不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

杭州市の風景

2006-09-30 | 日本と韓国・朝鮮・中国との友好
国内外から美食が集合 杭州でイベント





  中外特色美食展が9月13日~25日、杭州市の呉山広場で開催されている。国内外から飲食企業100社余りが伝統の美食習慣をアピールしている。(編集ID)

  写真(1):新疆独特のナンを焼いて売る人たち(9月19日)

  写真(2):大きなかけ声で焼きたての食品を売る蒙古族の男性(9月19日) 

  
 2006年9月20日 「人民網日本語版」で見つけた記事です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

韓国からも、追い抜かれる

2006-09-30 | 世界の変化はすすむ
中韓議会の定期交流が正式スタート

  「中韓議会定期交流制度」の第1回会議がソウルで27日、中国側代表の烏云其木格(ウユンチムグ)全国人民代表大会常務委員会副委員長と、韓国側代表の李竜煕・国会副議長により開催された。両国議会の定期交流が正式にスタートした。

  烏云其木格副委員長は「両国関係は歴史上、最も良い時期にある。中国は韓国との友好協力関係の発展を高く重視している。両国議会の友好的交流は、両国の全面的パートナーシップの内容を豊富にした」と指摘。「全国人民代表大会は、韓国国会との定期交流を通じて、両国議会と両国人民間の相互理解と友情を増進し、両国関係を絶えず前進させていきたい」と強調した。

  双方は次回会議を来年北京で開催することで合意した。(編集NA)

 
と言う記事が2006年9月28日  「人民網日本語版」に載っていました。日本は韓国においぬかれていきます。世界の流れからも・・・・・・・・・・
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

向日市9月議会報告

2006-09-30 | 市民のくらしのなかで

   2005年度(平成17年度)

      一般会計決算認定に反対しました。
 

その理由は

①、国民に痛みを押し付けた小泉政治に従い、福祉分野にまで負担増を広げ、 
  保育料値上げや基本検診まで有料にしたこと。

②、法律を守らず、解放同盟への支出を続けたり、日の丸・君が代の強制
  をしていること。

③、京都府に対して、高い水道料金引き下げの交渉をしないこと。

④、イラク戦争、憲法改悪、教育基本法改悪に反対せず、アメリカの戦争に市民
  総動員で協力せよという内容の条例を提出するなど、平和都市宣言市長とし
  て相応しくないこと。
 
一方、市民の運動で実現した施策には賛成だが、一括して賛否が問われるので「反対」としました。   なお、全文は議事録・ホームページをご参照ください。
  
  水道料金引き下げ・府営水道協定見直し
     
    府会請願提出・32180人の署名
 

向日市水道問題を考える会は、長岡京市・大山崎町の水の会とともに、9月27日京都府議会に請願を提出。日本共産党府議団が紹介議員となりました。
 引き続き頑張ります。

 
石田川2号雨水幹線工事

共産党議員団、入札契約取り下げの緊急申し入れ
 
福島県の下水道工事談合事件に関連し、奥村組(仮契約業者)が、東京地検特捜部の取り調べを受けていたことが明かになり、党議員団が「契約取り下げの緊急申し入れ」を行いました。9月11日市長は、契約案件を取り下げました。
 9月27日の京都新聞には、奥村組が「逮捕容疑の下水道工事で受託調整役を務めたのは、ゼネコン側が鹿島(東京)奥村組(大阪市)であることを報道しています。
 日本共産党市議団は、税金の無駄使いを許さず、引き続き法に基づき公正・公平な入札と下水道工事の執行を求めるものです。

 

  新アクシヨンプラン「財政健全化計画」

  このまま進めれば市民生活を直撃

          ・公共料金値上げなど7億円、

          ・普通建設事業75億円
 

久嶋市長は、「財政健全化計画」を発表した。京都新聞が「下水道料値上げなど生活を直撃・市民の充分な理解を得るのは容易でない」と書いたように、2006年度から10年度までの5カ年で、公共料金値上げが、4億7300万円、福祉タクシーティケットなど30項目の福祉施策見直し、2億3500万円、さらに、家庭系ゴミ収集有料化や水道料金再値上げも検討されている。
 日本共産党市会議員団は
①、 財政危機の原因が、自民・公明内閣による、国庫補助負担金や地方交付税の削減にあることを明確にすること。
②、 市長就任時、14億円あった財政調整基金がゼロになることへの市長責任。
③、 キリンビール跡開発に関連する10億円の土地区画整理など75億円の普通建設事業を見直すこと。
④、 広範な市民の合意なくこの計画を進めないこと。
 を強く求めるものです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の杭州報告の真実

2006-09-27 | 日本と韓国・朝鮮・中国との友好
  2006年08月の記事だが、私の杭州市報告の中に、杭州の山や大きな道路のしたに防空壕があり、今は使われていないが、クーラーのない人が夕涼みをするために開放されている。と書いたが、人民網報のこんな記事を見つけた。

防空壕で「変面」披露 杭州の劇団





  杭州天堂滑稽劇団は8月1日、杭州市の保俶山のふもとにある防空壕で、納涼に訪れた市民に伝統芸能の「変面」(四川歌劇の中で登場人物が瞬時に面を入れ替え、いくつもの役を演じる早変わり技。)などを披露した。(編集AN)

  写真左:防空壕の中で涼む人たちに「変面」を披露する役者

  写真右:「変面」を披露する役者の仮面をなでる女の子

  「人民網日本語版」2006年8月2日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと古い記事だけれど

2006-09-27 | 日本と韓国・朝鮮・中国との友好

 

 

 

更新時間 :2006年05月29日10:02 (北京時間)

杭州で水道管破裂、市街が浸水


  杭州市環城北路の交差点で28日午前8時頃、突然水道管が破裂した。あふれ出た水で路面は瞬く間に浸水し、交通に影響が出た。市当局が迅速に緊急補修を行なったところ、午前10時頃にはほぼ浸水が収まり、交通も復旧した。新華社のウェブサイト「新華網」が報じた。(編集NA)

  




  
現場を走るバス


  




  
緊急補修にあたる市職員


  




  
景観橋から流れ落ちる水


                           「人民網日本語版」2006年5月29日

 
杭州を訪問した時、何度も通った場所だ。・・・・・おおはし
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不破さんに聞く・最終回・後半

2006-09-26 | 市民のくらしのなかで

 前回からの続きです。

  

    なにがこの悲惨を生んだか

 ――なにが、こういうひどい戦争を生んだのですか。

 不破 藤原さんは、著書のなかでその問題にも分析をくわえ、机の上の作戦(戦闘行為)をすべてに優先させる「補給無視の作戦計画」、実態調査もせずに現地自活主義を方針とした「兵站軽視の作戦指導」、無謀な戦略をふりまわした「作戦参謀の独善横暴」をあげ、これらの「作戦第一主義」の根底には、兵の生死など意に介しない“人間性の欠如”があった、と指摘しています。

 私も、そのとおりだと思います。

 作家の水上勉さん(故人)との交友のなかで、戦争体験を聞いたことがあります。彼は、本土で輜重輸卒(しちょうゆそつ)、つまり軍馬の世話をしていたのですが、上官から「お前らは、一銭五厘(召集令状に張られた一銭五厘の切手のこと)で集められた。しかし、馬はそうじゃない。金がかかっているんだ。天皇陛下の馬だ。それを傷つけたら重営倉(軍隊の厳罰)だぞ」と始終怒鳴られ、なぐられたとのことでした。「一銭五厘」という言葉は、どこの軍隊でも聞かれたと言いますが、日本の軍隊にしみ通っていた人命軽視の精神を端的に象徴する言葉でした。

     内にたいしても無法・残虐

 不破 日本軍は、中国人など攻め込んだ国の人びとに無法・残虐な行為をやってたいへんな惨害をアジア各国にもたらしましたが、その軍隊は、内にたいしても無法・残虐でした。飢え死に必至のところへ平気で大軍を送り込む、武器も食糧ももたせず、精神主義でがんばれと死地にかりたてる、しかも「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」を至上命令の一つとし捕虜になることを禁ずる。米軍正面攻撃の通路となった島々で、いわゆる「玉砕」が連続したのは、その結果でした。

 さらに、「人間性の欠如」は、大きな戦争指導にもつらぬかれました。百数十万と推定される餓死者は、戦争の最後の二年間に集中しています。日本の敗色が明らかになってきた時に、戦争指導者たちが戦争終結の決断をしていたら、インパール、フィリピンの飢餓戦線は現出しなかったし、南西あるいは中部太平洋の島々に置き去りにされた部隊も、多くの人びとが生命を失わずにすんだでしょう。さらに、日本国民は、沖縄戦も、全国の都市を焼き尽くした大空襲も、そして広島・長崎も経験することはなかったはずです。

 ところが、戦争指導者たちは、その時に、日本国民の生命をまもることを考えないで、反対に「本土決戦」「一億玉砕」を叫んだのでした。これは、自分たちの野望のためには、全国民の生命を犠牲にしてもかまわないという、「人間性の欠落」を極限にまでふくれあがらせた合言葉でした。

 “靖国派”は、自分の立場を合理化しようとする時、戦没者への追悼の問題をいつも持ち出します。しかし、戦没者への本当の追悼のためには、日本が経験してきた戦争の現実をはっきり見ることがなによりも重要です。

 アジア諸国民にとっても、日本の兵士と国民にとっても悲惨な戦争であった現実を、それが日本の指導者たちの侵略主義、領土拡張主義によって引き起こされた不正義の戦争だったという真実とあわせて、しっかりとつかんでこそ、戦争に生命をささげた多くの人たちの死を無駄にしない、本当の意味での追悼が可能になるのだと、私は思います。

(聞き手・藤田健)

(おわり)

(この連載は、13、17、20、24、25日付 で掲載しました)


日本の戦争指導の仕組み

 この連載では、外交・軍事の文書に関連して、御前会議、連絡会議など、日本の戦争の指導機構にかかわる用語が、ずいぶん出てきました。話の途中で説明したこともありますが、最後に、戦争指導のしくみについて、まとめた「用語解説」をしておきます。

 統帥権の独立 戦前の日本では、戦争の軍事面は、統帥権といって天皇の大権に属し、政府の権限外におかれていました。この問題で天皇を補佐するのは、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長でした。国防・用兵などの問題は、この二人がそれぞれ直接天皇に上奏してその承認を得て執行にあたりました。

 日中戦争に突入したあと、三七(昭和十二)年十一月、「大本営」が設置されましたが、これは、統帥の側で、陸海軍の共同態勢をはかるために設けられたもので(実質は、陸軍部と海軍部に分かれたまま)、統帥と国政の統合調整には、別個の機構が必要でした。

 大本営政府連絡会議 これは、戦争指導の最高機構として、三七年十一月、大本営の設置とあわせて、設置された会議です。法制的な裏付けがないため、決定事項は、それぞれが、その職責に応じて執行したものです。政府側は、事前事後、閣議決定の手続きをとりますから、統帥事項をのぞけば、閣議抜きの決定ということはありませんでした。

 重要な決定は、天皇に上奏してその裁可を得ました。そのさいには、首相・参謀総長・軍令部総長そろっての場合が多かったとのことです。

 この会議の常時の構成メンバーは、〔政府側〕首相、外相、陸相、海相、〔軍側〕参謀総長、軍令部総長の六人です。このほか、蔵相と企画院総裁が連続的に出席した時期もあり、関係閣僚の臨時出席もあるなど、時に応じての変動はありました。

 この連絡会議は、四四(昭和十九)年八月、「最高戦争指導会議」と改称します。

 連絡懇談会 大本営と政府との連携を日常より緊密にする意味で、陸軍の要請で、四〇(昭和十五)年十一月から、毎週木曜日に「大本営政府連絡懇談会」が開かれるようになりました。また、参加者を増やした情報交換の会合も、週一回開かれました。

 御前会議 天皇の出席のもとに、その面前で特別に重要な国策を決定する会議です。出席者は、連絡会議の構成員に、枢密院議長と陸軍の参謀次長、海軍の軍令部次長がくわわりました。会議の最後におこなわれる枢密院議長と政府および統帥部との質疑応答は、事前の準備なしの即席の問答で、特別の意味をもちました(三国同盟の審議の模様は第三回で紹介しました)。

 

連載のご購読ありがとうございました。

 

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不破さんに聞く・最終回・前半

2006-09-26 | 世界の変化はすすむ

                       2006年9月25日(月)「しんぶん赤旗」

    日本の戦争―領土拡張主義の歴史

            不破哲三さんに聞く

  第5回 「共栄圏」と悲惨な戦場


  「共栄圏」の現実は?

アジア解放ではなく、資源獲得の話題ばかり

写真

(写真)不破哲三さん

 ――南方侵略について、アジア解放の戦争というのが、“靖国派”の言い分ですが…。

 不破 この言い分のでたらめさも、政府・軍部の公式記録を見ると、よくわかります。

 前回、太平洋戦争への足取りの話をしたとき、その一歩一歩を決めた四つの御前会議について紹介しましたね。その前後に政府・軍部のいろいろな会議がありますが、どの会議の記録を見ても、東南アジア地域の人民の話は何ひとつ出ないのです。出てくるのは、そこに何があるか、どこを占領したらどんな物資が手に入るか、資源の話ばかりです。コメは仏印とタイ、石油は蘭印、ニッケルはセレベスとニューカレドニア、ゴムはタイと仏印と蘭印、錫(すず)はタイと仏印、銅はフィリピンなどなどです。

 ――前の世界再分割で日本支配の縄張りを問題にするとき、「生存圏」という言葉を使ったのも、同じ意味なんですね。

     そこに住む人の権利を無視

 不破 「生存圏」とは、これだけの地域を支配すれば、日本が戦争を続けるのに必要な物資はすべて手に入る、という勝手な理屈で、そこに住んでいる人びとの生活の権利などはまったく問題外の話です。「大東亜新秩序」とか「大東亜共栄圏」とかも、これを宣伝的に言い換えただけの言葉です。

 実は、ドイツとの三国軍事同盟締結の時にも、日本が「大東亜」の盟主になったら、この地域の資源を大いに提供できると、資源面での値打ちをしきりに売り込んだものでした。それは、「皇国の生存圏」の範囲を決めた連絡会議の例の決定のなかにも、「南洋を含む東亜所在資源および物資の取得」についてできるかぎり独伊に便宜を供与する、「日満支三国の農林水産物」や「支那、仏印、蘭印等の特殊鉱産物および『ゴム』等」の供給に協力するなど、この種の売り込み文句はくりかえし登場しています(「日独伊枢軸強化に関する件」四〇年九月十六日、大本営政府連絡会議決定 『主要文書』)。

日本の軍事占領が各地に残したもの

 不破 いよいよ戦争になって、日本軍が東南アジアに進撃し、その全域を軍事占領下におさめると、「大東亜新秩序」の現実は、たちまち明らかになってきました。

 私たちは一九九九年に、日本共産党の最初の代表団として、マレーシアとシンガポールを訪問しましたが、シンガポールの街の中心部(ラッフルズ広場)に、「血債の塔(けっさいのとう)」という追悼の碑が建っているのです。正式の名称は「日本占領時期死難人民紀念碑」(日本の占領下で殺された人びとを追悼する碑)です。塔の台の四つの面には、英語、中国語、マレー語、タミール語の四つの言葉で、次の碑文が刻まれていました。

 「一九四二年二月十五日から四五年八月十八日まで日本軍がシンガポールを占領した。わが市民で罪がないのに殺されたものの数は数えきれない。二十余年たってようやく遺骨を納棺してここに丁重に埋葬し、また高い石碑を建て心が痛むほどの悲しみを永遠に記録にとどめる」。

街中の中国系男子を一挙に虐殺

 不破 いちばんひどい虐殺がおこなわれたのは、日本軍がシンガポールを占領して三日後の一九四二(昭和十七)年二月十八日でした。その日に、日本軍は、十八歳から五十歳までの街中の中国系の男子を呼び集め、全員を一挙に虐殺しました。中国系住民の大量抹殺作戦は、この日を手始めに二月から三月にかけて続き、全体の犠牲者の数はいまだにはっきりとは分からないとのことでした。中国系の住民(華僑)は、日本軍に抵抗する恐れがあるということから、この無差別の虐殺となったのです。

 戦争が終わって後、一九六一(昭和三十六)年にその地域で宅地造成の工事などがおこなわれたさい、虐殺された大量の遺体が発掘され、あらためて全貌(ぜんぼう)が明らかになり、一九六七年にこの塔が建てられました。だから碑文に「二十余年たってようやく」と書かれたわけです。

 私たちは、代表団として、この塔に献花をしましたが、このような虐殺は、東南アジアの各地でおこなわれました。

   「帝国領土と決定し」……

写真

(写真)シンガポールの「血債の塔(けっさいのとう)」に献花する日本共産党代表団の不破委員長(左)と浜野書記局次長(肩書はいずれも当時)1999年9月19日

 不破 「アジア解放」とは無縁な日本の侵略主義は、日本の政府文書にも、明確に記録されています。ここに、四三(昭和十八)年五月三十一日の御前会議の決定「大東亜政略指導大綱」(『主要文書』)という文書があります。東南アジアの地域ごとに、どういう政治体制にするかを決めた文書です。「大東亜」というのは、諸民族の「共存共栄」が最大のうたい文句だったわけですが、現実にその支配体制を決めることになると、そんなきれいごとを言ってはいられません。日本の領土的野望が、むきだしの形で出てくるのです。

   領土拡張主義の本音を記録

   不破 東南アジア諸国のうち、戦争前から独立国だったタイと、フィリピンやビルマについては、形だけは独立国らしい体裁を整えることを、日本は考えていました。しかし、フィリピンの場合を見ても、日本は、一応「独立」を認めた上で「同盟条約」なるものを結びましたが(四三年十月)、この条約には「大東亜戦争完遂」のための日本との政治・経済・軍事上の「緊密なる協力」が義務づけられていましたし(第二条)、さらに「フィリピン国は日本国のなすべき軍事行動のためいっさいの便宜を供与」するという付帯条項までついていましたから、日本の軍事支配の実態は「独立」後も少しも変わりませんでした。

 しかし、いまあげた御前会議決定の核心は、そのさきの部分――「その他の占領地域に対する方策」という部分にありました。次の条項を見てください。

 「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』『セレベス』は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握につとむ」。

 これらの地域は、ゴムや石油、錫など重要資源の産地として、日本がもともとねらっていたところです。そういう地域は、平気で「帝国領土」と決めてしまう。これが、領土的野心のむきだしの現れでなくてなんでしょうか。

 さらに、続く文章では、「ニューギニア」をはじめ、その他各地はそれに準じて方策を決める、という条項が続きます。

 ここには、「大東亜共栄圏」なるものの領土拡張主義の本音が、日本の支配者たちのまぎれもない言葉で、記録されています。


     『餓死した英霊たち』を読んで

    戦没者の半分以上が餓死者

 ――日本の政府・軍部の文書をずっと見てきましたが、日本の戦争の侵略的な本質――領土拡張主義の歴史がまぎれもない形で、そこに記録されているのですね。

 不破 私は、この記録に示された歴史の事実に正面からきちんと向き合うことは、日本の戦争について語るすべての人の最低の義務だと思います。それに目をふさいで、「日本の戦争の真の姿」を明らかにするなどというのは、あまりにも無責任で、あまりにもおこがましいことですから。

 そこでは、戦争を計画し指導し遂行した人たちが、領土拡張こそ「皇国の正義なり」という調子で自分たちの侵略主義を謳歌(おうか)しています。この事実をふまえるなら、「国が違えば戦争の見方が違って当たり前」といった暴論は口に出せないはずです。

 日本の戦争をふりかえるにあたって、私が最後に言いたいのは、動員されて戦場に出た日本の多くの兵士・軍人が、どういう戦争のなかでその生命を失ったのか、という問題です。

 世界にはいろいろな戦争がありましたが、戦争に出ていった軍隊がこれほど悲惨な目にあった戦争というのは、私は世界にほかに例がない、と思います。軍人・軍属あわせて二百三十万人の戦没者が出ていますが、この半数以上が餓死者なのです。

 この問題について、自分自身も戦場体験をもつ歴史研究者の藤原彰さんが『餓死した英霊たち』(二〇〇一年 青木書店)という著書を残しています。

 藤原さんは、多くの餓死者を出した戦線や戦場を一つ一つ研究しながら、なぜこんな戦争になったのかを詳しく明らかにしています。私は、ここで取り上げられた戦場の悲惨な様子について、あらましは知っていましたが、藤原さんが綿密にまとめたその全貌に接して、あらためて大きな衝撃を感ぜざるをえませんでした。

    「ガダルカナル」とはいかなる戦争だったか

 不破 悲劇的な戦闘の最初になったのは、四二(昭和十七)年八月から四三(昭和十八)年二月にかけてのガダルカナル作戦です。ガダルカナルというのは、太平洋の南西部に連なるソロモン諸島のいちばん南の方にある島ですが、日本軍は、ここに約三万一千人の兵力を送り込み、約二万一千人の生命を失いました。その二万一千人のうち、戦死者は五千―六千人、残りの一万五千人は餓死者でした。なぜ、こんな結果になったのか。

    補給を考えずに大軍を送り込む

 不破 ガダルカナル島ははじめ、日本軍が基地をつくりかけていました。そこへ米軍が上陸して占領されてしまった。“それ奪回せよ”ということで部隊を送るのですが、制空権を奪われていますから、輸送船が使えないのです。やむをえず駆逐艦に分乗して行きますが、駆逐艦では兵員を運ぶのがやっとです。上陸した部隊は、重火器は持たず、食糧も七日分しか持たされなかった。それで銃剣だけで突撃して、たちまち全滅してしまいます。これがことの始まりでした。そのあとも、同じような上陸作戦をくりかえして、失敗は続きます。

 大本営は奪回作戦に固執し、送り込む兵力はどんどん大きくなるが、食糧や武器の補給の困難さは増すばかりです。作戦は長引き、上陸した部隊に飢餓地獄が広がりますが、大本営は作戦中止、部隊撤退の決断がつかず、やっとその決断を下した時には、投入兵力の半分、一万五千人が餓死したという戦争でした。

 この部隊の司令官だった百武中将がその責任をとって自決しようとした時、それを押しとどめた今村均大将の言葉が残っています。

 「ガ島での敗戦は、飢餓の自滅だ。飢えはあなたの責任ではない。補給を考えずに、戦略戦術だけを研究し、すでに制空権を失いかけている時機に、祖国からこんなに離れ、敵地に近い小島に、三万もの大軍を送りこんだ、軍中央がおかした過失だ」。

 まさに敗戦の原因を的確についた言葉でしたが、日本軍の中央部は、そこから何も学ばず、同じ悲劇が太平洋戦争中無数にくりかえされました。

「飢餓」戦線は全域に広がっていた

 ――恐ろしい話ですね。ガダルカナルの教訓は、生かされなかったのですね。

 不破 ガダルカナルの悲劇は、戦争中の日本では、いっさい国民にはかくされたままでした。戦争指導者たちは、その後も、同じやり方で、多くの戦線を指導し続けたのです。この表を見てください。この大戦(一九三一―四五年)の陸海軍の戦没者を、地域別にまとめた数字です。この数字は厚生省援護局のもので、藤原さんの著書からとりましたが、見やすくするために、いくつかの地域をまとめたところもあり、その上で、戦没者数の多い地域だけをその順でならべてみました。

 フィリピン  四九万八六〇〇人

 中国本土  四五万五七〇〇人

 中部太平洋(小笠原諸島を含む)   二六万二四〇〇人

 南西太平洋(ソロモン、ビスマルク諸島、東ニューギニア) 二四万六三〇〇人

 ビルマ    一六万四五〇〇人

 日本本土  一〇万三九〇〇人

 蘭領東インド(西ニューギニアを含む)   九万〇六〇〇人

 沖縄      八万九四〇〇人

 地上戦が戦われた沖縄と、全土の空襲、さらに広島・長崎の原爆で多数の犠牲者をだした日本本土を別とすれば、これらの地域はすべて多くの餓死者を出した戦場なのです。戦争の時間的な順序を追って、見てみましょう。

 南西太平洋ここには、四二―四三年以後、十六万を超える大軍を投入して標高が四千メートルの大山脈を縦断してニューギニアの首都を手に入れようとした無謀なポートモレスビー攻略作戦、合わせて十六万の陸海軍部隊を孤島に置き去りにしたソロモン、ラバウル作戦など、補給無視の悲劇的な作戦があいついで強行されました。

 ビルマ補給無視の暴挙できわだっているのは、四四年、ビルマ方面軍がくわだてたインパール作戦です。十万の大軍に、補給・兵站(へいたん)の用意もせず、密林・山脈・大河を越えて遠くインドへの侵攻を命じたこの作戦は、最初からなんの成算もない暴走でした。映画「きけ、わだつみの声」は、その作戦の悲惨な結果を描いていますが、退却の道々には日本兵の死体が果てしなく残されました。

 中部太平洋四三―四四年に米軍の島づたいの進攻作戦を正面から受けた島々――マキン、タラワ、クェゼリン、サイパン、グアム、テニアンなどでは、日本軍の「玉砕」があいつぎました。太平洋のその他の無数の島々には、なお十数万の日本軍部隊が配備されていたのです。これらの部隊は、本土からの補給は断たれ、現地には食糧確保の条件もなく、戦争の終結まで飢餓地獄に追い込まれざるをえませんでした。

 フィリピン四四年十月、米軍のレイテ島上陸に始まったフィリピン戦は、日本軍にとって最悪の戦場となりました。とくに陸海八万四千の兵力を投入したレイテ島では、転進二千二百余人、生還(捕虜)二千五百余人だけで、死者は七万九千人をこえ、その多くが飢餓によるものだったとされています。その惨状は、大岡昇平さんが『レイテ戦記』で克明に記録しています。同じ運命は他の島々に配備された日本軍をも襲いました。フィリピン戦での日本軍の戦没者約五十万人について、厚生省引揚援護局の公式報告も、「作戦全期間を通じ病餓死に依る損耗は戦死、戦傷死に依る損耗を上廻った」(「比島方面作戦経過の概要」一九五七年)と述べています。

 中国戦線補給や兵站の条件がよいはずの中国戦線でも、最後の二年間には、「戦病死」の数が戦死、戦傷死の数をはるかに上回るという状態が広がりました。この「戦病死」のなかに、栄養失調死が多くふくまれていることは、よく知られた事実となっています。藤原さんは、ここでも、四十五万の戦没者の過半数が「戦病死」、それも栄養失調やそのための体力消耗など「広い意味での餓死」だったと推測しています。

 ガダルカナルでの悲惨な経験もむなしく、同じ悲劇が最後まではるかに大きな規模でくりかえされたのです。

地図

  

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校で教えない近・現代史

2006-09-24 | 世界の変化はすすむ


                                                  2006年9月24日(日)「しんぶん赤旗」

        日本の戦争―領土拡張主義の歴史

                          不破哲三さんに聞く

     第4回 南進作戦と日米交渉


    新たな野望の実現をめざして

 ――それで、一九四一年が、いよいよ新たな侵略的野望の実行の年になったわけですか。

 不破 いや、南進作戦が国策となると、戦争の準備はただちに始まるのです。海軍は、一九四〇(昭和十五)年の九月段階に、対米戦争をふくめ南方作戦の準備をほぼ完了したと言っています。陸軍は、それまで新たな戦線としては北進(対ソ戦)を想定していたわけですから、切り替えに時間がかかるのですが、陸軍も、作戦計画の研究・立案から始めて、その年のうちには、具体的な手を次々と打ちはじめます。

 その当面の大目標は、フランス領インドシナ(仏印)に日本軍を進出させて、南方作戦の足場を確保することでした。陸軍の南方作戦は、まず英領マレー半島を攻略し、続いてジャワ、スマトラ、ボルネオなど、蘭領東インドに進撃する、というものでしたから、どうしても、仏印を日本軍の前進基地として手に入れる必要があったのです。

 仏印の確保は、まず北部仏印、ついで南部仏印と段階的におこなわれましたが、そのための対フランスの外交交渉を四〇(昭和十五)年六月からはじめて、四〇年九月、一応は「平和的進駐」に成功しました。「平和的交渉」といっても、「仏印側が抵抗した場合においては武力を行使して目的を貫徹する」と政府方針に最初から明記したうえでの交渉で、まさに“武力の威嚇”による交渉でした。名目は、蒋介石政権への援助ルートの遮断などが目的だと説明されましたが、実質は明らかに南進のための布石でした。

   「武力を以て貫徹」うたう

 不破 次は、いよいよ本命の南部仏印の獲得です。四〇年の十一月に仏印とタイのあいだに国境紛争が起こったのを見て、日本はその「調停」にのりだしましたが、その狙いは見え見えでした。タイには恩を売ってここを日本の軍事的な勢力圏に組み込み、フランスにたいしては南部仏印への日本軍の進出を認めさせることでした。

 この時も、最終段階で政府・軍部が決めた方針には、「仏国政府または仏印当局者にして我が要求に応ぜざる場合には武力を以て我が目的を貫徹す」ることを、はっきりうたっていました(大本営政府連絡会議〔六月二十五日〕「南方施策促進に関する件」『主要文書』)。フランス側はふたたび威圧に屈して、七月二十八日、日本軍は南部仏印に進出しはじめます。

 こうして手に入れた南部仏印は、四一(昭和十六)年十二月八日の開戦の時、日本軍の予定の計画どおり、マレー半島作戦のための前線航空基地として働きました。

     真剣な問題意識なしで始めた日米交渉

 ――こういう作戦と並行して、日米交渉が始まるわけですよね。

 不破 日本側の文書を読んで、これぐらい奇妙な交渉はないのです。

 日米関係の悪化の根源は、日本の中国侵略にありました。しかも、その日本が、ヨーロッパでの侵略国ドイツと軍事同盟を結び、自分は南方にさらに侵略戦争を拡大しようとしている。こういう状況を見て、これまでは輸出制限などの経済制裁を「かなり手控えて」いた(四〇〔昭和十五〕年九月の御前会議での原嘉道枢密院議長の表現)アメリカが、“これ以上侵略国への経済支援はできない”といって、禁輸などの措置を強化してきた、これが、日本がぶつかった“日米関係悪化”の現実でした。

 ですから、日米関係をまじめに打開しようと思ったら、中国侵略の戦争や次の南方進出について、日本として、なんらかの再検討の努力をすることが必要だったはずですが、そういう真剣な問題意識などなにもなしの日米交渉でした。

    米側は侵略政策の再検討求める

 不破 四一(昭和十六)年一月、松岡外相は、野村吉三郎元外相を大使としてアメリカに送りましたが、出発にあたって松岡が与えた訓令は、“日本にとっての大東亜圏の必要性をよく説明し、大東亜建設への協力を求めてこい”という程度のことで、まったく現実ばなれしたものでした。

 ところが、アメリカの国務長官ハルは、四月の野村との会談で、今後の日米協議の基礎として、(1)領土保全・主権尊重、(2)内政不干渉、(3)機会均等、(4)太平洋現状維持の四原則を提起しました。これは、これまでの侵略政策の根本的な再検討を日本に求めたものでした。

 その後の五月―六月の交渉でも、ハルは、より具体的に、「日本は太平洋の西南区域で征服のための武力行使はしないことを保証する用意があるか」「日本政府の心中に中国からの軍隊撤退の時期についてなんらかの決定的な計画はあるか、その撤兵の実際の保証はあるか」「『防共』を名目として日本軍を無期限に駐留させる政策は極度に重大な点だ」など、日米協議の核心にかかわる問題を、次々と提起しました。

 しかし、日本の政府・軍部の側には、これらの問題提起に対応する用意はありませんでした。

       対米英戦を決めた四回の御前会議

    交渉序の口での「対英米戦辞せず」の決定

 不破 それどころか、七月二日、日米交渉がまだ序の口ともいうべきこの時点で、日本は、南方の資源獲得のためには「対英米戦を辞せず」という重大決定をおこなったのです。

 それが、七月二日の御前会議での次の決定でした。

 「帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し、その他各般の施策を促進す。

 これがため対英米戦準備を整え、まず『対仏印、タイ施策要綱』〔四一〔昭和十六〕年一月三十日連絡会議決定〕および『南方施策促進に関する件』(六月二十五日連絡会議決定)により、仏印およびタイに対する諸方策を完遂し、以て南方進出の態勢を強化す。

 帝国は本号目的達成のため対英米戦を辞せず」(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」 『主要文書』)。

 この御前会議は、六月二十二日、ドイツが突如、全線にわたるソ連攻撃を開始し、独ソ戦が起こって十日後に開かれた会議でした。この間、一部に対ソ戦優先論が浮上して議論になったなかで、戦争拡大の主方向はあくまで昨年来準備してきた南方作戦にある、ということがこの会議で確認されたのですが、その機会に、「対英米戦を辞せず」というところまで一気に踏み切ってしまったのでした。

 ここには、戦争が主で交渉は従という日本側の考え方があからさまに現れていました。こうして、この会議が、対米英戦争について決定した最初の御前会議となったのです。

 ――ここで“靖国派”の好きな「自存自衛」という言葉が出てきますね。

 不破 前にも書いたのですが(「『自存自衛』は侵略主義の旗印」二〇〇五年、『日本の前途を考える』所収)、この言葉は、日本が南方進出作戦を問題にしだしたころから使われだすのです。日中戦争は悪者を懲らしめることを戦争目的にしたが、東南アジアに攻め込むのに同じ口実は使えない、しかしいくらなんでも「自衛」とは言えないから、日本が生きるために必要な資源をとる、これが「自存」だという理屈を考えたのでしょうね。さきほど紹介した北部仏印進駐の決定の時にも、南部仏印進駐の時にも、すべて看板は「自存自衛」でしたよ。

     九月御前会議で開戦の日程を決める

 ――それから、いよいよ戦争準備に拍車がかかるのですね。

 不破 この御前会議のあと、外相が松岡から豊田貞次郎に交代します(七月十八日・第三次近衛内閣)。松岡外相の存在が日米交渉の矛盾の焦点だと考えた結果ですが、もちろん、そんなことで矛盾が打開できるわけではありません。一方、御前会議が決定した戦争準備の方は着々と実行がすすみ、七月二十八日、日本は、アメリカの事前の警告を無視して、南部仏印進駐を強行しました。この行為は、ただちに対日石油輸出の禁止という制裁措置をまねきました(八月一日)。

     侵略行為認めない「大西洋憲章」

 不破 八月六日、近衛首相は、野村大使を通じて、近衛=ルーズベルト首脳会談での局面打開を提案します。これも、打開策を持たないままでの提案でした。しかも、この時期は、ルーズベルトが大西洋上で英首相チャーチルと会談し、世界戦争を終結させる国際的原則について協議している最中でした(大西洋会談)。この会談の結論として八月十四日発表された「大西洋憲章」は、いっさいの侵略行為とその結果を認めないことを、「両国国策の共通原則」として内外に明らかにしたのです。

 「第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土変更の行われることを欲しない。

 第三に、両者は、すべての国民に対して、彼らがその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する」

 これは、日本にその侵略政策そのものの再検討を、いやおうなしに迫るものでした。

 ところが、アメリカの態度がここまで明確に表明されても、日米交渉にのぞむ日本の交渉態度には、そんな切迫感は見られません。

 九月六日、ふたたび「御前会議」が開かれ、「帝国国策遂行要領」が決定されました。ここで、「十月下旬」という開戦の日程的な予定が決まったのです。大事な決定ですから、全文を紹介しておきましょう。

 「一、帝国は自存自衛をまっとうするため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意のもとに、おおむね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す。

 二、帝国は右に並行して米、英に対し外交の手段をつくして帝国の要求貫徹に努む。

 対米(英)交渉において帝国の達成すべき最少限度の要求事項ならびにこれに関連し帝国の約諾しうる限度は別紙のごとし。

 三、前号外交交渉により十月上旬頃に至るもなお我が要求を貫徹しうる目途なき場合においてはただちに対米(英蘭)開戦を決意す。

 対南方以外の施策は、既定国策にもとづきこれをおこない、とくに米ソの対日連合戦線を結成せしめざるにつとむ」(『主要文書』)。

対米交渉の方針は投げやり

 不破 「別紙」にある「最少限度の要求事項」を見ると、その内容のひどさに驚きます。

 「米英は帝国の支那事変処理に容喙(ようかい・口を出すこと)しまたはこれを妨害せざること」。「米英は極東において帝国の国防を脅威するがごとき行動にいでざること」。「米英は帝国の所要物資獲得に協力すること」。中国問題は日本の勝手にまかせて口をだすな、戦争に必要な物資は供給せよ、これが「最少限度の要求」だというのです。交渉など問題にしないという投げやりの方針でした。

 しかも、十月上旬までにこの要求をアメリカが承認するメドがたたなかったら、「ただちに戦争を決意する」。これが、首脳会談を提案したあとでの、戦争を指導する最高会議における決定なのですから、驚くほかありません。

 この決定をうけて、軍はただちに動きました。海軍の戦争準備は早くから完了していましたが、陸軍についても、大本営陸軍部は、九月十八日、作戦準備の命令を発し、南方作戦兵力の移動を開始しました。対米英戦争への最後の歯車がまわりはじめました。

 日米交渉に進展のないまま、十月下旬という期限のせまるなかで、自信を失った近衛は、十月十六日、政権を投げ出しました。代わりに、政権をひきついだのが、軍部を代表する陸軍大将東条英機でした。

      最後の対米交渉とは?

 不破 東条新内閣の成立をうけて、十一月五日、三たび御前会議が開かれました。ここでの決定は、前回よりもさらに進んだもので、十二月上旬の開戦が確定されたのです。決定の全文は次の通りです。

 「一、帝国は、現下の危局を打開して自存自衛を完(まっと)うし、大東亜の新秩序を建設するため、この際対米英蘭戦争を決意し、左記措置をとる。

 (一)武力発動の時期を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す。

 (二)対米交渉は別紙要領によりこれを行う。

 (三)独伊との提携強化をはかる。

 (四)武力発動の直前、タイとの間に軍事的緊密関係を樹立す。

 二、対米交渉が十二月一日午前零時までに成功せば、武力発動を中止す」(『主要文書』)。

 これは、前回の決定とは違って、戦争の開始を決断した決定でした。

 対米交渉は一応書かれており、野村大使への援助として、十一月六日、この決定をもって来栖特使がアメリカに派遣されました。この来栖特使とは、一年前にベルリンで日独伊三国同盟に調印した人物ですから、この人選をみても、この交渉にのぞむ日本側の姿勢がうかがわれます。実際、実情を知るもので交渉の今後に期待をかけたものは、誰一人としていませんでした。

 だいたい、「別紙要領」に書かれた交渉案(甲案)は、戦争が終わったあとも、日本軍が中国の北部とモンゴル地域および海南島に居座り続けることを柱としたもので、一九三七年に蒋介石政権に提示して黙殺され、一九四〇年にカイライ汪兆銘政権にようやく押しつけた「講和条件」の焼き直しでした。それを、今度はアメリカを仲介役にして中国に押しつけようとする提案ですから、アメリカがそんな提案を受け入れないことは、日本側にとっても、百パーセント確実だったのです。

        アジア・太平洋地域征服の戦争が発動

 不破 この決定から、作戦準備は大車輪で進行します。大本営海軍部は、十一月五日、連合艦隊に、決定ずみの対米英蘭作戦準備を実施せよとの命令を発し、大本営陸軍部は、六日、南方軍に南方要域の攻略を準備せよとの命令を発しました。ハワイの真珠湾急襲の任務を受けた機動部隊も、隠密裏に瀬戸内海から行動を起こし、十一月二十二日までには南千島・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結、十一月二十六日、真珠湾に向かって出港しました。

 十二月一日、開戦前の最後の御前会議が開かれ、次のことが決定されました。

 「十一月五日決定の帝国国策遂行要領にもとづく対米交渉ついに成立するにいたらず。帝国は米英蘭に対し開戦す」。

 こうして、十二月八日、日本軍は、東南アジア全域にわたる侵略戦争を開始するとともに、アメリカにたいしては真珠湾に先制攻撃による奇襲をくわえ、太平洋戦争に突入することになりました。一九四〇年、三国同盟とともにふくれあがってきた領土拡張主義の最後の段階――アジア・太平洋地域に大きく領土的野望を広げた「大東亜共栄圏」建設の征服戦争が、ついに発動したのです。

      “靖国派”のアメリカ責任論と歴史の事実

 ――この交渉について、日本側の要求を拒否したハル・ノートが、戦争への決定打になったという説を、“靖国派”がしきりに流しています。

        米国の態度は最初からはっきりしていた

 不破 この説のでたらめさは、これまで説明してきたことの経過がはっきり示しています。ハル・ノートは十一月二十六日に日本側に示されたアメリカ政府の回答ですが、日本の中国侵略は認めない、南方への侵略も認めないということは、ここで突然示されたものではなく、日米交渉にのぞむアメリカの基本態度として、最初からはっきりしていたことでした。

 とくにその最大の焦点をなすのは、中国からの日本軍の撤退の問題で、これが、アメリカは日本の駐兵を絶対認めないが、日本が絶対に譲れない問題だというのは、対米交渉の「最終」案なるものを決めた十一月五日の御前会議で東条首相自身が、声を大にして強調したところでした。

 東条「惟(おも)うに撤兵は退却なり。百万の大兵を出し、十数万の戦死者遺家族、負傷者、四年間の忍苦、数百億の国幣(こくへい・資金)を費したり。この結果は、どうしてもこれを結実せざるべからず。もし日支条約〔カイライ政権との「日華基本条約」〕にある駐兵をやめれば、撤兵の翌日より事変前の支那〔中国〕より悪くなる。満州・朝鮮・台湾の統治に及ぶに至るべし。駐兵により始めて日本の発展を期することを得るのである。これは米側としては望まざるところなり。しかして帝国の言うて居る駐兵には万々無理なる所なし」(『資料編』)。

 ここで東条が予想していた通りの態度を、アメリカ政府は、ハル・ノートで示したのです。これには、なにも日本側が驚くことはなかった。それが分かっていたからこそ、軍部は、十一月五日の御前会議の開戦決断後、ただちにその実行方にとりかかったわけで、ハル・ノートをアメリカが示した十一月二十六日というのは、真珠湾攻撃をめざす日本の機動部隊が南千島から早朝に出撃したその日でした。

 歴史の事実に多少ともまともに向き合おうとするものだったら、日米交渉のこのなりゆきをもって、開戦の責任をアメリカになすりつけるような議論は、およそ口にできないはずです。

 (つづく)

 (次回は二十五日付で「『共栄圏』と悲惨な戦場」を掲載します)


 訂正 連載第二回(十七日付)の右ページ、「盧溝橋事件が北京近郊で発生」の小見出しがついた段落の末尾三行をつぎのようにさしかえます。

 「…七月九日、双方のあいだで停戦合意が成立、十一日、停戦協定が調印されました」

 また、「停戦協定を無視して全面戦争に突入」の中見出しのあとを「不破 ところが、十一日の夕刻、」と改めます。

 

   後日ブログ本文を訂正しておきます。その時は「訂正」を削除します。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共産党・都議団申し入れ

2006-09-24 | 市民のくらしのなかで


  控訴せず通達撤回を

          党都議団が都に申し入れ


 日本共産党東京都議団は二十二日、東京地裁が東京都教育委員会に対し「日の丸・君が代」の強制は違憲・違法だとする判決を出したのを受け、中村正彦都教育長に控訴しないよう申し入れました。

 渡辺康信、吉田信夫、曽根はじめ、大山とも子、清水ひで子の各都議が申し入れました。

 渡辺氏は、都教委が二〇〇三年十月に「日の丸・君が代」の実施方法を細かく定めた通達(10・23通達)をだし、教職員に起立・斉唱を強制し、従わない者には処分を行ったことに対し、東京地裁判決は教育への「不当な支配」を禁じた教育基本法一〇条、思想・良心の自由を定めた憲法一九条に違反するものだと指摘していると強調。地裁判決の指摘は、日本共産党都議団が主張してきたことと一致していると説明し、「都教委は控訴せず、10・23通達を撤回すべきだ」と求めました。

 中村教育長は「申し入れはうかがいました」とのべました。

 東京の党組織は同日、教育基本法改悪阻止を訴えるいっせい宣伝にとりくみ、判決が法改悪の危険性をあらためてうきぼりにしたと強調しました。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっぱり、憲法!正義!良心!

2006-09-24 | 市民のくらしのなかで
9月21日新聞のトップ記事はどこも東京地裁の判決でした。

            東京地裁判決

  拒否の自由「日の丸・君が代」

      都教委通達は「不当な支配」


 東京都教育委員会が「日の丸・君が代」を強制する通達を出したことは違憲・違法だとして教職員四百一人が訴えた裁判で東京地裁は二十一日、「日の丸」に向かっての起立と「君が代」斉唱の義務はないとする原告の主張を全面的に認める判決を言い渡しました。難波孝一裁判長は、通達は教育基本法一〇条の「不当な支配」に該当し、教職員には憲法一九条の思想・良心の自由に基づいて起立・斉唱を拒否する自由があるとのべました。


写真

(写真)「画期的判決」などの、のぼりを掲げる弁護団=21日、東京地裁前

 予防訴訟といわれる同訴訟は、都教委が二〇〇三年十月に「日の丸・君が代」の実施方法を細かく定めた通達(10・23通達)を出して教職員に起立・斉唱を強制したことに対し、その義務はないことの確認を求めて都立学校の教職員らが都と都教委を相手に起こしたものです。都立学校では通達にもとづいて校長が職務命令を出し、従わなかった教職員が毎年大量に処分されています。

 判決は、通達とこれにともなう都教委の指導は「教育の自主性を侵害するうえ、教職員に対し一方的な理論や観念を生徒に教え込むことを強制することに等しい」とし、教育基本法一〇条一項の「不当な支配」に該当する違法なものだと判断。「日の丸・君が代」が「皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱」として用いられてきたことは「歴史的事実」と指摘し、懲戒処分までして起立・斉唱させることは思想・良心の自由を侵害するとのべ、違憲判断を示しました。

 教職員には起立・斉唱の義務やピアノ伴奏の義務はないとし、起立しないことなどを理由に処分してはならないとしました。さらに、都教委の通達とそれにもとづく各校長の職務命令によって原告らが精神的損害を受けたことを認め、都に一人あたり三万円の賠償を命じました。

 中村正彦都教育長は同日、「これから検討するが、控訴することになる」と語りました。


判決の骨子

 東京地裁判決の骨子は次のとおり。
 【起立、斉唱義務】
 国民の間には国旗掲揚、国歌斉唱に反対する者も少なくなく、こうした主義、主張を持つ者の思想・良心の自由も、憲法上、保護に値する権利。起立、斉唱したくないという教職員にこれらの行為を命じることは自由権の侵害だ。
 【都教委の指導の是非】
 都教委の一連の指導は「不当な支配」を廃するとした教育基本法一〇条に違反。憲法一九条の思想・良心の自由に対し、許容された制約の範囲を超えている。
 【学習指導要領】
 学習指導要領の条項が教職員に対し、一方的な理論や観念を生徒に教え込むよう強制する場合には「不当な支配」に該当する。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界の中での中国

2006-09-24 | 世界の変化はすすむ

 

 「人民網日本語版」2006年9月23日

 

    胡錦濤国家主席、

                    

                    米国財務長官と会談



  胡錦濤国家主席は22日午前、米国大統領の特別代表として訪中したポールソン財

務長官と人民大会堂で会談し、以下のように述べた。

  中米両国は共同で「経済戦略対話」の発足を宣言した。両国ともこの枠組みを十

分に利用し、平等な対話、誠意のこもった交流を通して、両国ともに関心を持ってい

る二国間および全世界における経済戦略の問題について検討し、両国上層部の決

定に提言を行っていくべきだ。また、この枠組みおよび、中米商業貿易連合委員会、

中米経済連合委員会などの役割を十分に発揮し、相互補完しつつ、中米の経済貿

易協力関係を深め、両国の発展を促進するべきだ。

  
  中国は米国とともに努力して、両国の利益を向上し、互いに関心を持ち、尊重し合

いながら、中米の建設的な協力関係を全面的に推進していき、平和で繁栄した世界

を作っていきたいと願っている。

 
   ポールソン財務長官は以下のように述べた。 

  
  米中経済は世界で最も重要な二国間経済関係の一つだ。両国首脳の重視と支持

のもと、米中両国が建設的な経済戦略対話を発足し、重要かつ長期的な経済問題

について討論することは、互いに理解を深め、経済リスクを避け、経済貿易協力およ

び米中の建設的協力関係を発展させることにつながる。このことは米中両国および

世界にとって、有益なことだ。(編集SN) 

 
   米中は、たえず高官同志の話し合いをしているのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本共産党・世界を翔ける!

2006-09-23 | 世界の変化はすすむ

 

 日本共産党の野党外交は、世界平和に大きく貢献しています。

私たちの視野が、世界的にものを見るように心がけなければなりません。

 

 日本共産党代表団のパキスタン訪問

   両国協力に新しい視野開く

           地元メディア 志位委員長の発言を詳細に


 【イスラマバード=豊田栄光】

 十六日から二十日までパキスタンを訪れた日本共産党代表団(団長・志位和夫委員長)。訪問する先々で地元メディアが取材にやってきました。

 国営通信社APPは、「パキスタンと日本の協力に新しい視野開く、と首相」との見出しをつけて、十八日におこなわれた志位委員長とアジズ首相の会談についての詳細な記事を、写真つきで配信しました。

 同記事は冒頭で、日本共産党の訪問が「両国関係をより豊かにし、協力と相互理解の新しい視野を開いた」とアジズ首相がのべたと報じています。

 さらに同記事は、パキスタン政府が核兵器廃絶のイニシアチブを発揮するよう求めるなど、志位氏がアジズ首相との会談で主張した内容を詳しく伝えています。

 「志位和夫氏は貧困の根絶、紛争の平和解決がテロリズム根絶にとって重要であると述べた」

 「彼はイスラムとテロリズムを結びつけるのは誤りであると語った」

 「志位和夫氏は国際テロリズムへの対処で、国連がもっと積極的役割を果たすべきだと言った」

 「志位和夫氏は、核兵器廃絶のためにイニシアチブをとる必要性を強調した」

 翌日十九日付、現地ウルドゥー語紙アサスは、APPが配信した志位氏とアジズ首相の握手写真を一面に掲載し、別の現地語紙ナワイワクトも会談があったことを一面で報じました。

 英字紙ザ・ニューズは「弱さが紛争をはぐくむとアジズ首相 日本共産党チームと会う」との見出しを付け、APP配信記事を載せました。

 十九日に行われた志位氏とモハメド・ミヤン・スムロ上院議長との会談については、翌二十日付のウルドゥー語紙オサフ紙が一面で写真入りで報じました。

 国営パキスタンテレビ、ニュース専門局ドゥーム・ニューズなど四局が、志位氏とアジズ首相の会談、志位氏の下院外交委員会議員との議論(十九日)、志位氏とスムロ上院議長との会談の模様など、日本共産党代表団の活動を、連日、三十秒から一分半の枠で放映しました。(しんぶん赤旗より)

 

「パキスタンと日本共産党との交流」の意味を、平和な世界を作り上げるための事業をどのように進めるのかという立場に立って、歴史的・世界的に考えてみてください。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最終日の大橋討論(案)

2006-09-20 | 市民のくらしのなかで


20日午前、議会運営委員会があり、22日最終本会議の議事日程を確認しました。

私は、以下の討論を行うことになりました。(案です。当日若干変るかもしれません)

 私は、日本共産党議員団の大橋 満でございます。議員団を代表して、

議案第50号 平成17年度(05年度)向日市一般会計決算の認定に対する「反対討

論」を行います。
 
 先日ドイツの友人からメールがあり、その中で「自民党の総裁選挙が行われており

ますが、3人とも日米軍事同盟推進・憲法改定・増税だから何を基準に選ぶのでしょ

うね。一人くらい憲法を守ると言う人が出てもいいのに・…」と書いてありました。なる

ほど外国から見ればそのように写っているのです。

 日本ではこの間小泉政治によって、世界に類例のない異常な政治が推し進められ

ました。
 
 その特徴は、1、過去の侵略戦争を正当化する異常な政治。  

2、アメリカいいなりになっている異常な政治。

3、極端な大企業中心主義の異常な政治でしたが、総裁選の論戦を聞く限り、この異

常に立ち向かい、見直しをしようと言う人は誰もいません。どなたが新総裁・新総理

なられようとこの路線を続ける限り新政権に全く未来はありません。
 
 日本共産党は、この3つの異常な事態をなくし、平和と暮らしをよくするために全力

をあげて頑張ります。
 
 
 さて本決算は、今申し上げたような政治情勢のもとで、執行されましたが市民の暮

らし・福祉・営業に重大な悪影響を与えたのであります。
 
 私は、地方自治体の仕事は国の悪政から住民の命と暮らし・福祉を守る防波堤と

なり、さらにその地域の特性を生かして住民の暮らしを守る施策を進めることである

と考えています。その立場から市長の政治姿勢と本決算の内容を分析し、討論する

ものであります。

 
 まず反対理由の第Ⅰは、国民に痛みばかり押しつける小泉内閣に立ち向かい、市

民の命と暮らしを守るという、自治体本来の役割を積極的に果たそうという姿勢が見

られなかったことであります。市長の最大限の努力は全国市長会を通じ国に要望す

るというところまででした。

  
 具体的な例の1つ目は、国民がやめてほしいと願っていた、医療制度・年金制度な

ど社会保障制度の改悪については、市民の暮らしを守る立場で批判するのではな

く、是認する態度を表明され市民検診補助を打ちきり有料化し1000円としたことで

あります。

  
  2つ目は、政府が進める三位一体の改革については、国庫補助負担金と地方交

付税の大幅削減をもたらしており、その本質がアメリカと財界本位の21世紀の日本

をつくる財政的保障を確立するのがそのねらいであり、そのために国民と地方自治

体に痛みを押しつけるものであるにもかかわらず「反対」の意思を表明されず、政府

の方針に従っておられるからであります。

  
  3つ目は、さらに政府が2005~06年度の2年間で計画している、厚生年金等

の保険料引き上げや定率減税の縮減・廃止をはじめ総額7兆円もの新たな国民負

担増計画についても、見守るという態度であります。いずれも市民生活を守る立場に

立つべきであります。
 
 大企業と高額所得者への減税を続けながら、庶民だけをねらい撃ちにして負担増

をすすめることは、断じて許すことの出来ないものであります。

  
  4つ目は、国連憲章を踏みにじったアメリカのイラクに侵略戦争に小泉内閣がい

ち早く支持を表明し、自衛隊の憲法違反のイラク派遣や、自衛隊のイラクからの即

時撤退について、市長は国が決める事と言って、自分の意見をいわず政府の見解

を暗に支持する答弁に終始されていましたが、平和都市宣言を行っている自治体の

首長として相応しくありません、また、平和を願っている市民の思いと相容れない政

治姿勢であります。
 
  今、アメリカ国内では、イラク戦争は間違っていた、大量破壊兵器もアルカイダと

の関係もなかったと言う声がどの調査でも過半数以上と大きくなり、道理も大義もな

い戦争で多くの青年が死亡し傷つき、病気になり、さらにイラクの人々を大量に殺し

国をつぶしているとして、ブッシュ政権の支持率が、最低になってきています。市長

の態度は、今でもすぐ改めるべきであります。

 

  反対理由の第Ⅱは、国の悪政に追い打ちをかける、「行政改革アクシヨンプラン」

を推進されていることであります。

  具体的な事例の1つ目は、保護者の心配や不安を無視して保育料値上げを行っ

たことであります。今後、国基準75%の保育料に向かって毎年値上げすることであ

り、市長の任期が過ぎた平成22年も後までの値上げ計画は認められません。京都

府内でも「誇れる保育行政」として評価されているのに、その後退は、深刻な不況と

雇用不安・就職難などで苦しむ若い保護者・市民に一層追い打ちをかけるものであ

り、値上げの撤回をもとめるものであります。

  
  2つ目は、これまで市民生活部や健康福祉部や教育委員会の予算の中で行って

きた制度を事実上廃止したり、削減する内容が数多くあることです。

① 厚生常任委員会で大議論となった規格葬儀の委託金の廃止は、あまりにも唐突

であり市民から大きな不信の声が今も出ています。

② 特定疾患と原爆被爆者への個人見舞金が廃止されましたが余りにも冷たい態度

です。

③ 早期発見・早期治療は健康都市を築く要であるのに、乳ガン・子宮ガン検診の期

間を今までの1年に1回を2年に1回にし、乳ガン検診料を600円にされましたが

「健康都市」がないています。ただちに元にもどすべきであります。

④ 関係者に説明や合意のないまま、留守家庭児童会育成費の夏期合宿傷害保険

負担金が廃止されたことも、子供の命に対する公の責任を一部放棄するものであり

ます。

  
  3つ目は、指定管理者制度の導入であります。市民の暮らしやサービスを向上さ

せ、応援するという公的責任を放棄し、公の施設の管理運営を民間事業者に委ね、

市場原理による表面的な安上がりのみを、ねらったものであります。
 
  指定管理者制度は「小泉改革」の地方自治体版であり、住民の暮らしや福祉の

向上、地方自治の拡充をめざすものではありません。
 
 また、市民温水プールの指定管理者制度の導入をきっかけに、公民館やコミセン

をはじめとする公共施設の有料化や使用料の値上げをすすめようとしています。ま

た、このことは市の正規職員を削減し、さらに非正規職員を拡大し公の責任を放棄

するものであります。
 
 日本共産党議員団は、指定管理者制度の導入と公民館・コミセンの有料化や施設

の使用料値上げに反対であります。また、今後に計画されている保育料の毎年値上

げ、学童保育保護者協力金の値上げ、水道料金の値上げ、下水道使用料の値上

げなどは、市民の暮らし向上の願いを踏みにじるものであり、認めることは出来ない

のであります。

 
  反対理由の第Ⅲは、市長の目指す、「共有」「共鳴」「共生」のまちづくりは具体性

に欠け、本会議ではすべての会派からわからないので説明せよと質問が相次ぎまし

たが、議会以外のところで重要な方針を決めるのは、住民の願いとかけ離れたこと

になり、地方自治の本旨から外れてくるものであり賛成できません。

  
  具体的な内容の1つ目は、市長の鳴り物入りで設置されたコラボレーション研究

所は、設置要綱の職務では、①「向日市市民協働促進基本方針」の策定に関するこ

と。②「コラボセンター(まちづくりセンター)の設置に関すること。③その他市民と行

政とのコラボレーションに関すること。と明記されており、市長の私的諮問機関との

説明だったのであります。
 
 ところが、コラボ研の予算額では、諮問機関から逸脱した、業務委託料として勝山

公園再生30万円が計上され議員からも款項目が違うと異議が出ました。市長の私

的諮問機関だから何でも出来ると勘違いをなさっておられるのではないでしょうか。

  
  2つ目は、北部のまちづくりに関する予算は、計上されていましたが、中心市街地

を活性化させるための政策予算が不十分であります、これでは均衡のとれたまちづ

くりにはなりません。
 
 また、健康増進センターが介護予防も含めた市民の健康増進に役立つ施設となる

のかは未知数であり、特に利潤追求を目的化すれば、介護予防が後景に追いやら

れることが危惧されると、指摘したとうりになっていますます。
 
 民営化先にありきで儲かればよいという考えでは困るのであります。

  
 3つ目は、西ノ岡丘陵の緑や美しい田畑を守り、史跡を保存・整備する施策がない

ことであります。開発と言う名のもとで、西ノ岡丘陵のふもとが乱開発され、貴重な史

跡が保存・整備されず、美しい優良農地が北部開発などで激減してしまうのでありま

す。
 
 まちづくり条例の策定をめざしておられますが、乱開発に規制を加えなければ、ま

ち壊し・自然破壊は阻止できないのであります。

 
 反対理由の第Ⅳは、民主的で市民の願いを実現させるという市政運営が欠如して

いることであります。

  
 1つ目は、解放同盟へのトンネル補助金である山城地区連絡協議会分担金

は、今後も特別扱いを認めるものであり、正当性がなく直ちに中止すべきです。京都

市では、同和行政の甘さから、法律違反・条例違反・事件の規模の大きさ、金額など

行政の違反のスケールの大きさは違いますが、「解同」に対する甘い対応と法を守ら

ないことでは同じです。法の遵守を求めるものであります。

  
  2つ目は、「日の丸・君が代」の押しつけに代表される管理教育の行きすぎであり

ます。卒業式・入学式に来賓を含めて「日の丸・君が代」の態度を調査し報告したリ、

向日市のある小学校で音楽の時間に一人ひとり「君が代」を歌わせチェックするとい

うおどろくべきことが行われていました。また、低学年から学力診断テストを独自に実

施するなど、ゆとりある豊かな教育を実践するという本質的なところが忘れられてお

り、文科省と府教委ばかり気にする教育はやめるべきであります。

  
  3つ目は、市内巡回バスの運行についてであります。市長選挙の時、有権者に向

けて市長は実現を訴えられ、議会では市民からの請願がすでに採択されています。

一日も早いバス運行の実施が待たれているのに、本格的な調査のための予算を組

まず、運行試算を議員資料として手渡されただけであります。議会制民主主義のル

ールを守るべきであります

 
 反対理由の第Ⅴは、市民の立場で京都府に対して積極的な交渉や対応ができて

いないということであります。

  
  1つ目は、京都府条例に基づいて、年間使用水量の申告と府営水道の給水協定

の抜本的な見直しをなぜ、もっと強く交渉しないのか、ということです。
 
  水道料金の引き下げは、理論的には決着がついた問題です。後は市長がはっき

りして頂けば市民の願いは実現するのです。水道の赤字問題と料金引き下げ問題

の解決が出来るか出来ないかは、市長の考えと態度にあると言うことを明確にして

おきたいと思います。

  
  2つ目は、京都府の道路である久世北茶屋線の拡幅整備工事に、歴代市長が5

0億円もの市民の税金を投じましたが、議会で京都府に対して起債の利息負担につ

いてお願いしていると答弁されながら、その後の進展はなく、おまけに、第2工区の

地元負担金まで本市が支出するという気前の良さであります。久世北茶屋線の土木

債残高は年度当初4億5390万円でありましたが、府に府道整備予算を求めるべき

であります。

  
  3つ目は、市民や保護者は30人以下学級の早期実現を強く願っているのに、向

日市は40人学級と少人数授業をはすすめています。京都府は昨年の12月府議会

で『「少人数学級」ついては、市町村の教育委員会の選択要望があれば、小学校低

学年においても積極的に応じていく』と知事・教育長が答弁されています。市民の強

い願いを積極的に受け止め、早期実現のために京都府に積極的に要望すべきであ

ります。その上に立って向日市のクラス編成の独自性を出されれば良いと思うので

す。

  
  4つ目は、向日町競輪対策、迷惑料の減額の受け入れであります。向日町競輪

の連日の開催により、市民はかなり競輪ストレスが増えてきています。その迷惑感を

逆なでするような迷惑料の減額であります。「儲からないから渡せない」と言うことを

なぜ京都府だけ認めるのですか。市民は儲からなくても市民税も,保険料も固定資産

税も支払わなければなりません。市民のかたから「我々も儲からない時は全ての公

共料金を減らしてほしい」と言われ京都府の態度が正しいという説明が出来ません。

早く迷惑料を元に戻せと交渉してください。


次に指摘しておきたい問題が何点かございます。

 その1つ目は、向日市始まって以来、監査委員会の臨時的な監査が行われ、本議

会に監査委員会から「学校教育課」に対する随時監査報告が出されました。それだ

けに重大な内容が含まれていたのであります。報告の中には『不適切な事務処理が

指摘され、111万4225円が一般会計に繰り入れされたと報告されています。』そう

して、『今後は、①関連する法令を遵守し、不明朗な金銭の取り扱いが行われないよ

う指導すること。②教育長に対して「教育委員長をはじめ教育委員各位が事態を認

識、把握され、的確な指揮監督できる体制を築かれることを念願する。」』とあり、市

教委の民主的な集団指導体制が欠如していることが指摘され、新たに的確な指揮

監督ができる体制を築かれたいと厳重注意されているのであります。この問題も金

額の大きさと全庁的ではなかったという違いはありますが、岐阜県の裏金問題と同じ

性質の問題であったのです。今後も公金の正確な取り扱いについて、適正に行われ

るよう強く申し上げておきたいのであります。

  
  2つ目は、指定管理者制度が導入された施設も、市民の大切な税金で建設され

たものであり、今後も慎重な対応が必要であります。福祉会館やデイサービスにつ

いても、そこで働く職員や利用者の声を十分に聞くことが必要であり労働者の状況

も,自主報告をしていただき資料を掌握しておくべきだということを指摘しておきます。

さらに、指定管理者が色々な部門を他の会社に委託するなど、だんだん市や議会の

目の届かないところの行ってしまいます。他市でのプール事故はその典型です。最

後まで市が責任を果たす体制をきちっと確立していただきたいのであります。

  
  3つ目は、乳幼児医療費の就学前までの拡充の早期実現と対象年齢を1歳でも

拡大していただくこと。すし詰め保育の解消、途中入所の待機児童の解消、ゆとりあ

る豊かな保育を実践するため、保育所の新設や増築をすすめ、耐震診断と補強工

事の早期実現を図ること。保育所の民間委託を止め、保育の公的責任を果たしてい

ただくことを強く求めるものであります。

  
  4つ目は、くらしの資金の増額と通年化を行うこと。生活保護の高齢者加算がなく

なることで生活保護の高齢者の生活状況が心配されます。実態の把握と独自の支

援策を講じていただくことを求めるものであります。高齢者にも丁寧に対応できる総

合案内窓口の専任職員の配置を検討していただきたいと思うのです。
  
  5つ目は、障害者自立支援法の制定によって、心配されていたことが、その後の

事態で明らかになってきています。利用者と施設の運営に独自の補助制度の確立を

望むものであります。
  
  6つ目は、地域福祉計画に向け、計画策定委員会の公募なども行い、市民参加

を貫き、財源の削減ありきの福祉計画にならないようしていいだくこと。そして、今後

は市民座談会などがたくさん予定されていますが、市民の意見を十分聞くための対

策を考えていただくことをのぞみたい。
  
 7つ目は、定率減税などによる非課税世帯や低所得者への影響が心配されます。

現行の福祉施策が継続されるよう努力していただくこと。

  8つ目は、乙訓福祉事務組合若竹苑の今後のあり方について検討されていま

す。たくさんの問題が今後の事務組合などで議論されますが、訓練期間6年という条

例化問題が現在の利用者にとって大きな不安となっています。退所後の施設の受け

皿が保障されていないからです。十分に利用者の要望などをくみ取っていただき、公

的施設としての若竹苑の役割を果たされるよう強く望むものであります。

  9つ目は、住民基本台帳システムの運用は、費用がかかりすぎであり中止すべき

であります。パスポートの電子申請は,すでに中止が決定しています。

  10点目は、耐震診断補助の予算が組まれていますが、今後も拡充していただく

こと。また、耐震補強工事についても速やかに予算化していただくことであります。

  11点目に申し上げたいことは国・府の執拗な乙訓合併の押し付けに対して「今

回の合併押し付けは、国の交付金総枠削減」から始まったものであり府内の例を見

ても、自治体が破壊されており、市民の立場に立って向日市を破壊からまもり、合併

されないように強く望むものであります。

  12点目は、国民保護措置に関する基本方針の問題であります。

市長は、武力攻撃災害が発生する恐れや発生した時、独自の判断で住民を一時的

に退避させなけれならないとなっているが、安全な場所に退避させなければならない

が、どこをさしているのかご説明願いたい。ときいても、広域的に探すとのことでした

が、具体的には答えが出来ませんでした。核兵器又は生物剤を用いた兵器、敵のゲ

リラ特殊部隊の攻撃を避けることが出来る安全な場所があると言うのでしょうか。
 
「国民保護」の名目で、戦争に向けて国民総動員体制を作り上げるための方針であ

り認められません。憲法を守り戦争しない国づくりこそ市民の願いであります。

 次に、市民の要望が実現され、評価できることについて申し上げます。
 
1点目は、住民票発行のセキュリティー対策
 
2点目は、男女共同参画条例の制定
 
3点目は、平和行政
 
4点目は、上植野コミセンの改修
 
5点目は、あらぐさ福祉会への補助
 
6点目は、第6保育所の30人定員増
 
7点目は、第4学童保育所のエアコン設置
 
8点目は、幼稚園教材費補助(月3,200円~月3,300円)
 
9点目は、4ケ年で学校の普通教室に扇風機設置、第2向陽小学校のトイレ改修、

寺戸   中学校グランドの防球ネット改修
 
10点目は、石田川2号・3号雨水幹線、寺戸川3号雨水幹線
 
11点目は、まちづくり条例策定のための調査
 
12点目は、緑の基本計画策定のための調査
 
13点目は、くらしの道路整備、交通安全対策・バリヤフリーほか
 
14点目は、議会だよりの年一回の外面のカラー印刷化
 
15点目は、家庭訪問育児相談や精神障がい者の相談事業、難病患者のショートス

テイなどであります。

 以上、市長の政治姿勢に反対し、決算については、認められないところと指摘事項

と賛成するところを具体的に申し上げました。一つひとつについての採決ではなく、

一括して賛否を問うという地方自治法上の制約があるために、

日本共産党議員団の態度は「反対」といたします。以上で私の討論を終わリます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・不破さんのお話し

2006-09-19 | 世界の変化はすすむ

なぜ「事変」だと言い張ったのか

理由第一・アメリカからの物資輸入を断たせない

 ――日中戦争は、百万をこえる軍隊を海を渡って大陸に送った点でも、三七年七月から四五年八月まで八年以上にわたって続いた点でも、明治以来日本が経験してきた戦争のなかでもっとも大規模な戦争でした。ところが、日本政府は、戦争を開始した直後の時期に、この戦争は「戦争」と呼ばないで「事変」と呼ぶという方針を決め、そのことを最後まで言い張りましたね。その理由はどこにあったのですか。

 不破 日本政府がこんな無理なことに固執した理由は、大きくいって、二つあった、と思います。

 第一の理由は、アメリカからの物資の輸入を続けたい、という要求です。当時アメリカは、中立法という法律を持っていました。日本がほかの国と公然とした戦争を始めると、その条項が発動して、アメリカから戦略物資を買えなくなります。日本の戦争は、「英米依存戦争」という皮肉な言葉が生まれたほど、戦争に必要な物資の大きな部分をアメリカやイギリスから買いながらの戦争でした。それが断たれて、戦争の物資が輸入されなくなると困る、という経済的打算が、「事変」の名に固執した大きな理由だとされています。

理由第二・戦時国際法を投げすてた戦争

 ――それは、よく指摘される点ですね。もう一つの理由というのは…。

 不破 第二の理由は、さらに大きな問題です。それは、「事変」と呼ぶことで、日本は、戦時国際法を投げ捨てた戦争をやった、ということです。

 当時の世界では、戦争と平和に関する国際法は、まだ大きくおくれていましたが、戦時国際法――捕虜や一般市民にたいする人道的な対応など戦時の行動基準を定めた国際法規はかなり発達していました。日本も、それまでの戦争では、日清戦争や日露戦争でも、第一次世界大戦でドイツに宣戦した場合にも、天皇の「開戦の詔書」のなかで“国際法の範囲内で”行動することを明記し、戦時国際法をまもることを内外に約束しました。

 ところが、日中戦争では、そういう約束はいっさいなされず、逆に、出動した軍隊には、“戦時国際法はまもる必要がない”という通達が出されていたのです。

部隊派遣のたびに通牒を出す

 不破 実際、盧溝橋事件の約一カ月後、陸軍省から中国駐屯軍にたいして、陸軍次官名で一つの通牒=つうちょう=(三七〔昭和十二〕年八月五日付)が発せられました。それには、国際法の問題について、大要、次のようなことが書かれていました。

 「現下の情勢では、帝国は中国にたいする全面戦争をしているわけではないから、戦時国際法の具体的な条項のことごとくを適用して行動することは必要ない」。

 同じ「通牒」は、新しい部隊が中国に派遣されるたびに出された、と言います。

 日本の軍隊は、こうして、最初から戦時国際法を投げ捨てた上で、中国にたいする戦争を始めたのでした。この戦争が、中国の人びとにたいして、特別に残虐な戦争となった原因の一つはここにある、と私は思います。

「南京事件」を考える

 ――戦時国際法といえば、南京大虐殺がまず問題になりますね。

 不破 この事件に直接かかわることが、さきの「通牒」のなかにあるのですよ。「通牒」は、少し先のところで、“全面戦争でないのだから捕虜(俘虜)という言葉は使うな”と書いています。これで、日中戦争は、捕虜のない戦争、もっと正確にいえば、捕虜をつくってはならない戦争になってしまいました。

 捕虜への人道的な取り扱いは、戦時国際法で定められたもっとも大事な内容の一つです。日露戦争のときには、日本も捕虜収容所を各地につくり、割合によい待遇をしたと言われています。ところが、日中戦争は、捕虜をつくってはならない戦争でした。だから、日本軍は、捕虜が出たらどうするか、その対応策をまったく持たないで、あの大戦争をやったのです。

 いくら言葉の上で「捕虜のない戦争」と言ってみても、実際に戦争をやれば、多数の捕虜が出ます。しかし、日本軍は、捕虜のための収容所も用意していない、捕虜に与える食糧ももっていない、そうなると、捕虜が出たらとるべき対策は二つしかありません。釈放するか、殺すかです。日本が南京を攻め落とした時には、攻め込んだ日本軍の全体が、この問題に直面したのでした。

 私は、『歴史教科書と日本の戦争』(二〇〇二年 小学館)という本を書いた時、『昭和戦争文学全集』(集英社)に収められていた歩兵第三十旅団長(佐々木到一中将)の戦場記録『南京攻略記』から、次の一節を引用しました。

 「俘虜ぞくぞく投降し来り、数千に達す。激昂せる兵は上官の制止をきかばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨をかえりみれば、兵隊ならずとも『皆やってしまえ』といいたくなる。

 白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、俘虜に食わせるものの持合せなんか我軍には無いはずだった」。

 「敗残兵といえども、尚山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。したがって抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した」。

 ここでは、殺戮が激高した兵士の自然発生的な行為だとされていますが、旅団長である筆者自身、戦時国際法を念頭においている形跡は、まったく見られません。そして佐々木中将の日記には、「我支隊のみで二万以上の敵を解決した」と記録されているとのことです(藤原彰『南京の日本軍』一九九七年 大月書店)。

大虐殺は起こるべくして起きた

 不破 八月十三日に放映されたNHKの特集番組「日中戦争――なぜ戦争は拡大したのか」では、同じ南京攻略戦に参加した第九師団歩兵第七連隊(歩兵第六旅団の一部)の記録が紹介されました。その記録には「十二日間で六千六百七十人」を殺した、とありました。

 また歩兵第百三旅団からなる山田支隊を率いていた山田栴二少将の日記には、「捕虜の仕末に困り、……学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯(か)く多くては殺すも生かすも困ったものなり」(十二月十四日)、南京からの指示は「皆殺せとのことなり 各隊食糧なく困却す」(十二月十五日)、「中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末その他にて打合わせをなさしむ」(十二月十六日)、「捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸にこれを視察す」(十二月十八日)、「捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ」(十二月十九日)など、なまなましい記述が連続しています(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』二〇〇六年 大月書店)。

 南京攻略戦には、まとまった部隊としては十個の旅団が参加していました。一つ一つの旅団あるいは連隊(二つの連隊で一旅団を構成)がこれだけの数の捕虜を「処理」しているのですから、虐殺の規模が莫大(ばくだい)な数にのぼることは、容易に推測できます。

 日本の政府と軍部が、この戦争を、戦時国際法を投げすてた戦争として戦ったために、南京の大虐殺が起こるべくしておきたのです。同じ体制のもとで、同じような悲劇が、戦場となった中国の各地で無数にくりかえされたことは疑いありません。私たちは、日本人として、日本の戦争がこういう性格をもっていたことを、忘れるわけにはゆきません。(つづく)

図

(次回は二十日付で「三国同盟と世界再分割の野望」を掲載する予定です)


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び、不破さんのおはなし

2006-09-19 | 市民のくらしのなかで

2006年9月17日(日)「しんぶん赤旗」

日本の戦争―領土拡張主義の歴史

    不破哲三さんに聞く

  第2回 日中全面戦争


    華北・内モンゴルが次の侵略目標

 ――領土拡張主義の次の段階が、一九三七年の日中全面戦争ですね。

 不破 「満州事変」のあと、領土拡大の次の目標になったのは、「華北(かほく)」から内モンゴルにかけての一帯でした。「華北」とは、おおよそ河北省、山東省、山西省の地域で、当時の首都は華中の南京でしたが、華北には北京、天津などの中心都市があり、文字通り中国の心臓部をなす地域でした。内モンゴルのうち、熱河(ねっか)省は「満州国」に組み入れたものの、主要部分は日本の支配外でしたから、日本は、心臓部の華北からゴビ砂漠にいたるこの広大な地域を、領土拡大の次の目標として見定めたのです。

 日本軍は、あれこれの口実を設けて、華北・内モンゴルへの出撃を何回もくりかえし、武力を背景にしながら、この地域に、「自治政府」の名目で日本軍の息のかかった地方政権をつくり、この地域を中国政府の統治のおよばない特別地域にすることをくわだてました。これが、「華北分離工作」と言われるものです。三六(昭和十一)年一月、陸軍が決定して中国駐屯軍に指示した「北支処理要綱」では、分離工作の対象地域として、華北三省に内モンゴルのチャハル省と綏遠(すいえん)省をくわえた「北支五省を目途とする」と指定しています(「北支処理要綱」 『主要文書』)。

      盧溝橋事件が北京近郊で発生

 不破 日本軍のこういう工作にたいし、中国が抵抗し、華北が緊張に包まれているなかで、一九三七(昭和十二)年七月七日、北京の近郊で一つの事件が発生しました。この地域で演習をしていた日本軍になにものかが発砲した、というのです(盧溝橋=ろこうきょう=事件)。これは、六年前、関東軍がつくりあげた「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」の場合とは違って、現地では、日本軍も中国軍も、局地的なトラブルとして処理しようとし、七月九日午後六時半、双方のあいだで停戦協定が成立しました。

     停戦協定を無視して全面戦争に突入

 不破 ところが、その二日後(十一日)の夕刻、日本政府は、現地の状況など調べもせずに、閣議で中国への大規模な派兵を決定し、「華北派兵に関する声明」を発表したのです。「声明」は、七月七日の「事件」や現地での交渉の経過をすべてねじまげたうえで、「以上の事実にかんがみ、今次事件は、まったく支那〔中国〕側の計画的武力抗日なること、もはや疑いの余地なし」と決めつけ、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し、政府としてとるべき所要の措置をなすことに決せり」との態度を内外に明らかにしたものでした。派兵の内容は、朝鮮軍、関東軍の動員にくわえて、日本本土からも三個師団を海を渡って出兵するという、大規模なものでした。

 こうして、日本は、対中国全面戦争への道にふみきったのです。

 日本政府が、全面戦争を決断した理由は、明確でした。領土拡大のためには、鉄道爆破事件をでっちあげてでも、満州占領をやってのけた日本の軍部であり、万事承知の上でそれを追認した日本の政府です。今度は、事件が現実に起きたのですから、“華北・内モンゴルにたいする要求の貫徹のために、この事件を利用しない手はない”というのが、政府と軍部の思惑だったことは、間違いありません。

     「一撃で屈服」という戦略は破たんした

 ――日本政府は、どんな見通しをもって「派兵声明」を出したのでしょうか。

     情勢の根本的な変化を見誤る

 不破 “六年前には、日本軍が武力を発動したら、一撃で中国軍の抵抗を打ち破り、満州全土を占領できたのだから、今度も、一撃で中国軍を屈服させ、華北と内モンゴルを日本のものとすることができる”――これが、短期戦での勝利を確信した政府と軍部の打算でした。

 しかし、この打算は、中国の情勢変化をまったく見誤っていました。三一(昭和六)年の「柳条湖事件」が起きたのは、中国では蒋介石の国民党政府が共産軍討伐作戦に全力をそそいでいる時期でした。蒋の方針は「攘外必須安内」、つまり、外敵にあたるためには、国内の統一、つまり共産軍の撃滅が先だ、というもので、日本の侵略に本格的に対抗する構えがまったくなかったのです。

 今回は、この情勢に根本的な変化が起きていました。歴史的な大長征を成功させて中国北西部の陝西(せんせい)省に新たに革命根拠地をかまえた中国共産党は、「抗日救国」の呼びかけを各方面に発し、その呼びかけは蒋介石指揮下の軍隊内部にも影響を与えつつあったのです。

 三六(昭和十一)年十二月には、東北軍の司令官・張学良(父親の張作霖は、二八〔昭和三〕年関東軍に爆殺されました)が、蒋介石を逮捕して、「団結抗日」を迫るという大事件(西安事件)が起きました。その後も時間はかかりましたが、この事件を転機に、国民党政府には、「抗日」のために共産党と合作するという方針への大転換がはじまり、そのことは多くの人びとから大歓迎を受けました。

 中国のこの情勢変化を前に、「一撃で中国を屈服させる」という日本軍の思惑は完全にはずれ、日本は、なんの見通しももてないまま、百万を超える大軍を動員した全面戦争へと入りこんでゆきました。

     戦争目的を説明できない戦争

 ――“靖国派”の論者のなかには、「日中戦争で、日本は中国に領土要求など出さなかった」という論者もいます。「満州事変」は中国東北地方の占領、太平洋戦争は東南アジア諸国への侵略と、戦争目的が比較的分かりやすいのですが、日中戦争の場合は、独自の戦争目的があまりはっきりしない、という感じがありますが。

 不破 日本政府自身が、戦争目的をはっきり宣伝できなかったからですよ。私は、日中戦争の開戦が小学校二年生の七月、真珠湾攻撃が六年生の十二月という世代です。当時は、学校でも戦争のことは毎日のように先生が話すのですが、中国でなんのために戦争をやるかについては、「悪いことをやる中国を懲らしめるため」というぐらいしか、聞いた記憶がありません。いちばん歌われた軍歌も「天に代わりて不義をうつ」で、悪者の征伐でした。

 のちに、太平洋戦争を始めるとき、天皇の「宣戦の詔書」が出ました。そのなかに、これまでの戦争の歴史をふりかえるところがあるのですが、日中戦争の部分は、こうです。

 「中華民国政府曩(さき)に帝国の真意を解せず、濫(みだり)に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈(かんか・武器)を執るに至らしめ……」

 中国政府が日本の真意を理解しないで勝手なことをやったから、ついに武器をとったんだということです。国民に知らせるだけの大義名分が見つからないから、戦争をはじめて四年たってだした天皇の「詔書」でも、こういうことしか言えない。小学校で先生がいっていたことを、文語調に言い換えただけです。

    領土要求を「御前会議」で決定していた

 不破 ところが、日本政府は、相手の中国政府には、この要求をのめという「和平条件」の形で、戦争目的を通告しているのです。

 日中戦争をはじめた三七(昭和十二)年の十一月に、ドイツの中国駐在のトラウトマン大使から、和平の仲介をしたい、という話がありました。当時、ドイツは、反ソ連・反共産主義の立場で日本と防共協定を結んでいましたが、中国の蒋介石政府とは以前から深い関係があって、軍事的な援助などもおこなっていたのです。

 日本側は、その申し入れをうけて、十二月二十一日、閣議で「講和交渉条件」(四項目の基本と九項目の細目および二項目の付帯条件)を決定し、翌日、それをドイツ側に渡しました。国民党政権は、この交渉の話がおきた時、最初から、中国の「領土主権の完整」が大前提だと言っていたとのことでしたし、日本側が示した条件は、その基準にてらせばまったく問題になりえないものでした。しかも、ドイツからの申し入れと日本側の「講和条件」提示とのあいだの時期に、あの南京大虐殺事件が起きていたのです。この交渉がそこで立ち消えになったのは、当然のことでした。

 この話がここで終わっていたら、このとき日本が提示した「講和条件」は一つの政治的なエピソードとして忘れられたかもしれません。

 ――続きがあったのですか。

     「事変」処理方針に書き写す

 不破 翌三八(昭和十三)年一月十一日、天皇の出席のもと政府と軍の首脳部が集まる御前会議――これが、日本国家の最高の戦争会議ということになるのですが、そこで、「『支那事変』処理根本方針」が決められました(『主要文書』)。そのなかに、“中国の現政府が反省して和を求めてきた場合には、「別紙」の「日支講和交渉条件」によって交渉する”とあります。その「別紙」を見ると、そこには、トラウトマン工作で中国側に示した諸条件が、ほとんどそっくり書き写されていました。こうして、さきの「講和条件」は、一時的なものではなく、日本国家の最高の会議である「御前会議」が決定した戦争目的、言い換えれば日本の領土要求の根本だということになったのでした。

     領土拡張主義の第二段階

 不破 では、そこに列挙された日本の要求とはどんなものだったでしょうか。文章を現代風に多少読みかえながら、説明すると次のようなことになります。

 第一。中国は「満州国」を承認する。

 第二。華北と内モンゴルに「非武装地帯」をもうける〔「付記」では、華北・内モンゴルへの日本軍の駐留を要求していますから、「非武装」とは“中国軍入るべからず、日本軍出入り自由”という解釈だということが分かります〕。

 第三。華北には、「日満支三国の共存共栄」にふさわしい機構を設け、これに広範な権限を与える〔要するに、中央政府の権限の及ばない地方政権をつくって、日本の支配下におく、ということです〕。

 第四。内モンゴルには、「防共自治政府」を設ける〔名称が違うだけで、趣旨は、前項と同じです〕。

 第五。華中の占領地域に「非武装地帯」を設定し、上海は治安も経済発展も日中共同で当たる〔この地域は、その後、上海・南京・杭州をふくむ「揚子江下流三角地帯」と規定されるようになってゆきます〕。

 第六。中国の中央政府は、排日・排満の政策を捨てて防共政策を確立し、日満両国と協力してこの政策遂行にあたる。

 第七。「日満支三国」は、資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信などの分野で、協定を締結する。

 第八。中国は日本にたいし所要の賠償をおこなう。

 すさまじい侵略と干渉の要求一覧表です。中国は、東北地方・華北・内モンゴル・揚子江下流三角地帯などの広大な領土を日本に引き渡した上、中央政府自身が、政治・軍事の面でも経済の面でも、日本に従属することが規定されるのですから。

 この決定は、日中戦争が、中国にたいする領土拡張主義の第二段階を画したことを、明確にしたものでした。

     カイライ汪政権に同じ「和平条件」を押しつけた

 不破 ここに示された日本の領土要求は、四〇(昭和十五)年十一月、別の形でもう一度表明されました。国民党政府の幹部だった汪兆銘が、政府を裏切って日本に寝返り、四〇年三月、日本占領下の南京で、カイライ政権を発足させました。このカイライ政権とのあいだに日本は、同年十一月三十日、「日華基本条約」を結び、日本と中国の将来にもわたる基本関係を明らかにしたのです(「日本国中華民国間基本関係に関する条約」 『主要文書』)。

 この諸条件は、これに先立って開かれた御前会議(十一月十三日)で、決められたものでした。そこでは、「日本側要求基礎条件」があらためて定式化されています。これは、三八(昭和十三)年一月の御前会議の決定を、基本的にはそのままひきついだものですが、その後の情勢の変動のなかで、若干表現が変わったり、追加条項が明記されたりしたところがあります。いちばん変わっているのは、日本が半恒久的に軍隊を駐屯させる地域に、「蒙疆(もうきょう)および北支三省」にくわえて「海南島および南支沿岸特定地点」がくわえられ、華中の指定も「揚子江下流三角地帯」が明記されていること、などです(「支那事変処理要綱」 『主要文書』)。

 海南島は、三九年二月に日本軍が占領した戦略地点でした。実際、四一年十二月、マレー半島に上陸した陸軍部隊は、ここから出撃しました。

 日本の領土拡張要求は、最後まで変わらなかったのです。


コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする