柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

偽善

2009-01-16 08:01:37 | Weblog
高校生ら学生の短歌を天声人語で紹介しています。コラム子は「急ぎ足で過ぎる青春の日々を、虫ピンで留めたような言の葉の数々」と評します。まことその通り、ここに載っている歌だけでなくもっと読みたいと思いました、ストレートに心に響きます。「染みついた鉄のにおいがする髪をとかして思うもはや職人」工業高校三年生女子。大人の女の仕草が目の前に現れませんか。高校三年の女子はもう大人ですから。参った、という感じです。「幼き日遊び場だった畑作地今では父と僕との職場」農業高校三年男子。素直な少年の笑顔が浮かびますね。そしておやじの嬉しそうな顔と。ドキンとしたのはこの歌です「生も死も書けば一文字十五夜のすすきの中にぽつんとひとり」高校一年男子。静けさ、静謐さが伝わります。情景が目に浮かびます。こういう感性こそが羨ましいですね。こういう感覚は大人の子供のの差はないはずです。誰かが言ってました、子供も大人と同じように聞き感じ考えているんだ、ただ彼らには表現する言葉が少ないだけだ、と。こんな歌を子供が書くからびっくりする、のですが、子供でも当然感じることは同じだということでもあるわけです、確かにこの子達には表現能力も備わってはいるのですが。でも、やはり子供が書いたと知るから読む方の感動が大きいのですよね、この効果は否めません。同じ歌でもプロが詠んだとなればふ~んくらいのことでしょうから。そしてもう一つよく石原慎太郎が言うこと、五七五、五七五七七といった短い言葉で広大な世界や深い感情を表現し、その句や歌を国民全員が味わえるというのは日本人の優れた能力であり感性なのだと。これも強く肯きます。特にこんな瑞々しい歌を朝一番に読むなんてのは気分のすぐれることでありました。
 「子どもと教育をまもる山口県民会議」なる集団が小中学生を対象に実施される全国学力テストの中止や結果の非公表を県教委に要請したんだそうです。理由は陳腐なこと、いつもの奴ですから改めて書きませんが、県教委は結果公表する予定はないと賛同したそうです。大阪で橋本知事がぶっ放したあれです、公表して自己評価して、世間の評価も受けて、ちゃんとやれよというものですが、あららおらが国さもダメですか。どうして周りと競って伸びていく、褒められて伸びていくという人の本性、生まれ持つ性癖を隠しますかね。個人差を隠すんでしょうね。思想や信念や言動などについてはこれでもかと自由を要求し個人差尊重を金科玉条にしているくせに、こと競争(能力差)に係ることになるとこれですわ。おかしいですよね。連中も自分が優れている分野やら既得権益持っている分野では平気で差別抑圧しているのに、です。こんなことをいつまでも許していたんではきっと活力そのものが失われます、なんとかせねばと本気で思います。そして目に付く連中の言葉狩り、偽善臭ぷんぷんする言葉遣い、子ども。供という字が気に入らぬのです。婦という字を毛嫌い排除しているのと同根。昔、娘がそういう風に学校で言われたと教えてくれてびっくりしたことがあります。野郎ども!という語感につながる、一人一人ではなく集団としての呼称、蔑称だというのです。このクズども!馬鹿ども!の類。そんなこと思って使ってますか?子供は「大人ども」の対語じゃないですよね。語源は知りませんが当然に大人の対語として昔から存在する名詞です。そこに侮蔑の意味などはありません。全くの言いがかり、アヤつけてる因縁つけてるようなもんです。そういう与太を平気で子供に吹き込むんです。もっとも、頭のいい子達は相手にしないですがね。また障害者を障がい者と書き直しことさらに垂れ幕に大書きする愚もどこかで見ました。胸が悪くなりますね。こういう手口と知りつつ誰も止めない。日本語を潰すことは許されない、そういう観点で振り回せばいいのに、と思いますがね。悔しいことです。
コメント
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