家財道具が家屋の内外にそっくり残ることになった。村で繰り広げられていた日常の生活が、そのまま動かずに発掘のシャベルが入る時まで残っていた計算だ。馬を追い待避した人間と馬の足跡、それでも結局は亡くなった10代の少年の遺体まで発掘され当時の急迫した事情を垣間見ることができる。

 中筋遺跡で発見された遺物の年代はすべて同一時点に埋没したもので、黒井峰遺跡の遺物よりは20年ほど古いものだ。そのために遺物の編年と変遷過程をとても細かく追跡できる。ここで得られた年代観は群馬だけに適用されるものではなく周辺地域で出土した遺物の年代を決めるのにも重要な基準として作用することになる。こうした点で黒井峰遺跡と中筋遺跡は、日本の考古学と古代史研究で極めて重要な遺跡といえ、当然各種の教科書に載った。

 ところで、こうした遺跡をなぜ私たちが知る必要があるのか?古代の韓日関係史とも連結されるためだ。2012年11月、群馬県の学者たちは、地下に積まれている3メートルの厚さのHr-FP軽石とその下のHr-FA火山灰を順に取りはらい、悲劇的な死を迎えた4人の痕跡を捜し出した。その中の鉄製うろこ鎧(鉄板を小さく切り魚のうろこのように構成した鎧)を着た男性は、鉄槍、多数の矢尻、もう一着のうろこ鎧を持っていて事故に遭ったと発表された。男性は地面に鉄の兜を置き、その上に額を当てた状態で火山の反対側を向いて、あたかもお辞儀をするようにうつ伏せた姿勢だった。石とガラスで作られた美しい装身具を頭と腰に着けて亡くなった女性は夫人と推定されるが、やはりうつ伏せになって死亡した。火山学者と考古学者の共同研究によって、Hr-FAは合計15回にかけて噴火が繰り返されたが、彼らは2回目の噴火までは生きていたが、3回目の噴火で揃って絶命したことが明らかになった。

 金井東裏という多少長い名前がつけられたこの遺跡は、ある家族の悲劇的な死によって有名になったが、研究が進むにつれ一層驚くべき事実を見せてくれた。男性が持っていた鎧は、着ていた鎧と同じように鉄板のうろこを構成して作ったものだが、胸部位に鹿の骨を磨いて作ったうろこ鎧一式が重ねられた状態だった。このような動物の骨のうろこ鎧は日本で発見されたことがない。ただ韓国のソウルにある夢村土城(モンチョントソン)で発見されたことがあるだけだ。九州や大阪でもなく、百済の王城から唯一の比較対象が出土したので、日本の学界の関心が集まるのは当然だった。

初めは日本書紀の記録に基づき
「朝鮮半島の捕虜を捕らえてきた」と解釈
研究の結果、現地の有力一族が
「先進文明導入」の努力をしていたことが明らかに
鎧男も「渡来人形質」と判明
日本考古学の研究者は韓国国内に1人
古代韓日関係史の糾明の道は遠い

日本の先住民である縄文人(左)と朝鮮半島から渡って行った移住民の弥生人(右)の顔=日本国立歴史民俗博物館//ハンギョレ新聞社
朝鮮半島系の遺物が多く出土した群馬県観音山古墳の内部=クォン・オヨン教授提供//ハンギョレ新聞社

朝鮮半島系住民と現地人の婚姻は盛ん

 群馬地域は、5世紀から6世紀にかけての新羅と百済の遺物が多く出土する所だ。かなり以前から百済系の土器とガラス、新羅系の金銅冠と靴、馬具、伽耶系の耳飾りなどが発見されてきた。朝鮮半島系の遺物が発見される背景については、この地域の頭目だった上毛(かみつけ)一族が4世紀から7世紀まで数回朝鮮半島に出兵したという日本書紀の記録を重視して、この時に新羅人を捕虜として捕らえてきたという主張があった。だが、発掘調査が進むにつれて、朝鮮半島の住民が捕虜として捕らえられてきたのではなく、逆に上毛一族が先進文明を得るために努力し、朝鮮半島系の移住民が群馬地域に積極的に移住、定着、活動した事実が明らかになった。群馬という地名からも分かるように、馬を育てる馬牧場で有名なこちらに馬が入ってきた背景には朝鮮半島系住民たちの活躍があったことも明らかになった。こうした状況で百済風の鹿骨うろこ鎧が出土したので、日本の学界の関心が集まるのは当然のことだった。

 この不幸な男性の正体を明らかにするために、先端科学技術が動員された。火山灰の温度があまり高温でなかったおかげで、人骨と鉄器は溶けず、鉄製鎧の中には人骨がそっくり残っていた。うつ伏せになって死亡したので、後頭部は一部損傷を受けたが顔は比較的よく残っていた。分析の結果、身長164センチ程度の40代の男性、腸腰筋と下肢筋が発達していた点から、日常的に乗馬をした武士と推定された。顔は典型的な「渡来人(朝鮮半島系移住民)の形質」を持っていたので、近畿や北部九州、あるいは朝鮮半島から移住した人物と推定された。

 隣で発見された女性は、年齢30代、推定身長143.8センチ、妊娠経験のある経産婦、顔の形が関東(群馬・埼玉など東京周辺)と東北(宮城・岩手など本州北方)地方の特徴を持っていたと発表された。筋肉と骨が発達している点から、貴族的な生活でなく労働を多くした経歴の所有者と判明した。頭蓋骨だけが残った2人の子供のうち1人は5歳程度の性別不詳で、残りの1人は分析不能だった。

 ストロンチウム(Sr)同位体比分析という先端技術を活用した結果、夫婦と推定されるこの男女は、幼少年期を同じ場所で過ごしたが、群馬の北側に位置する長野が有力候補と推定された。反面、5歳の子供が育ったところは、この子供が死亡した群馬という事実まで明らかになった。

群馬県のある古墳から出た新羅系馬飾り=クォン・オヨン教授提供//ハンギョレ新聞社
群馬県のある古墳から出た新羅式金銅冠=高崎市資料//ハンギョレ新聞社

 この男性が朝鮮半島出身ならば、なぜ長野で育ち群馬で死亡したのだろうか? 関東や東北系統の顔を持つ女性は、なぜ長野で育ち群馬で死亡したのだろうか?過度な類推は禁物だが、一つ描いてみてもおかしくない仮説は次のとおりだ。朝鮮半島から移住した先祖を持つ男性と、日本の関東-東北出身の先祖を持つ女性が長野で出会い結婚し、群馬に移住して子供を産み暮らしていたが、火山の爆発で一緒に亡くなったということだ。

 日本列島に移住し定着した朝鮮半島系の住民が、現地人と婚姻するケースは珍しくなかった。山口県土井ケ濱遺跡では、弥生時代(紀元前5世紀~紀元後3世紀頃)の墓が多数発見され、300点に達する人骨資料が確保された。体質人類学的研究を進めた結果、東南アジア的伝統を持つ先住民(縄文人)と朝鮮半島から渡っていった移住民(弥生人)が共存していたことが明らかになった。彼らの混血によって、現代日本人の主軸が形成されたという主張は既に日本学界の主流をなしている。三国時代に入っても、偶然な機会あるいは政略的目的で朝鮮半島の住民と日本列島の住民の間に婚姻が成立したケースは非常に多く確認されている。

群馬県のかつての名称である上毛野の頭目が埋葬された保渡田古墳=クォン・オヨン教授提供//ハンギョレ新聞社

1人対10人、韓国対日本の研究者

 私たちは近代に入り日本の皇国史観によって私たちの歴史が歪曲される苦痛を体験した。その歪曲を正すために多くの努力を傾けた結果、解決された部分もあるが相変らず未解決状態の部分も多い。古代韓日関係史の解明は、文献資料だけでは難しく、考古学的資料の助けを受けなければならない。日本の学界で「渡来人」、「渡来系文物」と呼ぶ実体は、実は朝鮮半島系の移住民、朝鮮半島系の文物だ。歪曲された韓日関係史を解明するには、いわゆる渡来人と渡来系文物に対する研究が大きな役割を担う。史料的価値が疑問視され多くの毒素を抱いている日本書紀にだけ頼るのではなく、大地から出た生き生きした資料に視線を転じなければならない。

 だが、実際問題として韓国でのこのような主題に対する研究は非常に不十分だ。メディアは時折特集という形ですでに死亡宣告を受けた任那日本府という亡霊を棺から引き出して国民を憤怒させ、数人の専門家の発言を借りて亡霊を鞭打ちし、国民にカタルシスを提供している。だが、こうした行為の反復は、古代韓日関係史の解明を助けるどころか、むしろ退歩を誘導するだけだ。

 韓国国内で日本古代史、特に7世紀以前の時期を専攻する研究者は10人余りだ。多くはないが、それでも「研究者集団」と呼ぶには値する。ところが、私たちの古朝鮮-三国時代に該当する日本の弥生時代と古墳時代を専攻する考古学研究者は僅か1人しかいない。それも定年までいくらも残っていない50代後半の研究者だ。私たちの古代史と関連した日本考古学を正面から扱うことができる若い研究者は、未だに輩出されていない。金井東裏遺跡や土井ケ濱遺跡のように古代韓日関係史の謎を解く情報を含む遺跡を扱う韓国人研究者は、今後もしばらくは現われないだろう。反面、韓国考古学を主題として博士学位を受け活動している日本人研究者は、筆者が知っているだけでも10人を超す。

 古代韓日関係史に対する私たちの社会の高い関心にも関わらず、この課題を解決する研究者の養成に私たちは失敗したわけだ。日本の古代史や考古学を研究するだけでも“親日派”という頸木をかけられる危険性が高く、就職も難しい社会の雰囲気で、一生を捧げる新進研究者を得るということは、既成世代の欲ばりすぎだ。3・1運動100周年を迎えて、反日と抗日、知日と克日の問題を今一度十分に噛みしめてみる。

クォン・オヨン・ソウル大学人文学部教授

(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/885224.html韓国語原文入力:2019-03-10 14:48
訳J.S

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