イチロー8年連続200本安打です。どれだけすごいことなのか野球やったことのない者には到底実感のないことで、その数字にだけ、他の数多の大リーガー達の数字と比較してその差にだけびっくりしている、そして手を叩いているのですが、新聞やTVの扱いの大きさは事の大きさと比例することなのでしょう。知りたいのはアメリカがどう評価しているかではありますが。インタビューが新聞に載りTVでも一部放映されます、僕だけにしかわからぬ苦しみを越えられたのは僕だからといったものすごい自負心です。ここに感心します。この人のこういうところ感心します。きっと横着わがままな奴なんでしょうがこうやって計算して話せるところの才能です。凡百の政治屋達に爪の垢でも煎じて飲ませたいです。素人でも同じレベルで賞賛できることは状態を維持する力、日頃のストイックさ。これほどのレベルを維持することは並みの工夫じゃ足りぬ事でしょう。私はこういう工夫継続できることこそが才能なのだ(運動能力だけを指すのではなくて)という考えを持つ者ですが、具現してくれている対象その一ですこの人。もっとも、イチローが才能と維持管理能力とを同一視するかどうかは知りませんが。
高校生の落雷事故、学校の責任と判決がでました。最高裁からの高裁差し戻し審ですからこれで確定(正確にはまだ上告はできるのでしょうが)です。落雷は十分に予見できたという判断です。落雷を予見する。字面だけ見るとそんな無茶な・・と思います。自然現象を予想する?そんなことできるはずがないじゃないかって一般論です。でもこの場合は違ったんでしょう、落雷警報がでていて雨が降っていてピカピカ光ってゴロゴロ鳴っていてという状況なら確かに予見できると言えましょうか。これでまた体協やら学校は数歩引きます、下手したら今まで雨降ろうが槍降ろうがのスポーツだったサッカーやらラグビーまで単純な雨天中止になりかねません。いやおそらくビビリの指導者にかかればそうなります。きっと野球もね。こういう判決は、被害者の思いは別にして、社会の「乱暴さ」(これは運動会の旗奪い的な、そこまでやる?無茶を許し楽しむ気分です)を削ぎ落としていきます。つまり面白くなくなっていく。そうですね?
北京パラリンピック終幕です。朝日に記者のコラムです。中国がメンツを賭けて金と人とを注ぎ込んで、五輪の付録状態からパラリンピックを独立させた功績は大きいが、気になったこともあると言います。何かというと、視覚障害者の柔道会場で場外がわからなかったり、相手の居所側からなかったりした場面で笑い声が起こったこと、ボールの音を頼りに競技する視覚障害者のサッカー会場で大声出して声援する人達がたしなめられたりしたことを挙げて、障害者の理解を深めることが意義の一つに違いないのだ、と叱っているのです。ううむ、出たぞ人権至上、健常者差別思想。障害者でない人は障害者に対して一歩も二歩も引きなさいという命令です。こんな空気の中で楽しめって?緊張しながら、障害者の気に障らないように注意しながらタイミングを見て大きな声援を送りなさいって指示ですね。障害のない人には障害のある人達に同情し応援する義務があるというわけでしょう。本当ですか?誰が決めたんです?そんなこと強制されずとも普通の感覚の持ち主ならわかっていることです。正義の味方を自認するのでしょうね。大正論の振り回し。偽善のぶん回し。スポーツを楽しむのでしょう?人に見せているのでしょう?この辺りが都合のよい線引きなんですね。ある時は健常者を差別してうんと押し込む、またある時はどちらも同等なのだよなんて猫なで声になる。どうですかね。いいかげんにその手の差別をやめるべきですが、わかっていないのでしょうね。
高校生の落雷事故、学校の責任と判決がでました。最高裁からの高裁差し戻し審ですからこれで確定(正確にはまだ上告はできるのでしょうが)です。落雷は十分に予見できたという判断です。落雷を予見する。字面だけ見るとそんな無茶な・・と思います。自然現象を予想する?そんなことできるはずがないじゃないかって一般論です。でもこの場合は違ったんでしょう、落雷警報がでていて雨が降っていてピカピカ光ってゴロゴロ鳴っていてという状況なら確かに予見できると言えましょうか。これでまた体協やら学校は数歩引きます、下手したら今まで雨降ろうが槍降ろうがのスポーツだったサッカーやらラグビーまで単純な雨天中止になりかねません。いやおそらくビビリの指導者にかかればそうなります。きっと野球もね。こういう判決は、被害者の思いは別にして、社会の「乱暴さ」(これは運動会の旗奪い的な、そこまでやる?無茶を許し楽しむ気分です)を削ぎ落としていきます。つまり面白くなくなっていく。そうですね?
北京パラリンピック終幕です。朝日に記者のコラムです。中国がメンツを賭けて金と人とを注ぎ込んで、五輪の付録状態からパラリンピックを独立させた功績は大きいが、気になったこともあると言います。何かというと、視覚障害者の柔道会場で場外がわからなかったり、相手の居所側からなかったりした場面で笑い声が起こったこと、ボールの音を頼りに競技する視覚障害者のサッカー会場で大声出して声援する人達がたしなめられたりしたことを挙げて、障害者の理解を深めることが意義の一つに違いないのだ、と叱っているのです。ううむ、出たぞ人権至上、健常者差別思想。障害者でない人は障害者に対して一歩も二歩も引きなさいという命令です。こんな空気の中で楽しめって?緊張しながら、障害者の気に障らないように注意しながらタイミングを見て大きな声援を送りなさいって指示ですね。障害のない人には障害のある人達に同情し応援する義務があるというわけでしょう。本当ですか?誰が決めたんです?そんなこと強制されずとも普通の感覚の持ち主ならわかっていることです。正義の味方を自認するのでしょうね。大正論の振り回し。偽善のぶん回し。スポーツを楽しむのでしょう?人に見せているのでしょう?この辺りが都合のよい線引きなんですね。ある時は健常者を差別してうんと押し込む、またある時はどちらも同等なのだよなんて猫なで声になる。どうですかね。いいかげんにその手の差別をやめるべきですが、わかっていないのでしょうね。