拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

室内楽には自由の風が吹く(アウローラ・アンサンブルを聴いて)

2022-11-03 11:20:57 | 音楽

アウローラ・アンサンブルを最初に聴いたのは白井の発表会。あまたの音楽家が参加した中、この団体の最初の一音を聴いて、たちまち私はファンになり、以後、豊洲でコンサートを開かれるようになってからは必ずチケットを買っていた。「必ず聴きに行っていた」ではなく「買っていた」と書いたのは、一回だけ、チケットが家の中で行方不明になり探してるうちに時間がきて結局行けなかったことがあったから。たいそう残念であると同時に、家中探してもない、逃げ場のないわが家においていったいどこに隠れたんだろう、とそこが不審であった。発見したのはだいぶ経ってから。先代の猫の骨壺の脇にはさまっていた。ここなら見つからないのも無理はない。と、次に湧いた疑問は、いったいなぜあんなところに入り込んだのか。それはいまだに不明である。ただ、一つ告白すると、この日は昼から大酒を飲んでいた。そのことが関わっているかもしれない。まったく、そんなことをしてるから今頃体にガタが来るのだろう。

この団体は、弦楽四重奏にY先生のピアノが入った5人組が基本で、演奏会のたびに、そこに一人ゲストが加わる。昨夜の演奏会のゲストはフルート。この方が大層達者な方で、こういう方が入ると、もともと素晴らしいアンサンブルにいっそう磨きがかかるのではないだろうか。マキシマムに満足した演奏会であった。

室内楽はいい。まず、絶対専制君主の指揮者がいない。さらに、各人が思い思いに体を動かすから(一人の弓がダウンなら隣がアップだとか、一人がかがむと隣が反るとか、一人が右に体を揺らすと隣が左になびくとか)、自由の風が吹きまくっている。それでいて統一がとれている。こういう世界は好きである。

今でもよく覚えているのは、学生のときに聴いたリリング指揮のゲヒンゲン聖歌隊(曲はマタイ)。ソプラノのお姉様方が、歌いながら、それはそれは優雅に体を揺らしていた。自由な息づかいが音楽にも柔軟さを与えている感じがした。それと正反対な感想を持つのは日本の学生の合唱団。特に、男子は、まるで縛られているかのように硬直していることが多くて、聴いてるこちらまでこわばってくる。大人の合唱団でも「ステージに上るときは、楽譜は左手で」とか言われるのが苦手である(私は左利きだから、逆にしたらダメ?と聞きたくなる)。

オケを聴いたときも同様の感想を持つことがある。以前、在京の某オケの「運命」を聴きにいったとき、指揮者さんはそれは精力的に振ってらしたのだが、オケの、特にヴァイオリンの皆さんは、背筋がぴしっと伸びているのはいいのだが、伸びっぱなしでびくとも動かない。ただ、腕だけが動いているだけで、なんだかスターウォーズに出てくるドロイド(ロボット)のようだった。きっと、先生から習った通りに弾いているのだろうが、体幹がしっかりしているとほめてもらえそうだが、覇気の無い「運命」だった。それに引換え、外国のオケの場合は、奏者が巨体をゆすって小さいヴァイオリンにかぶりつく。親の敵をうってるかのよう。前に、ベルリン・フィルの来日公演のライブをFMで放送したとき、解説者が、「奏者がよく体を揺らしている。それに引換え日本のオケは……いや、批判をしているのではありません」と言って言葉を呑んでしまったが、私は言いたいことが分かった気がした。

そう言えば、大昔は、チェロの先生は、生徒に「弓を持つ右腕の脇に本をはさんでそれが落ちないように弾きなさい」と教えたそうだ。ずいぶん窮屈な弾き方である。その教えを無視して、脇をばんばん開けて弾いたのがカザルス。出てくる音楽は段違い。以後、古い教えを言う人はいなくなったそうだ(いったい、昔の先生はなんだったんだろう)。

このところ、歌を忘れただけではなく、楽器も忘れてるのであるが……歌を忘れたのはカナリアだが楽器を忘れたのはなんだろう?バッタだろうか?バッタ(それもショウリョウバッタ)が弦楽器を弾いている絵が浮かんできた……こうやって、名演奏を聴くと(昨夜の話に戻っている)、やりたい、という気が湧いてくる。ただ、始動エンジン(自動車で言えばセルモーター)がかからないのである。因みに、昨夜、一番、音に私の注意がいったのはチェロとヴィオラである。ヴィオラもいいねぇ(やらないけど)。