先日、人生は何が起こるかわからないということから偶然論必然論に触れました、もう少し。人生は偶然の積み重ねであると考えれば、そのまますんなり先のことはわからないという理屈は理解できます。では必然論からはどうか。人生は起こるべくして起こる出来事で構成されているのだという考えです。これは最近の医学のトレンド、遺伝子研究に繋がっていきます、人の性格や病気、寿命は全て遺伝子上の設計図に沿って決められた時々に粛々と展開されていくだけのことなのだと。人生は決まっているのだろうという仮定です。平たく言えば今日の出来事は全て起こるべくして起こることだということです。この考え方によれば何が起こるか分かっているんじゃないかという論になりそうですが、残念ながら決まっているにしてもそれを前もって知る術がないのです。ですから結果として一寸先のことはわからないことは両論一緒です。ではその結果の評価(精神的処理)についてはどうでしょうか。思いも寄らぬことが起きたときに人はどう考えるのか。いきなり斬りつけられたりピストルで撃たれたりタイヤが飛んできたり。偶然に起こったことなんだ、運の悪いことだけれどどうしようもないと思って悲しみの薄まるのを待つのが普通です(それしかありません、時間は戻りませんから)。この事件は必然だったと考えればどうか。辛いことだけれど運命に従っただけだと。そんな急な場面でこれほど冷静でいる方がおかしいですが、でも悲しみの処理の仕方としては考えられる方法です。しかしこれもどちらも結果としては同じです、どうしようもないことだ、起こったことは仕方のないことだからです。そう思うことは一緒です。ではこの両論(人生は変えられないという前提)の対論、人生は変えることができるという考え方はどうでしょうか。いえ、自分の人生を切り開け!っていう巷間溢れている自己啓発モノの意味ではないです、こちらは売らんかなの煽りでしかないですから。自分の運命を自分で変えることができるとすれば、です。でも、ここは実は定義の問題でしかないようです、人生を運命ととるか、生き方とするか。生き方なら変えられます。卑近には早寝早起きに始まって額に汗するとやら真っ当に働くとやら。生活習慣や環境ならこれは変えられます、もちろん自分の力で自分の意思で。結果として今までの生活と全く違うものになれば、それなりに稼げて女房をもらって貧しいながらも楽しい我が家になれば「人生変わった」ってことになりましょうか。そういう実感がありましょうね。でも、人生が変わったのじゃないですね、生き方変えただけ、気持ち入れ替えただけ、やっと目が覚めただけ。そういう人生なのです。山谷のある人生を送る運命なのです(こう書くと私の考え方を分かっていただけたと思いますが、その時その時の生き方が繋がってその人の人生でありどういう結果になっていこうとそれはその人の運命であり変えるとか変えないとかの問題ではないと思ってます)。ああ、定義といえばお気づきの通り人生の定義も要ります、来し方(生まれ育った環境やら今までの生活全般)を指すのか行く末(明日のこと)を言うのか。前者なら人生は変えられます、今までと違う事すればいいのです単純には。後者を採れば、知る術のない事項ですからまさしく一寸先は闇であるわけです、変えられる筈もありません。もう一つは人生とは今現在に立脚して先を見て言うか、結果論として来し方を俯瞰して評価するかの別ですか。生き方を変えて今までと違う生活を送る、それを運命を変えると表現するか、そういう運命だったんだとにべなく断ずるか。理不尽な事故で命を落とした事実を、どうしてあの時一便遅らせなかったか、引き留めなかったか、別の道を通らなかったか・・と悔やむは、あの場面に出くわさなかったらよかったのにという考え方ですがしかしあの場面はあの時あの場所に居合わせた人達によって成り立ち構成完成された事象です、他の誰もいなかったのです、その場にいた人はいるべくしてそこにいたのです、もちろん犯人もです。必然論です。私はこの世の中の出来事は全て起こるべくして起こっていることだと思っています。楽しいことは楽しみ、悲しいことが起これば悲しむばかりです。そうやって通り過ぎるしかないと思っています。でも、何度も書いてきましたが、どの論に拠ろうとも、先のことは知る由もないのです。これは厳たる事実です。所詮は気持ちの処理方法の違いに過ぎないのでしょう。今後の人生にどう向かっていくか、心の鎮め方の選択なのでしょう。こうウダウダ考えているうちにも時間は過ぎていきます、人生は進んでいきます。こういうことなんであります。
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