向日市自治功労者、大橋 満 の平和ト-ク・・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好交流促進
日本語版新聞紹介

向日神社1300年祭に思う!

2018-10-28 | 「私がお話し」します。

 

 

 27日28日、向日神社が1300年祭:長い間この地域の変化を見続けてきたことになるが、いろいろな資料から、住民にとってなくてはならない場所だったことがわかる。中でも六人部さん一家の努力は長年にわたる功労者といえる。さらに次の時代にわたっても色々なご苦労があろうかと思うが、この写真の人々が引き継ぎ新しい「向日神社」を作っていかれることだろう。

 

 私の本「世直しご一緒に」の最初に向日神社を取り上げたのは、そのためだったことを理解してくれる方は、あまりないと思うのだが…旧乙訓・戦国時代の西の丘衆は、向日神社に集まり、諸問題の解決のため合議制で、(住民自治の始まり)解決していった。  今に生きる向日市気質?なのだ。

 

 大鳥居の補強工事が大層なことだった。何度もの地震で少しづれていたのが肉眼出もわかるほどだった。土台も改修された。数十センチ高くなったのだろう!以前の土台石は本殿の裏におかれている。

 

       多くの氏子と言われる人々のご先祖さんが努力をされたからこそ1300年がむかえられたのだ。

 

 

 

 

                            向日神社                          

コメント

N0.20 昆虫や小動物は、きっと私が近づいていったら、「害人」が来たと逃げていたにちがいない。

2017-01-22 | 「私がお話し」します。

せみとりは、私の得意技だった。木に登って手でつかむ。

 自分で大きな虫かごをつくりいっぱい取ってくるのでやかましいとしかれれたものだ。しんだらら鶏のえさになった。

夏の初めにはコゼミでニイニイとなく、だからニイニイゼミともいう。次に出てくるのは、油蝉、親ゼミといっていた。最盛期にはクマゼミ、

かたびらといっていた。彼は、シャンシャーンと泣く。秋口には、つくつくぼーしが出てくる。本当にツクツクボーシと泣くから面白い。

 せみを取るのは虫取りの網と決まっているが、私は木に登って手でつかんでとった。神技ならぬせみ技である。

それは大人になってからも技は衰えていなかった。東京出張で虎ノ門の近くのホテルに宿ったとき朝早く皇居の周りを散歩した。

散歩道の木にクマゼミににているミンミンゼミというのがたくさん留まっているのに気がついた。そうと近づいて手で取った。

東京の子供は蝉取りなどしないのか、このあたりは取ってはいけないのか・・・ すぐに逃がしてやったが・・・

 穴ゼミを探すのは夕方である。向陽校の中庭や、向日神社の周辺は穴場だった。近くのお寺の庭にもたくさんいた。

夕方から出てくるので地面にある小さな穴を見つける。小枝を拾って穴を広げると、中に何か動くものがある。穴ゼミだ。

前足で細い枝をつかむのでそーと引き上げて取る。とってきてカーテンに引っ付けておくとだんだん孵ってくる。

神秘的なもので小さかった羽がだんだん大きくなる。色も変わってくる。朝になると外へとばしてやった。

夏休みの宿題で10匹ほどとってきて時間ごとに注射して生まれるまでの標本を作って出したことがある。

 せみは目の上横に小さな触覚がついている。そのひげがついているからまっすぐ思い道理に飛ぶことができる。

なぜそれをしっているかというと、ひげを取って飛ばしたことがある。ブーメランのように元の所にかえってきたりふらふらと変な飛び方をして

地面に落ちてしまう。昔の子供は、平気で昆虫いじめをしていた。

 かぶと虫やゲンジ、などもとりにいった。あり地獄は向日神社の細かい砂のところにいた。

 昆虫や小動物は、きっと私が近づいていったら、「害人」が来たと逃げていたにちがいない。

 (これで20回の連載を終わる。)

 

コメント

NO.19 やわらかい地面の上で、10センチくらいの釘の頭を逆さに持って地面にたてて遊ぶ。

2017-01-21 | 「私がお話し」します。

メンコはおもちゃ屋で売っていたが、強いものは買わなくてもいっぱいたまった。

めんこ。

 べったんともいう。丸いのや、長方形のものがあったが、地面において順番にめくりあって勝負する。

自分のメンコで相手のものをひっくり返せば自分の物になる。地面にうちつけたときに、裏向けになったり、半分石の上に乗ったりすると、

次のものがめくり安くなるので、地面にうちつけるときに、相手のものがめくれなくても、自分のがめくられないようにすることが、

勝利のかぎである。5~6人で順番にかわるがわるやっていく。メンコはおもちゃ屋で売っていたが、強いものは買わなくてもいっぱいたまった。

 くぎさし。

 やわらかい地面の上で、10センチくらいの釘の頭を逆さに持って地面にたてて遊ぶ。5人で遊ぶときは、地面の5角形の絵を書いて

それぞれ自分の出発点を決める。5角の近くに釘を立て自分の出発点からそこまで線をひく。釘がこければ次のものに交代し準順に進める。

くもの巣のような模様になっていくのだが、相手が書いた線を越えることができないのでできるだけ前にある線の近くに釘を指し、

後で来るものが来にくいようにする。相手の線を越えて外にいきたいときは、線の真上に釘を立てると外に出られる。

そういう場所があると後に続くものは必ず線の上にたてなければ外に出られない。どんどん順番にすすむとまさにくもの巣のような模様になる。

ぐるぐる周囲を廻って自分が書いた線の上に釘を立てればリーチで最後に5画形の中に釘を立てれば上がりである。

それを競うのだが、リーチをかけてから上がりの場所に釘をさすことができなければ、逆転されることもある。2人から5人くらいで遊ぶ。

ドッチボール

 現在も行われているのでルールはご存知のとおりである。

私は作戦をたてた。外に出ている人にボールを送るときに相手チームのターゲットの1メートル横にボールを送る人が位置するよう伝えておいて、

強いボールを外の人に送る。ターゲットはボールをとることも逃げることもできない。当てるときは足を狙う。

失敗しても味方の陣地にボールが帰って来る。その繰り返しで相手をやっつける。狙った人は絶対逃げられない。

コメント

N0.18 下手をすれば味方が落馬するが馬がこければ何度でも乗ることができる。

2017-01-20 | 「私がお話し」します。

これらの遊びは学校の休憩時間でも、みんなでわいわい言いもってやったものだ。

Sケン、

地べたに大きな2重のSの字を書いて、2組に分かれて中にはいる。細い出口から出て相手陣地の入りぐちまでケンケンで進み相手の陣地の

中まで入って行って、隅にある宝を先にふんだほうがかちである。

細い出口を通る相手を押し出すとアウトになる。2箇所避難所が作ってあって、押されないように入る。人数が多いときはSの字が大きくなるので

ケンケンする距離が長くなる、外にも何箇所か丸を書いて休憩できる島をつくり、そこにはいると両足でたってもよい。

これは学校の休憩時間でも、みんなでわいわい言いもってやったものだ。

 

童馬?胴馬―どう馬―どんま

馬になるほうと乗るほうの2組に分かれてやるのだが、一人が塀を背にたって股を広げ、そこに頭を突っ込み両手で取れないようにたっている

人の足をつかみ馬の胴体をつくる。お尻りのところに次々と首を突っ込み5~6頭つながった馬ができる。

もう一方の組が順番にその上に乗るのだが、早い順に遠くまで飛んで乗らなければ後のものが乗れなくなり落ちてしまう。

落ちたら負けで、まけた組が銅になり他方が乗る番になる。全員がうまく乗れたら。先頭のものと、塀を背にしてたっているものが、

じゃんけんをする。勝ったらまた乗るほうになる。もし途中で馬になっているものが、しんどくてこけてしまえば、もう一度乗ることになる。

落ちてもだめでつぶれてもだめである。そこで作戦を練って、弱そうな子が馬になっている上に2~3人重なって乗る。

下手をすれば味方が落馬するが馬がこければ何度でも乗ることができる。

コメント

N0.17 バケツがいっぱいになるほど取れることがある。おかずになるときや、鶏のえさになる。

2017-01-19 | 「私がお話し」します。

学校が終わると、手提げかばんをほっぽりだして夕方まで遊んでいた。

 南から順番にいくと、阪急西向日駅を越えて上植野の川西君(向日区から転居した。)林田君の家に3日に一度は行っていたように思う、

それからカイデの大嶋君とこの田んぼ、森本の清水君、金魚屋の池、

 じゃこ取り。

田んぼや小川に魚や貝やいろんな生き物がいた。えび蟹、どじょう、フナ、鯉、からす貝、かえる、あか腹、アメンボー、などなど、

バケツがいっぱいになるほど取れることがある。もって帰るのが大変で、じゃんけんで敗けたほうがもつ。と言っても次の電柱までだ。

そこで交代する、また電柱まで持つ。左右に電柱があるのですぐ変われるときと、長く持たねばならないことがある。それは時の運だ。

おかずになるときや、鳥のえさになる。魚とりで困ったのはヒルだ、時にはテンピルという大人の一指し指くらいのひるで、

牛の足に吸い付いているのが、人間につくことがありそれには困った。小学生の頃の春はたいがいその辺の小川で遊んでいた。

あとは滝ノ町の中川君と槻木君、それから小畑川と向日神社、暑い日は4月でも小畑川でおよいだ。


さらに、向陽小学校の運動場や雨天体操場、あたりが私の世界だった。何をして遊んでいたのだろうかと思い出すと、

 かんけり。かくれんぼ

表の道路は勿論未舗装、車も通らない、たまに自転車、牛車、人が歩いて通る程度だから、空き缶一つあれば10人以上遊べる。

かくれんぼの変形で、鬼になったものがかくれているものを探し、全員見つかれば、ジャンケンで次の鬼を決める。

隠れていたものが鬼にみつからずに、缶をければ、見つかってつかまっていた者も、再びいきかえって隠れることができる。

その繰り返しなのだが、それだけで1時間以上あそんでいたと思う。見つからないところに隠れると、最後まで缶がけれない。

鬼に見つからない程度のちかくにかくれて、缶を蹴りに走る、そうしてつかまっている子を助ける、・・・・

コメント

N0.16 大西さんは一際大きな家で3人姉弟妹だったが、姉が小学校1年のときに同じ組だった。

2017-01-18 | 「私がお話し」します。

タバコ屋の次は郵便局だったが火事で燃えてしまった。

その跡にパチンコ店と肉屋ができた。

 

「紅葉屋」という下駄や服を売っている結構大きな店があった。3歳上の娘さんと随分上の兄がいた。

次が南真経寺へ行く道だ。子供の頃、この道に集まった井上電気の労働者のデモがあったが、向かいの警察に不当逮捕された人を

取り返しに来ていたのだ。

角のタバコ屋は五十棲さん。三人姉妹がいた。中の妹が同級生だった。

次は郵便局だったが火事で燃えてしまった。その跡にパチンコ店と肉屋ができた。当時の肉屋は坂井さん、同級生の息子がいた。

かごとら乾物屋、家の中に井戸があった。向陽小学校の正門前に長谷川本屋、学校の教科書等を売っていた。大分年上の兄弟がいた。

入り口の狭い吉川薬局があった。そして「わた仁・仕出し屋」である。はるこさんという近所で一番太いおばさんがおられた。

辻井さんという 刺繍やがあるがあまりしらない。 万源という酒、醤油屋があった。次は高橋写真館・向日神社御用達だ。

 

 木村紙屋・文房具も扱っていた。上田電気、大西タバコ屋だったが、ここは同級生のT君がいた。きく亭と言う肉やがあったが、このあたりの記憶はあまりない。

富永屋、滝本炭屋、大西さんと続いていた。

大西さんは大きな家で3人姉弟妹だったが、姉が小学校1年のときに同じ組だった。

田中おもちゃ屋があったがそれ以上遠くには行かなかったが、大きな油問屋があった。

ちょっと上に松下のおもちゃ屋だけは知っていた。ここも兄弟がいて下の子が同級だった。

 

この辺までが子供の世界で、小学校5~6年にもなると向日町中に行動範囲が広がったが遠いから物集女まではあまり行かなかった。

 

次からそのあたりのことを思い出すままに書いておこう。 

 

コメント

NO.15 前に常夜灯があった。子どもが紙芝居を見る場所だった。

2017-01-17 | 「私がお話し」します。

銀行の電話番号が、1番、辻山久養堂が9番、大橋が12番、滝仁が13番だった。

 

五辻の隣は理髪店築山三郎さん、おじいさんがめずらしい小動物を飼っていた。男の子が一人Mといった。

吉田さんは、向かいの戸政の職人だった。その前に常夜灯があった。子どもが紙芝居を見る場所だった。3つ上のM君がいた。

左に曲がると阿部電気店、太郎さんというおじさんが、当時としてはハイカラな人だった。娘が2人いたが姉Mちゃんが2つほど下だった。

小山ふとん店があり男の子がいた。その隣が警察だった。

 

片山塩やがあって松本文具店、男の子が2人いたが弟が3年上の子清さんだった。今里屋、小山さんには同級の娘と弟がいた。

そうして向陽小学校の正門と中に役場があった。役場には、安田さんという小使いさんがおり4年上の弟とその兄がいた。

太神楽・獅子舞が廻ってきたときは役場前で少し長い間踊りをした。安田さんが祝儀をはずむからだ。

学校の隣は朝田さんと言う家だった。小野の時計や、中埜の理髪店・3人姉妹、辻山久養堂というお菓子屋があり源氏巻が代表作だった。

ここの3男が同級だった。その兄が二人いた。向日神社、三和銀行、上田、戸川と並んでいた、

Kという同級生がいた。木村豆腐あたりまでしかしらなかった。

 

五辻から東の並びは戸政ガラス、ふーちゃんというおばさんがいた。ガラスが割れたらなおしに来てくれた。右のほうに川島、狩野、岸上と言う家があった。

コメント

NO.14 人体模型を作る家があった。恐いものみたさに、そおーと覗きながら通ったものである。

2017-01-15 | 「私がお話し」します。

 北東の運動場の隅に農協があった。

山田さんという人が住んでいたが2年上の姉Tさんと2年下の妹がいた。

 花久の向かいが片山・はちらはん(八郎)魚屋だった、乾物も置いてあった。男4人兄弟だった。

小林傘屋は今も店を開けている。昔のまま残っている珍しい店だ。 裏に荒木さんの家があった。

その横に乙訓中学校の正門で、正面には、いかにも昔の学校の校舎で趣があった。

今は民家がたっている。その隣の(洛西医院)があるところに人体模型を作る家があった。恐いものみたさに、そおーと通ったものである。

塩崎さん、(野村さん)片山さん そのむこうが石塔寺。

  五辻から東へ

野村酒屋には男の子が3人、最後に女の子が一人いた。3番目が同級でTと言った。子供の私には用がなかったので余りのぞいたことはない。

その隣に田渕さんと言う家があった。お父さんは京都大丸に勤めていたらしい。姉妹と弟が一人いた。妹が同級でAっこさん、3つほど上の姉は

近所でも有名なおてんば娘だった。

 増田自転車やさんも時々覗いて仕事を見ていた。

次に中学校の横門があった。入ったところに蓋のついた井戸があり、新田さんと言う小使いさんがすんでいた。男の子がいた。

校舎が並び北東の運動場の隅に農協があった。山田さんという人が住んでいたが2年上の姉Tさんと2年下の妹がいた。

南北の道を挟んで向日町教会(幼稚園)があるが、学校に行くまでここに通っていた。お爺さんたちが作った教会だ。

森安という牧師が住んでいたが、兄妹がおり妹が同級だった。教会の話をしたら長くなるのでやめておくが、日曜日には礼拝にいていた。

献金を入れるビロウドで作った杓をもって、いすの間をまわって集めた。

コメント

NO.13 松尾石油の前に、山口自動車修理工場があった。

2017-01-14 | 「私がお話し」します。

なぜか、五辻のまわりの家は、養子が多かった。

嶋田・小島・大橋・藤田(横丁)さんなどだ。


 五辻から島坂のほうに向かっては、あまり遊びに行かなかったが、少しは覚えている。角の家が花久文具店、昔はお茶屋だった。

3つ4つ下に男の3兄弟がいた。五辻のまわりの家は、養子が多かった。大橋・嶋田・小島・西田・藤田(横丁)さんなどだ。

花久の隣は藤田、植為八百屋さん、7~8才うえの兄弟がいて、弟がよく走るので近所のヒーローだった。短距離、中距離が得意だった。

最後の30メートルでトップに立った。

その隣に町役場の会計をしている上田さんと言う方がおられた。裏通りに石油店があった、松尾さんという方がおられ、そこのチャーヤンと

いう息子は近所では目だって背が高かった。(180センチくらい)  

忘れていたが松尾石油の前に、山口自動車修理店があった。男3人と女の子が1人いた。ここのガレージでよく遊んだ。

元に戻って、一軒おいて片山という駄菓子屋があった。同級生のTちゃんと弟が1人いた。

古谷という家があり1歳上のNちゃんと妹がいた。大工さんか左官屋だったと思う。

その隣は鎌田の鍛冶屋、松田の鍛冶屋より場所も広く、大きな鉄材がおいてあり、ガスバーナーもあった。リヤカーなども創っていた。

 その横が向日区事務所、舟木さんと言うおばさんが用務員をしていた。同級のM君と姉が一人いた。

その隣は三宅家具店、ここにも同級生のH君、兄も弟もいた。その隣が橘さん、ここもY子さんと言う同級生と3歳上の兄がいた。

お母さんはしっているがお父さんは戦死されたのだと思う。

一軒おいてパリー館という理髪店があった。私はここで子供用の子馬の椅子に座って散髪してもらっていた。

ここもMちゃんという娘の同級生と弟がいた。

続いて勝田、塩谷、野口さんと言う家があったが、野口さんには同級のY君がいたが、不思議にこのあたりまでしかこなかった。

ここから下は上植野でその前の道を「島坂」と言った。島坂にはあまり行かなかった。

 

コメント

NO.12 裏に牛小屋がありよくのぞきに行ったものである。

2017-01-13 | 「私がお話し」します。

 3~40センチ角の2.5メートルくらいある柱(90キロくらいか?)を

一人で背負って神社の参道を上がっていかれたのにはおどろいた。

 

 一軒おいて、森口米屋があった。ご主人の宇三郎は頑丈なおじさんで牛を引いて米を運んでいた。裏に牛小屋がありよくのぞきに行った

ものである。私より3歳ほど下の男の子がいた。Kちゃんといった。宇三はんは、向日神社のお祭りに使う、正面のちょうちんを立てる

木で作った土台がある。3~40センチ角の2.5メートルくらいある柱(90キロくらいか?)を一人で背負って神社の参道を上がっていかれた

のにはおどろいた。今は軽トラだ。

 

 その隣は安井鍵屋、饅頭屋だった。表だけは覚えているが、中には入れなかった。同級生の女の子Nちゃんと、4つほど上の姉Kさん、

その3つほど上に兄がいた。Tちゃんと言った。お父さんは、小柄な方だった。

 

 隣りに中西さん兄弟妹三人、その隣は藤野さん娘3人息子1人。


 細い道があって藤崎さん、ここはお父さんが大映の撮影所に行っておられた。近所でもあまりなかったが自動車で会社に通勤していた。

一男四女の子がいた。今はマンションがたっている。


次は大田さんという、牛乳屋があったが、そこの方はあまりしらないが、10歳ほど上の男の兄弟がいた。

 

次は、なぜ「滝松」というのかしらないが、小さいうどん屋があった。

 

次に梶さんという工務店が現在も続いている。その下の家に3年上のHちゃんという無口の子がいた。


そこに吉野という3人家族も一緒に住んでいた。

1年上にHという男の子がいた。随分年上の姉がいて、戦後間もない頃黒人の子どもがいた。いろんな事情があったのだろう。


ちょっと横に入った所に島という家があり同級生のH君と2つほど下の弟がいた。


梶さんの上に東と言う家があり、姉弟妹がいた。妹は聾唖者で喋ることができなかったが、明るい子だった。


 ここまでが向日町だったが、記憶もこの家までである。表で作業をしておられたところはよく覚えているが、戸が閉まっているところは、

住んでいた人は覚えているが、その他の事情はわからない。

コメント

NO.11 泡がぶつぶつ出てくるところがパンクしている場所だ。一箇所だけではないかもしれないので念いりによく調べる。

2017-01-12 | 「私がお話し」します。

2~30分ぐらいはかかっただろうが、自転車は生き返って走り出す。

 

 その隣は松田の自転車やのテイサンの家だ、五辻の東側にもう一軒自転車屋があったが、そこは増田さん、こっちのほうが有名なのだが、

昔はそんなことはしらなかった。

横丁の松田さんは、戦後ちょっとあとから転居して来たのかよく覚えていないが、パンクを修理すのを何度みたかわからない。

まずハンドルを下に自転車を反対向け立てて、タイヤをはずす。掘り出したチューブに空気を入れて水の中につける。

泡がぶつぶつ出てくるところがパンクしている場所だ。一箇所だけではないかもしれないので念いりによく調べる。

穴の場所がわかればタイヤをきれいに拭いて、乾く間にふるいタイヤで使わないものを3×5センチくらいに切って台の上にのせ、

軽石で表面をこする、穴の開いた場所も軽石でこする。そうしてゴムのりを出してこすった両方に薄く塗る。半乾きのよい頃を見計らってきちっとはる。

そうしてはった上をごしごしこすってしばらく待つ。もう一回空気を入れて水の中に入れもれて、もう泡が出ないか点検しながら、見落としがないか、

タイヤを引張りながら2~3回見直す。大丈夫なのを確認して綺麗にふく。そうして空気を抜いて、タイヤとリムの間に収めて、もう一度空気を入れる、

そのときにゴムの”むし”をかえておく。

これでパンクの修理が終わる。2~30分ぐらいはかかっただろうが、自転車は生き返って走り出す。

コメント

NO.10 白装束で日本刀を作っていたこともあるという。おっさんのちょっちした自慢話も聞かされた。

2017-01-11 | 「私がお話し」します。

長い火箸で取り出して、鉄の台の上に載せてかなづちでたたいて形をつくる。

 その隣は松田の鍛冶屋だった、ここにはよく見に行った。

鎌、各種の鍬、包丁、日本刀まで作っていた。表は2間ほどの間口でガラス戸が4枚ほどあり入って左側にフイゴとコークスを燃やす場所、

その横にコークスがつんである。

右には出来上がった、鍬や包丁が並んでいた。土間全体が、土で作った窯のような形で裏に普通の部屋があったが、

裏に行くのにちょうつがいでとめた動く戸がはめてあった。

その戸の中に狭い引き戸がついていたが、その戸をあけてそこにすわって作業を見学するわけだ。

どんな会話をしていたのかは覚えていないが、30分~1時間見ているのだからいろんな話をしていたのだろう。

コークスが真っ赤になったところへ鉄の塊を入れる。長い火箸で取り出して、鉄の台の上に載せてかなづちでたたいて形をつくる。

冷えてきたらまたコークスの中にいれる。火力が弱ってきたら、ふいごを動かして風を送る。

この操作を何度も繰り返してだんだん鍬や包丁に変わっていく。備中ぐわは3本にわかれているので、鉄をつながなければならない。

真っ赤に焼けた2種類の鉄を重ねて手早くたたく、数回繰り返すと鍬らしくなってくる。

昔は、白装束で日本刀を作っていたこともあるという。おっさんのちょっちした自慢話も聞かされた。

5歳ほど上のAさんともう少し上のRさん姉妹がいた。Rさんは小学校の先生になった。

 

コメント

NO.9 下のわっかは、少し小さめのもので、2つしめるときっちり出来上がる。

2017-01-10 | 「私がお話し」します。

横丁の向かい側の家には、西田の桶や(現在常夜灯がある)、

ここは桶と名がつくものは何でも作っていた。

 道路と家の間に溝があったが、石のふたがありちょっと高くなったところに木戸が6枚はまっていてその2枚ほどが開いているときには、

中でおっさんが仕事をしていた。

向かいの笹江さんより大きいものを作っていた。風呂・下肥を入れる桶・風呂に持っていく小さい桶・何に使うのか知らないが大小いろいろあった。

桶を作るのは、正目のきれいな板を10枚ほどつないで丸くする。下から数センチのところに底をはめるために5ミリほど彫っておく。

底は板を合わせて円形にする。丸く削る特殊なかんながある。

板と板をつなぐのは、竹で爪楊枝の太いようなものをつくり、板の横にきりで穴を開けてその爪楊枝のようなものを打ち込んでつないでいく。

竹は大きなものを、笹江さんと同じように用途に合わせて手際よく割っていく。竹でわっかをつくり底のほうからはめてゆっくり上に移動させる。

下のわっかは、少し小さめのもので、2つしめるときっちり出来上がる。

天秤棒で前と後ろのぶら下げられるように、下肥用は桶の左右の板を長くして引っ掛ける穴を開けておく。

 小さいながらも何度も見ていたので、途中から見ても何が出来上がるか大体わかった。おっさんは質問すれば何でも教えてくれた。

 

コメント

NO.8  横丁は水の弁が悪かったので、火の用心は、子供の頃からの至上命令だった。

2017-01-09 | 「私がお話し」します。

         水汲みは子供の仕事だった。リヤカーに桶を積んで風呂の日は何回も往復した。

      

  タバ健さんの家が小学校の運動場に上がる道の横にあった。ここの道は運動場から向日神社に登っていく道で、現在は閉鎖されている。

南山64番地から剣道場横の道につながっていた。

天文館やその横の住宅は雑木林と藪と畑だった。向陽小の運動場の中には何本も町道があった。切り開いた運動場だから図面上残っている。

だから現在でも一般通行が正門から学童保育所の横をとおり善峰道に通り抜けできるようになっている。

 莨健さんは町議であり名士だった。横丁に住む人の生活用水は、莨健さん宅の裏にあった洗い場にあった湧き水だった。

多量の湧き水がどんどん出ていたが、現在は家が建っている。その水は向かいの梶さんの家の中で出ている。

向陽小学校の運動場隅の下方にあたるので運動場がろ過装置のようになり、地下水が出てくるのだ。

ずーと以前に運動場の排水が悪く工事したことがあったが、地下にはあちこちに栗石を入れた暗渠が走っている。

それが地下水の道になっているのだ。

横丁に暮らす住民の水汲みは子供の仕事だった。リヤカーに桶を4つ積んで水汲みに行くのだが、風呂の日は何回も往復した。

横丁は水の便が悪かったので、火の用心は、子供の頃からの至上命令だった。

町水道が敷設された当時は、水が臭いと言って、飲み水だけは汲みに行っていた。

 横丁の最後の家が川西元明君の家だった。同級生の彼はフクちゃん・当時はやったマンガの主人公によくにていたからだ。

お父さんは大工さん、妹が一人いた。

次にちょっと低くなったところに田んぼがあったが、そこより長岡で、その遠くにはあまり行かなかった。滝仁の田んぼといわれていたが、

冷たい湧き水で、あかはら(いもり)がたくさんいた、中にはいると土が軟らかくぐいぐいにえこむのであまり入らなかった。

コメント

NO.7 いまは、長屋はなくなっている。階段の上り口に湧き水が出ている浅い井戸があった。

2017-01-08 | 「私がお話し」します。

そこのおばさんがきつい人でオタカハンと言った。


その横のなだらかな階段を上がると右側に長屋が4軒その前に大きな家が一軒たっていた。

その階段の上り口に湧き水が出ている浅い井戸があり、2メートルほどの縄がついた金バケツが擱いてあり近所の家庭用水の役割を果たしていた。

 長屋の最初の家が、島津さん、私の7~8歳くらい上の子がいた。野球はあまりうまくないのにノックだけは上手だった。そこのおばさんがきつい人でオタカハンと言った。

近所の人は一目置いていた。息子はオタカハンゆづりだった。怒りっぽいちょっと変わった子だった。

次の家は安田さん、同級生T君がいた。3つ上の兄ともう少し上の姉がいた。

その横は久岡さん、その横が武田さん、武田の叔父さんは警察官だった。"オイコラ"とこわかった。わたしより2 回りほど上の娘が向陽校の先生だった。

恐い先生だったが大人になって偶然出会ったことがあったが、私のことを覚えていた。話を交わしたがよい人だった。

 大きい家は西村さん?といい向陽小学校の溝内先生が下宿?していた。(後でA先生と結婚・共産党府議となったMさんの夫だ)

 

コメント