拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

ソロのようだったボエームの合唱

2022-11-27 09:36:24 | 音楽

ボエーム(ピアノ伴奏版)を聴きに行ってきた。ピアノの某子さん以外は、ほぼアマチュアで固めた布陣。だが熱演だった。

知り合いは、某子さんのほか、マルチェッロのMわさんと合唱の一員のMまさん。合唱と言っても、一番多いソプラノが4人で、各バートがバラバラに舞台に配置されるから一人一人がソリストのよう。これは大変だ。その昔、バイロイトのマイスタージンガーでやはり合唱がバラバラに配置されたことがあり、そのときの様子を合唱団員(日本人)がこう振り返ってた。「そりゃー、隣に同じパートの人がいれば歌えますよ。でもいなきゃ歌えませんよ。20回くらい歌ってりゃ別だけど。今回バッランバッランだったからみんな不安で練習のとき歌えなくて。で、オーディションをするってことになって。泣いた子もいるみたいですよ」(この方は夫殿がドイツ人でドイツが長いせいか、「バラバラ」を「バッランバッラン」と発音するのが印象的だった)。バイロイトの合唱団でもこんな具合である。だが、昨夜は「バッランバッラン」だったにもかかわらず各人がしっかり歌っていた。見上げたものである(みあーげてー、ごらんー、よるのー、ほーしをー(関係ない))。

ボエーム全曲はマルチェッロの「……ファラオーーーーン」で始まる。Mわさんの「ファラオーーーーン」を聴きたい、というのも聴きにいった動機の一つである。Mわさんはもともとバスだからボエームを歌うと聴いてコッリーネだな、「外套の歌」を歌うんだな、と思ったらバリトンのマルチェッロ!それを見事にこなすあたりはさすがである。Mわさんと一緒に合唱団で宗教曲を歌ってたときは、彼はまだオペラはやってなかった。だが、もともと超立派な声をお持ちだったからオペラの世界に足を踏み入れたら行く先々で絶賛され、今では引く手あまたのアマチュア・オペラ界の寵児である。やはり人は落ち着くべき所に落ち着くと見える。私が古楽に回帰しているのもそれが本来の落ち着き先なのだろう。

小さめのホールでの熱演は小劇場の芝居を見ている風でもあった。みんなががんばってる姿を見て元気をもらおうとの目論見は見事に当たった。以下は、その他の感想。

第1幕でボヘミアン(フランス語でボエーム)たちが暖房がなくて寒さに震えているシーンは、現在の現実世界に共通である。わが家でも観念してコタツを出したがそこまで。音楽室は北極なので困っている。どうしよう、コタツにあたりながら(正座して)ヴァイオリンを弾こうか。でも、コタツにあたりながらチェロは弾けないなぁ……

第1幕で、家賃をとりにきた大家のベノアが店子たちに追い出される理由は、「いい歳ぶっこいて若い彼女とねんごろになったから」ではない。奥さんがいながら別の人とそういう関係になったからである。だが、そのことと家賃滞納は無関係なはず。理屈をこねれば、大家のそういう態度が店子の心を傷つけた。その慰謝料と家賃を相殺するということになるが、屁理屈である(裁判所が認めるとは思えない)。

第2幕で、ムゼッタが足を見せてマルチェッロが「鼻血ブー」のシーン、例えばルチア・ポップなら太ももまで露わにして足をバタバタさせるのだが、昨夜のムゼッタはくるぶしをちらっと見せる程度。大和撫子だから?だが、あれでは私がマルチェッロだったらどんなに血圧が高くても鼻血は出ない。え?大家のベノアの歳なら出る?私、まだ若造なので分からない。

家で視聴するときはいつも第2幕までなのだが、ホールで聴くと否応なく全幕見ることになり、第3幕も聴いてみるといいなぁと思う。昨夜感心したのは激しい男女の言葉の応酬(口げんか)。そうか、男女で付き合うということは、喧嘩をするっていうことなのだな。

第1幕に戻る。ロドルフォが会ったばかりのミミに「Sei mia!」と言うのだが、私、ここんとこを勝手に(英語で言うところの)「Be mine」に解釈していたのだが、昨夜の字幕は「You are mine」だった。なるほど、言われて見れば、通常の現在文だよな。なぜ私が願望の意味に解したかというと、ヴァーグナーの「ジークフリート」にそっくりの台詞があり、ジークフリートが目覚めたばかりのブリュンヒルデに「Sei mein!」と言うのだが、これは接続法であり間違いなく「Be mine」だからだ。図らずもどっちも「sei」で綴りは同じ。どっちもB動詞の変化形で使用場面も同様だがニュアンスが違ったということ。因みに、読みは「セイ・ミーア」と「ザイ・マイン」である。