柳蔭書翰

徒然なるままに、音楽関連の話題に拘らず、常ならんこの世の事々書き散らし諸兄のお耳汚しに供したく思います。

閾値

2008-04-23 08:43:40 | Weblog
光母子殺人事件、死刑判決です。こういう判例ができたことに大きな意味がありましょう。これはひとり孤高に毅然と凛と戦い続けた感の原告本村さんの言、こんな事例で死刑判決が出ないようなら妻も娘も犬死にだに凝縮されます。初めてくらいじゃないですかね、理不尽な殺人事件に世間の気持ちに沿ったお裁きが下りたのは。大阪の小学校の無茶(宅間なんとかでしたか)には早く死刑が出て本人が告訴しないで早々に処刑されました(当然だという世論でしたがこの速さに私達は却って呆気にとられたものでした)、このケースは相手が子供だったこと、本人の素行も悪かったことなど極刑の条件が揃っていたのでしょう。光の事件も理不尽さでは同等で、原告にとれば妻の陵辱の末の殺害というこれ以上ない憎悪を掻き立てられる惨劇であったにもかかわらず、初犯で少年だったというだけで死刑は初めから外されての判断だったのでしょう。私は以前にも書いたことですが、原告の一貫した態度に敬服していました。若いのに筋を通し続ける立派な態度言動振る舞い、仕事との兼ね合いに苦しんだことも一度や二度ではなかろうに、何より弁護士費用、裁判費用が嵩んでいこうに、と切ない思いまでが重なりました。今回の記者会見もなんと立派な態度、喋り口。どうか一念発起して弁護士になってくれと思いましたね。あなたが心から憎み絶望したであろう、社会秩序を無視するイデオロギー人権弁護士達と戦ってくれ。そう思いました。あなたのような人を世間は必要としているのだ。結果として下手な絵を描いて失敗した被告大弁護団(彼らは被告を守りたいんじゃないんです、死刑判決の回避だけが目的です)が、引かれ者の小唄歌ってます、今まではやむを得ない時だけに適用が許されるのが死刑だったが、この事件以来凶悪な事件は原則死刑となっている、厳罰化はますます加速するだろう、と。結構、歓迎するところです。反対する意見の拠り所の一つに冤罪問題がありますが、このケースのように(秋田の我が娘とその友達殺しの畠山某もそうです)犯人認定に間違いのないものなら、厳罰です。心神耗弱の更正のなんて与太が罷り通ってきたから、人殺しても大丈夫なんて馬鹿が通用することになってるんです。心神耗弱でお咎め無しなんてやって、そいつを野に放した途端にまた「心神耗弱:化して累犯する。馬鹿馬鹿しい。原告がこの裁判の初期に口にした、死刑にならないなら被告を社会に戻して下さい、私が殺しますからって言葉、重いです。法律の本に書いてありますよ、法治国家以前の環境では個人の恨みは個人的に晴らすものだった、復讐や仇討ちが認められていた、だから人に犯罪の抑止が効いた、その個人的報復をなくして社会の安全安寧を図ろうとするのが刑法であり処罰なのである。個人に代わって国が処罰するシステム。でも、おかしな裁判官が増えてきておかしな判決が明らかに多いでしょう最近は。個人に代わって処罰するのなら、個人の怒りや恨みをきっちり代弁代行しなさいよ。人権屋はのさばる世界です。「死刑はやむを得ない」という判断、これはとても曖昧でどうにでもとれる判断基準です、これに乗っかって人権屋達が跳梁していたのですが、それが今回の最高裁の判断で「死刑を回避する事情を見いだせない」なら死刑だと変わった、つまり死刑判決の閾値が下がった事に対して不満を言う論がそれぞれの新聞に載ってます。物事を表から言うか裏手から言い直すか。この辺りはレトリックの問題になっていくのでしょうがね。どうお感じになりますか。
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