柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

2008-04-30 08:43:17 | Weblog
昨日昭和の日(昭和天皇誕生日)記念してのNHK番組やってました。25歳の女カメラマンに戦争体験者の昭和最後の日(昭和64年1月7日)を語らせるという企画です。残念ながらやはり25歳は25歳で、認識や知識、言葉、歴史観に全く深みがなく、戦争はいけないことと思いました調で括られる結末、この人の写真集(特攻花というタイトルです)は見たいなと思いましたけれど登場した年寄り達に失礼なことだと却って憤りを感じました。もっとも、NHKのやることです、そう言う意図であったのかも知れませんから、それはそういう目で見なければならぬ事ではあるのでしょう。さて、登場人物は沖縄のひめゆり部隊の生存者、特攻の生存者、BC戦犯で裁かれて死刑を免れた人、大阪大空襲の生存者とずらりと適任者が並びます。番組の初めには、昭和天皇崩御当日日本中でプロの写真家達が撮った写真を紹介して、それぞれの感想を聞いてました、浅井慎平はこの日に人は戦争から逃れることが出来たんじゃないかと言ってました。皇居はさながらイベント広場のようであったと当時若かった連中は言います、宮城に向かい額づく人、涙する人がある一方で、天皇の戦争責任を更に糾弾するグループがいて、と。で、インタビューを受けた人達はそれぞれの言葉で表現の仕方や強弱は違いましたが、あの時(終戦時)天皇が退位するという責任の取り方をするべきだった、軍人ばかりに責任があったわけではないだろう、具体的に天皇が決定できることがなかったにせよ、軍部に祭り上げられて利用されていたにせよだ、という意見でした。あの時に天皇の口から俺が悪かったと一言あればどれだけ救われたかわからない、多くの戦友を目の前で亡くしてきてやっと帰ってきた私達に対して、と。天皇陛下万歳と死んでいったんじゃない、親を子を国を守ろうという一心で死んでいったんだと、天皇絶対であった当時の軍規なり命令体系なりのおかしさに皆気づいていたがやむなかった、だから敗戦にあたり命を投げ出した者達への謝罪(こういう言葉は使っていなかったと思いますが、こういう意味です)が欲しかったと、涙ながらに答えていました。もう63年が経っています、話す人達は若くて76歳でした、いや記憶が危ないということではなくて、当時の思いがそのままに残っているわけではないだろう、あの時代のあの空気の中で感じたこととはおそらく違っているのだろうなと思いながら聞いていました。その後多くの真実が明らかになって落胆もし失望もしそうやって組み立ててきた考え方、自分なりの総括を今口にされているわけです。くどいですが話されることを事実として曖昧なんて言うのではないです。その事実に対する感想は、六十年余の歳月で多くの修飾をうけて変遷してきたものなのだろうなと思うわけです。番組の色調は天皇責任を強く前面に出していました。これがNHKの色です。後味はいいものではありませんでした。が、老人達の言葉はやはり重いものでした。経験は想像を超えるのです、当然のことではありました。
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