鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

驚きに次ぐ驚きの演技で一見の価値ある「シルク・ドゥ・ソレイユ」

2009-09-20 | Weblog
 19日は千葉・幕張のシルク・ドゥ・ソレイユシアター東京で「シルク・ドゥ・ソレイユ」の公演を見た。知り合いの外資系会社のS社長にぜひ見るべきだ、と勧められて足を運んだもので、開演の午後2時前にイクスペリアでショッピングをしてから会場に赴いた。架設のテントでの会場かと思ったら、本格的な常設シアターに驚いた。係員にシルク・ドゥ・ソレイユの意味を尋ねたら、フランス語で「太陽のサーカス」との意だと教えてくれた。中央通路のやや後ろの席で開演を待っていたら、10分前くらいに2人のピエロが前方斜め前の観客席あたりに登場し、観客相手にパフォーマンスを行い、盛んに拍手と笑いを浴びていた。そのまま、開演時間になり、舞台に上がって、舞台中央に置かれた布製の大きな本を相手に寸劇を演じ、本の上から舞台下に姿を消して、その瞬間に幕が開く、という憎い演出は見事だった。
 まずは天井から紅白歌合戦の小林幸子を思わせる豪華衣装を纏った美女が舞い降りてきて、その周りをロープに支えられた4人の女性が華麗に舞いを繰り広げた。舞台正面のバックには円筒状の仕切られたスペースごとに一人ずつ武者姿の踊り手が現れ、音楽に合わせて一糸乱れずに上空の女性の動きに合わせてパフォーマンスを展開する。
 続いて南太平洋の土人を思わせる一団が現れ、ひとしきり踊った後、手にしたロープを身体の周りにぐるぐる回し、その輪をくぐって回転運動を繰り広げ出した。それも一人だけではなく、複数の踊り手が次から次へと輪くぐりをしていく。それぞれの技が素晴らしいので、拍手しようにもすぐに難しい技が出てきて、それをいとも簡単にこなしてしまう。
 そして、天井から下りてきた地上10メートルのロープ上での綱渡りの「炎の振り子」、5人のパフォーマーによる3本づつのピン投げから火の点いた松明でのジャグリング「ケルヌーンの火」、4本のポールと中央のトランポリンを併用した演技の「天に向かって」、新体操をさらに高度化した立ったもまの4段ピラミッドの「バベルの塔」、片手一本で女性の水平の身体を支える「天と地の出会い」など驚きに続く驚きのパフォーマンスが続いた。
 休憩をはさんだ後半は美女がソロで天井から下がった帯にぶら下がって踊りを披露して、楽しませてくれた。2本の帯に開脚したままの姿勢で空中に上がっていくさまは優雅としか言いようがなかった。続いて、赤と青のコスチュームにまとった女性2人がこれもロープにぶら下がっての華麗な舞いを披露したあと、空中ブランコの息を呑むような空中高く舞い上がって、反対側のブランコの漕ぎ手にスイッチする曲芸を見せてくれた。見ていて思わず声が出るような素晴らしい芸だった。
 ざっと70人の出演者のいずれもが卓越した技の持ち主で、それを何千回も何万回も練習して極限にまで高めたうえで、芸として披露していることがよく見てとれた。音楽を演奏する人も7人、それに歌い手もいて、ボタンひとつで天井からロープなり、リボンなり、網なりが下りてくるし、舞台の下も背景のバックも演目と一体になって手際よく演出されていて、2時間があっという間に過ぎてしまった。
 熟練した完璧な技ではあったが、ジャグリングで演者が一瞬ピンを落として即座に拾った場面を目撃したのが面白かったが、弘法も筆の誤りといたところなのだろう。全体としては驚きの連続で、S社長の言う通り一見の価値はあるものだった。
 見ているうちに数年前に東京・渋谷で「サルティンバンゴ」を観たことを思い出したが、その時は架設舞台であったこともあって、ここまで手際いい演出ではなかった、ように憶えている。いまではサルディンバンゴはシルク・ドゥ・ソレイユに吸収されたような形となっているようだが、その当時より確実に進化しているようだ。シルク・ドゥ・ソレイユは1984年に大道火食い芸人のギー・ラリベルテがカナダに設立し、いまでは日本、米国、中国で常設公演しているほか、世界各国の都市で巡回公演し、年間8000万人の観客を動員している、と言われている。
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向こう10年、自民党には政権奪取できない

2009-09-19 | Weblog
 18日、自民党総裁選が告示され、西村康稔前外務政務官、河野太郎元法務副大臣、谷垣禎一元財務相の3人が届け出た。先の衆院総選挙で惨敗し、政権の座から滑り落ちた自民党の再生を図る大事な選挙にわずか3人しか立候補せず、しかも一人は一般には無名の新人が出馬するのを見て、だれしも自民党は党を挙げて再建に取り組む意思があるのだろうか、と訝ることだろう。民主党政権がスタートしたばかりで、すっかり新政権へ注目が集まっていて、自民党総裁選は二の次といった感じだが、民主党政権の行く末を育てるのに確固たる野党の存在が必要なのに、これでは向こう10年自民党は政権奪回は無理としか思えない。
 丁度一年前には麻生太郎前首相に対抗して、与謝野馨前経済財政相、石破茂前農水相、石原伸晃元国土建設相、小池百合子元防衛相が総裁選に出馬し、出来レースとはいえ、色を添えた。ところが、今回、高齢の与謝野馨前経済財政相は別として石破、石原、小池3氏とも早々と出馬しないとの意思表示をし、有力な総裁候補と見られていた舛添要一前厚労相も出馬を見合わせた。石原氏ともども東京都知事選に色気があるともされているが、総選挙の予想外の大敗に総裁の魅力がないと算盤をはじいたのは確かだろう。
 それで立候補したのが、すでに3年前の総裁選に出馬し、安倍晋三元首相に敗れた谷垣候補で、今回の自民党大敗の理由として派閥・長老政治の弊害が言われているのに派閥・長老陣が一致して推す候補として担ぎ出された感があり、本気で自民党の改革をする積もりがあるのか、疑問符がつく。一方、党の脱派閥政治、かつ若返りを図るための象徴として河野候補が立候補したが、大臣経験がないうえ、これといった実績がないのが気に懸かる。しかもさらに一般には無名の西村候補が立ったのは予想外で、河野候補と調整がつかなかったのか、と疑問が残る。
 28日の自民党両院議員総会で投開票されるが、自民党所属の国会議員199票と地方の300票が投票される。地方には都道府県ごとに4~15票割り当てられ、得票の応じてドント方式で持ち票を配分する、という。国会議員票のほとんどが谷垣候補に投じ、問題は党改革を訴える河野候補を地方がどの程度評価するかにかかっている。しかし、泡沫候補的な西村候補が立ったことに自民党の古い体質が残っているのが垣間見え、明らかな谷垣総裁への出来レースにすでにしらけ気分が出始めている。
 18日の日本経済新聞と毎日新聞に発足した鳩山政権に対する内閣支持率の世論調査の結果が報道されたが、75と77%と発足時としては歴代2位の高い支持率となっており、単なる御祝儀相場とは思えない高い評価となっている。矢継ぎ早に適切な施策を打ち出していることもさることながら、相変わらず茫然自失状態から醒めない自民党の体たらくが預かっているのは間違いない。同じ世論調査での政党支持率は日経では民主党は前回(8月)の38%から20ポイントも跳ね上がり58%となったのに対し、自民党は逆に29%から22%に急落した。毎日新聞に至っては自民党の支持率は前回の20%から12%と群小野党並みの水準にまで低下したことにはっきりと表われている。現に麻生首相は最後の最後の16日の総理辞任の瞬間までノー天気な首相であり続けたし、さだめし後継総裁も麻生首相と同じくらいの人物でしかない、と判断されたのだろう。
 これでは国民のだれしもが自民党に再び政権と取らせようなどとは思わないことだろう。健全な野党のいない政権は国民にとって不幸なことではあるのだが、そうした役割は公明党、もしくは共産党に託さざるを得ないのだろうか。
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酒井法子仮釈放劇の裏で密かに進められている芸能界復帰シナリオ

2009-09-18 | Weblog
 17日夕刻にテレビを点けると、テレビ東京を除く民放各社はいずれもタレントの酒井法子が東京湾岸警察署から逮捕から41日ぶりに仮釈放され、正面玄関で黒の上下スーツでピシッと決めて颯爽と現れ、居並ぶ報道陣の前で「今まで応援して下さった皆様、本当に申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げる姿を流していた。続いてワイン色のワゴン車に乗り込み、都心に向かうのをヘリコプターの上空から追いかけ、さながら重要凶悪犯の仮釈放劇を見るようだった。酒井法子の仮釈放には保釈金500万円を分割で納めたこともあって、3日前からいまか、いまかと待たれていた。仮釈放後の記者会見、およびメンタル治療のための受け入れ病院を決めるのに時間がかかったようだった。
 ワイン色のワゴン車は東京・千代田区の如水会館に入り、午後6時30分から酒井法子の記者会見が始まった。車のなかで着替えたうえ、化粧を施した酒井法子は待ち構える300人の報道陣の前に姿を現し、まずビクター・エンターティンメントの三枝照夫会長が契約解除した旨を伝えたうえで管理が不手際だったことを詫びた挨拶をし、続いてサン・ミュージック・プロダクションの相沢正久副社長が同じような挨拶をした。その間、ずっとカメラは酒井法子の表情を追っていたが、目から大粒の涙が落ちてきた。
 そして、弁護士が「来月26日に公判を控えているので、質問は一切受け付けません」と釈明し、酒井法子のお詫び会見が始まった。「この度は一社会人といsて、人として決して手を出してはいけない薬物に、自分の弱さゆえに負け、そして世間を騒がせ、多くの人に迷惑を掛けました。この罪の償いをし、悔い改め、二度と薬物に手を染めることのないよう固く心に誓います」などと約4分間にわたって釈明した。最後に司会がこれから病院に向かうため、被疑者、酒井法子をそっとしておいてほしい、と報道陣におっかけ取材などして周辺に迷惑をかけないようにとお願いした。
 湾岸署前での挨拶といい、記者会見といい、この手際の良さは一体何なんだろうか、と思った。契約を解除したとはいえ、プロダクションはしっかりとタレントとしての酒井法子の商品をしっかりと見据えたうえで、再起への道のりを描いている、つまりすでに芸能界復帰へのシナリオが描かれているのではにないか、と感じられてならなかった。
 18日朝のテレビに登場した司法関係者は裁判では決定的な証拠がないので、最終的には懲役刑は課されるものの保護観察付きの執行猶予となるのではないか、と予想した。覚せい剤の入手先が夫の高相祐一容疑者経由だけで、直接暴力団とのつながりが証明できない限り、実刑に持っていくのは難しいようで、17日の釈明会見も反省していることを検察側にアピールするためのもの、と見る向きもあるほどで、その点では十分にその役割は果たしたようだ。
 18日付けのスポーツ紙のサンケイスポーツはすでの映画出演にオッファーが来ていると報道しているし、生い立ちの秘密を暴露した書籍の刊行もされる、という。湾岸署前の釈放を迎えた報道陣のなかに香港からのクルーもいたようで、タレント酒井法子の商品価値はまだまだ地に落ちていない、と判断したところも多いようだ。
 拘留中は芸能界から追放との空気が強かったが、このフィーバーぶりを見て、改めて酒井法子の人気にあやかろう、と色気を出すところもでてくるのは間違いない。一年後にはかつての清純派ではなく違う側面での酒井法子が活躍していることだろう。芸能界はそんな汚れた世界であると見られるのは仕方がないとして、芸能界から覚せい剤を追放しよう、との機運が薄れてしまうのが怖い。

追記 ネットサーフィングしていたら、17日に酒井法子を乗せたワイン色のワゴン車を運転していた男2人の写真が写っていたが、2人とも人相の悪いいかにも暴力団らしい男だった。どう見ても一般のサラリーマンには見えず、SPとも見えなかった。こんな風体の人がいるのが芸能界といえば納得もできないわけではないが、芸能界の周辺にはこうした輩がいっぱいいるということか。もちろん、酒井法子の預かり知らぬところでの話だが、被疑者だけにここから身ぎれいにしていってほしいものだ。
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官僚政治から政治主導へ、鳩山新内閣に期待する

2009-09-17 | Weblog
 16日開かれた衆参両院会議で、鳩山由紀夫民主党代表が93代首相に選出され、同日中に鳩山内閣が発足した。この日の朝刊各紙のなかで、ほとんどの新聞がせいぜい6~8名の大臣人事を掲載していたなかで、読売新聞だけが18人全員のポストをピタリと報道していたのが注目された。鳩山代表からの呼び出しでだれが閣僚入りするのかはわかったが、どのポストに就くのかは本人が話さない限り、外には漏れなかったようだ。それだけに読売新聞の取材力は特筆ものである。渡辺恒雄代表取締役会長の関係でか、よほど小沢一郎幹事長に食い込んでいる、ということなのだろう。
 同日のフジテレビの「とくダネ!」の冒頭で司会の小倉智昭が厚生労働大臣に長妻昭議員が就任したことをに驚いていたが、年金5000万人の記録が消失したことを取り上げ、自公政権を野党に追いやった最大の立役者が今度はその帳本山に乗り込むことになるわけで、民主党政権の骨頂を見せてほしいものだ。
 衆参両院の首相指名選挙で、衆院では327人、参院では124人と圧倒的な多数で鳩山民主党代表が票を集めたが、自民党は予定通り若林正俊議員に投じたのに対し、公明党は新しく代表となった山口那津男議員に投じており、自公連携は消滅したことがはっきりと裏付けられた。山口新代表は「これからは是々非々でいく」と公言した通り、自民党とは袂をわかったわけだ。
 鳩山新内閣の顔ぶれを見ると、長妻厚労相のほか前原誠司国土交通相、原口一博総務相と若手を起用している一方で、77歳の藤井裕久財務相、72歳の亀井静香金融・郵政相、71歳の北沢俊美防衛相と高齢者も目立つ。おかげで鳩山内閣の平均年齢は60.7歳と麻生内閣より2.5歳高齢化した。
 顔ぶれのなかで女性閣僚は福島瑞穂消費者・少子化担当相と千葉景子法相のわずか2人にとどまったのは残念なことだった。民主党政権となった背景には女性の新議員が数多く登場したことも大きい要素だったのにそれを組閣人事で鮮明に訴えることがさらに新生のイメージを高めることとなったのにと惜しまれる。事前には田中真紀子議員が起用される噂も飛んだが、福島瑞穂社民党党首が決まったため除外されてしまったようだ。
 事前にはほかにも田中康夫新党日本代表や、民間から寺島実郎日本総研会長や榊原英資慶大教授の起用なども噂されたが、ふたを開けてみれば、これまでの民主党の歩みのなかで貢献してきたまずは無難な実力派で落ち着いたようだ。一般には知られていない議員の起用もあったようだが、縁の下の力持ちみたいに人に知られないところで、尽力していたのだろう。 
 全体には閣僚として適材適所の起用ということに落ち着いたようで、それはそれで歓迎したい。官僚主導の政治から政治主導の国民のための政治を実現し、年金問題はじめ後期高齢者医療制度や郵政民営化の見直し、所得、および地域格差の是正など山積する諸問題の解決に取り組んで、一刻も早く鳩山新首相の唱える友愛な社会の実現をもたらしてほしい。もちろん、対等な日米関係の構築や日本経済の活性化をもたらす施策の実施についても早急に着手してもらいたい。

追記 17日朝のテレビ・新聞の鳩山新内閣発足のドキュメントを見ていると、首班指名の決まった後、国会の議場で鳩山新首相が民主党議員一人一人と握手していたことと、就任会見でメモを見ずに自分の言葉で抱負を語っていたことがいままでにない光景だ、とテレビの解説者が言っていたのが印象的だった。それと、新大臣が就任会見で、「後期高齢者医療制度の廃止」(長妻厚労相)や、「八ツ場ダムの建設中止、および日本航空再建の有識者会議を白紙とする」(前原国交相)、「西川善文日本郵政社長に辞任を求める」(原口総務相)など当面する懸案をキッパリと処断していることに胸のすくような気分を味わった。いままでの新大臣就任会見のような抽象的な言辞でなく、なにかやってくれることを思わせる中身のある会見だった。
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漢字かな混じり文に日本語は世界に冠たるものである

2009-09-16 | Weblog
 先日、図書館で借りてきた99年版ベスト・エッセイ集で通訳者の故米原万里のエッセイ「漢字かな混じり文は日本の宝」を読んでいて、外国語に比べて日本語は表意文字となっているため、一瞬にして書かれた文章を読み取ることができる、と書いてあり、なるほどと思った。日本語は外国語と比べて繊細な表現ができて優れているとは思っていたが、表意文字なので字面を見て意味を読み取ることができるし、速読もできる利点があることを改めて思い知った。
 米原万里はロシア語の同時通訳者で、まずロシア語が英語、フランス語、ドイツ語と同じくラテン文字(ギリシャ文字)をお手本につくられたものの、馴染みのない形状の混じったキリール文字であるため、とっつき難いと思われている、と指摘する。東ローマ帝国の流れを汲むものであるが、それでも文字は大文字小文字あわせてもたかだか63であり、ひらがな、カタカナ50字に加え、5000文字前後にのぼる漢字を使いこなしている日本語とは比べものにならないくらい少ない。外国人にとって日本語を学ぶのは難しいと思われる理由はここにある。
 しかし、米原万里は表音文字である外国語に比べ表意文字である日本語の利点は黙読できる速さにある、と指摘する。ロシア語と日本語の黙読の時間を測ってみたら、日本語はロシア語の7.6倍も速く読み取ることができた、という。
 世界共通言語ともいえる英語の場合、アルファベット26文字しかないので、ロシア語より学ぶのはより簡単だろうが、黙読するには同じような時間がかることだろう。
 確かに英語を読む場合、字面を一文字づつ追っていかない限り、単語の意味がわからないし、単語を見てもイメージは沸いてこない。ところが、日本語の漢字は表意文字なので、文字面を見るだけで意味が通じてしまう。だから、日本語の場合、同音異義の言葉がいっぱいあるし、同じ漢字でも読み方(発音)が違うことがしばしば起きる。たとえば、「さびしい」という言葉でかでも寂しい、淋しいといったように表現の仕方があり、複雑怪異である。
 このエッセイを読んで頭をガツンと殴られたような感じを受けたのは日ごろ使っている日本語をそのように考えたことがなかったからで、読んでなるほどと思った。
 英米人は論理でものを考え、日本人は感情でものを考える、とよくいわれるが、その起源はこんなところにあるのかもしれない。英米人は単語の意味を文字をきちんと追うことで理解していくので、物事を曖昧に掴んでいく日本人とは相容れない部分が出てくることになるのだろう。日本人の思考が深まらないのも日本語の特性から来ているのかもしれない、とも思った。
 ということは外国語の小説を日本語に翻訳した場合、英米人が受け取っているニュアンスと日本人が受け取っているニュアンスとは異なることがありうるのではなかろうか。村上春樹が海外でも人気である、とい聞くが日本で受けているのとは違う点で人気となっている可能性がある。日本で受けている作家が海外では必ずしも評価が高くないことがよくある。
 日本語の起源でもある中国語も漢字を使用しているので、同じことが言えるのであろうが、中国語は英語と同じような文法を用いているので、構文上、日本語とは異なる特性を持っていることになるのかもしれない。機会があれば、そのあたりを研究してみたいものだ。
 いずれにしろ、日本語というものを改めて見つめ直させてくれた貴重なエッセイであった。こんな素晴らしい視点を与えてくれた米原万里が早世してしまったことは惜しいことである、とも思った。 
 
 
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軽井沢別荘訪問記

2009-09-15 | Weblog
 14日はM氏の誘いに乗って仲間3人と軽井沢に出かけた。M氏が軽井沢、といっても追分に別荘を買ったのは2年半前で、以来仲間と酒を飲む度に自慢そうに話すので、 そのたびに「ご披露がないからなあ」と茶かしていたら、ご招待する、ということになり、メールでやり取りして、1泊2日で行くことと相成った。ところが、セッティング終えた後に、急遽会議の予定が入り、鈍想愚感子だけ日帰りすることとなった。それもM氏と散々やりあって一時は招待そのものをご破産にするか、というところまで話はいったが、結局一人だけ日帰りすることに落ち着いた。
平日にも拘わらず結構な乗客数の長野新幹線・軽井沢駅に降り立つとひんやりとする。M氏の案内でまず、駅前の大賀ホールに行き、次いで駅近くの高級別荘地へ行くと前方の角に車が止まり、盛んに写真を撮っている一団が目についた。近寄って何事かと確かめると、そこはいま時の人の鳩山由紀夫新首相の別荘で、通りにも「鳩山通り」との看板が立っていた。早速「鳩山邸」をバックにおなじように写真を撮ったが、明後日の16日以降は さらに賑わいそうな雲行きだった。夕刻にM氏の別荘に着いてテレビを点けると、地元の長野テレビで早速、軽井沢の鳩山邸を紹介し、鳩山通りの標識の前で若い女性たちがスナップ写真を撮っているところを放送していたのには笑った。何回も軽井沢に来ているが、鳩山一族の別荘群があるとはついぞ知らなかった。
万平ホテルで軽い昼食を摂った足で、浅間山麓の鬼押出しに向かった。その手前に火山博物館なるものがある、というので行ってみると、広い駐車場にはほんのわずかの車しかなく、館内もガランとしていて、その前の土産物屋も閑散としていた。それでも女子店員が手持ち無沙汰に待機しており、可哀想なくらいだった。その横にはいまや廃墟となった展望台と人っ子の見当たらないバイク博物館があったのが不思議な感じだった。浅間山の噴火で危険地域とされて、すっかり寂れてしまったのだろうか、資源の無駄遣いというか、栄枯盛衰のさまを見せつけられたようで妙な感慨に襲われた。
そして、中軽井沢へ行く途中に星野リゾートに寄り、つい2カ月前にオープンしたばかりの「星野ハルニレテラス」をのぞいてみた。温泉トンボの湯や、村民食堂、ピッキオビジターセンターのある星野リゾートと小川沿いの小道と結んだ星野ハルニレテラスは黒をベースとした色調で統一されたミニショッピングセンターで、いかにも若い女の子が好みそうな品揃えした店があり、またひとつ軽井沢の名所が誕生した感があった。あれやこれや、何回も軽井沢に来ているひとつにもなんとか軽井沢を楽しんで貰おうとのM氏の気配りが伝わってきた。
で、夕刻にM氏の自称セカンドハウスなる別荘に赴き、まず自慢の温泉に入った。戸数140を超える世帯共通の温泉はちょっとした銭湯で、外気に当たっての行き帰りに難があったものの満足のいくものだった。M氏の別荘は築14年で、広さ78平方メートルで、価格は約1800万円だった、というが、温泉がついている分だけ買い得だったといえそう。軽井沢というブランドに魅せられての購入だったのだろうが、何事にもマメなM氏だからできることで、根が不精な常人にはなかなかできない芸当だと思った。
 行く前はあまり気乗りしなかったが、早めに引き揚げることができて、いい体験となった。タクシーでながの電鉄御代田駅へ出て、午後8時半過ぎ頃、軽井沢駅に着き、駅頭の温度計の電光表示を見ると摂氏14度ともう冬の一歩手前で、なぜか身震いがした。
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実績のない大江裕をゲスト歌手に迎えたNHKのど自慢

2009-09-13 | Weblog
 13日正午過ぎににいつも見るNHKのど自慢を見ていたら、奈良・大和郡山市からの中継で、出場者が一同に並んだあと、ゲスト歌手が紹介され、神野美伽と並んで大江裕が出てきたのには驚いた。大江裕は北島三郎の弟子で、歌手としてまだなんの実績もない歌手であり、番組の品位がぐっと落ちた感じがして、もうNHKのど自慢を見る気がしなくなって、スイッチを切ってしまった。
 大江裕はまだ歌手としてデビューしたばっかりで、つい数カ月前には同じ日曜日夜の明石屋さんまの司会するTBSの「さんまのスーパーからくりTV」で歌手の卵として度胸をつけるためか、太鼓叩きの職人に弟子入りし、強烈なしごきに遭っている様をコミカルに演じていた。歌手を目指しているので、歌はうまいのかもしれないが、社会人としてのマナーもなってなくて、太鼓の叩き方から体力づくり、挨拶の仕方をみっちり仕込まれ、地なのか、演技なのかわからないような笑いを誘っていた。その後、北海道の利尻島あたりをどさ回りしているところも同じ番組で放送していたが、歌はお世辞にもうまいと思うものではなかった。いずれもどちらかといえば、歌手よりもお笑い芸人向きではないか、と思わせる様子だった。
 ただ、北島三郎が歌の実力をい認めて弟子入りさせたことだけがTV出演の根拠となっているようで、歌も一昔前のおよそ一般受けしなさそうな感じで、歌手の仲間入りするにはまだまだ時間がかると思わせるものだった。
 それだけにその大江裕が派手な黄色の格子縞の上下を着て、のど自慢のゲスト歌手として登場したのには大いに驚きを感じざるを得なかった。一般の人からすれば、のど自慢のゲスト歌手ということは歌手の仲間入りしたことと同義と受け取られるからだ。
 どうせ、歌謡界の大御所である北島三郎が強引に押し込んで実現したのだろう。NHK側にも予定したゲスト歌手が急遽キャンセルしたようなやむを得ない事情があったのかもしれないが、北島三郎の「押し込み」に乗ってしまった。
 鈍想愚感子は歌はそれほど好きではないが、NHKのど自慢は出場者のパフォーマンスが開催地なりののキャラクターが出て面白いこともあって、毎週予定がない限り見ており、ゲスト歌手の出場者の歌に対するコメントも楽しみにしていた。大江裕はとても出場者の歌に対し、適切に評価できるとは思えないし、これまでのゲスト歌手陣の顔ぶれを一挙に下げたものになるのは間違いない。そして何よりも「NHKのど自慢」の番組そのものの品格を大きく下げたものとなるのは間違いない。
 NHKとしてはそろそろ年末大晦日の紅白歌合戦の人選に入らなければならない時期を迎えるので、北島三郎のごり押しに抗しきれなくなったのだろうが、少なくとも番組プロデューサーのプライドを下げるようなことはしてもらいたくなかった。
 芸能界というものは覚せい剤使用で起訴された酒井法子事件で特殊な世界という見方が広がっているが、今回の実績のない歌手、大江裕の扱いみたいにわけのわからない論理の通用する世界ということなのだろう。
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初秋の天の橋立行その3

2009-09-13 | Weblog
 3日目は雨のなか午前9時10分に奥城崎シーサイドホテルを出発し、香住駅近くの「かに市場」に行った。べにずわいガニのシーズン入りということで、威勢のいいおっさんが盛んに声を張り上げ、買い気を誘っていたが、カニの値段がよくわからないのといつまで経ってもカニは食べ方がうまくならないので、買うには至らなかった。それと雨の朝市というのもいまひとつ気分が乗って来なかった。
 次いで、JR香住駅から列車に乗り、2つ西寄りの余部駅まで行った。余部駅手前におそらく日本一高いことで有名な余部鉄橋があり、それを眺めることを楽しもうというねらいだったのだろうが、生憎の雨で半減してしまった。余部駅は駅員のいない無人駅で、ホームから鉄橋の下まで歩いて降りてくるようになっており、列車に乗り降りするのも大変である。もともと余部には駅は設けられておらず、地元の度々の要望で駅の設置が認められたが、そのための費用はすべて地元が負担した、という。それでも下から眺める高さ41.45メートル、長さ310.59メートル、トレッセル式としては日本最大の余部鉄橋の景色は壮観であった。
その後は但馬の小京都といわれる出石(豊岡市)に向かった。出石は応仁の乱を引き起こした山名宗全で有名な山名家が本拠を構えたところで、京都を思わせる碁盤の目のような街並みに昔ながらの日本家屋が立ち並び、懐かしさを感じさせる。そのなかを歩くと、日光江戸村に来たような錯覚さえ覚えてきた。
街のあちこちにはやたらと蕎麦屋が目立ち、電信柱より多いくらいだ。なんでも300年前に信州上田の仙石氏が国替えとなって着任した際に信州のそば職人を大勢連れてきたことから以来そばが名物となった、という。丁度お昼時だったので、そのなかの一軒の「花水木」なるお店に入り、名物の皿そばを注文したところ、5枚の皿に載ったそばとたっぷりのそばつゆ、それに生卵ととろろ、薬味がついてきた。これで850円也と東京では考えられない値段である。
あとは沢庵和尚が再興したと伝えられる宗鏡寺や、生糸を扱った豪商、福富家の住宅をそのまま伝える出石史料館を訪れた。史料館は主屋から離れ、土蔵まである立派なもので、出石が豊かな城下町であったことをうかがわせてくれた。バスガイドさんお勧めの近畿最古の芝居小屋、出石永楽館が貸切となっていて、なかの様子が見れなかったのは残念なことだった。
街を散策して出石焼きのかれいな光沢の小さな花瓶を購入したのと、但馬牛のお店で揚げ立てのコロッケを店頭でかぶりついて食べたところ、すごく美味しかったのが忘れられない思い出となった。
 これで3日間の旅は終わったが、今回は関西の京都・大阪の後背地である丹後、但馬地方をさらっと回ったことになるが、いずれの土地も豊かで、栄えていたことが十分にうかがえた。あとは今回の丹後海陸交通のバスガイドさんはキャリアが長いこともあって、よく地元の事情に通じた素晴らしい人だったのが印象に残った。
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初秋の天の橋立行その2

2009-09-12 | Weblog
 2日目は宮津ロイヤルホテルを午前8時20分に出発して目の下に見えた天の橋立に向かった。智恩寺でバスを降りて天の橋立に行くと、たまたま船が来て廻旋(はね)橋が回転して通行できない状態だった。船が通り過ぎると橋が90度回り、道がつながり通行できるようになった。足を踏み入れた天の橋立は砂州というより海浜公園といった感じで、思ったより大きい。すぐ右手に1643年に道学者の林春斎が松島と宮島と合わせて「日本三景」と名付けた、と書いた石碑が立っていた。
全長3.6キロ、幅は一番広いところで170メートル、狭いところで15メートルで、中央の道の両側には松がびっしりと立っており、さながら松並木の街道を歩いている感じとなってくる。見返りの松など様々な名前のついた松8000本あるというから驚きだ。数ある松のなかには枯れ死寸前のものもあり、養生して生き返らせる処置が施されている。天の橋立に観光に来る客は年間180万人にも上るというから、松並木の保存との名目で一人100円でも徴収すれば、ざっと2億円集まる。ただ、天の橋立は周辺住民の生活道路ともなっているようなので、そのあたりの調製をどうするかがカギとなりそうだ。
天の橋立の最大の売り物はケーブルカーで上がった傘松公園からの「股のぞき」なのだろう。伊勢神宮の元祖という元伊勢籠神社を通って登った傘松公園から、なんでも小野小町が初めて試みて広まった、という。股のぞきをするために手すりのついた台まで設けてある。海と空とが逆になり、天の橋立が空へかかる橋のように見える。天の橋立が遠く離れたところから眺めないと自然の妙を感じ得ないものだ、ということには変わりはない。
天の橋立をあとに丹後半島を一周する形で、まず伊根湾めぐりの遊覧船に乗って伊根湾を回遊した。乗客が投げる餌をねらってカモメがどこまでも追いかけてくるのと、海沿いにいまにも海に呑み込まれるのではないか、と思えるほどびっしりと家が立て並んでいる景色に見とれた。1階が船の倉庫となっており、すべての行き来を船で行っていることがうかがえる。その後は歩くと砂が鳴ることで有名という琴引浜に行った。バスを降りて砂浜に行き、歩いても「鳴る」といえるほどの音がしない。触れ込みとは違うのではないか、と思っていると、地元の案内人が砂を掬って山盛りにして、それを両手で握りしめると「キュッ」という音がした。砂に多くの石英が含まれていることと、不純物が含まれていないことが「鳴る」ことになっている、という。教えられた通り足を摺り足で歩いたら、砂が鳴るようになった。
 で、奥城崎シーサイドホテルに着き、早速、温泉に浸かろうと風呂に行ったら、期待の露天風呂は一人が入ったら満杯になるという小じんまりとしたもので、折角城崎温泉に来たのにがっかりとした。それを補うためか、午後8時に城崎温泉へのバスを出してくれる、という。約20分真っ暗な夜道をドライブし、城崎温泉郷に着いた。途中の寂しさが嘘のような賑やかな温泉街が現れ、やっと城崎温泉に来たという実感が湧いてきた。
 通りには浴衣姿の老若男女が行き交い、土産物屋や昔懐かしい射的屋、スマートボール、バチンコ屋があり、見ているだけで楽しくなってくる。外湯めぐりで7つの温泉に入れる仕組みとなっており、そのうちの「御所の湯」に800円也を払って入った。入口で見ていたら、城崎温泉に投宿している人はお金を払わずにフリーに入っていく。浴衣と下駄で見分けがつくようだ。迎えのバスが来るまでの間、一の湯横の足の湯に浸かったら、摂氏62.1度で非常に熱かった。で、中央に真ん中からお湯があふれ出していた石があったので、足を乗せたらこれも鉄板を思わせる熱さで、思わず足を引き離した。火傷をしたかと思えるほどだったので、横のトイレの手洗い場で足を冷やして事なきを得た。
それでも城崎温泉の昔懐かしい雰囲気だけは楽しむことは出来て満足だった。

追記 家に帰って、昔の日記帳を取り出して見てみたら、初めてと思った天の橋立に行っていたことが判明した。1965年8月15日だから、大学2年生の時に下関から日本海側を徒歩旅行しようとして、途中で足を痛め、断念して、汽車での旅行に切り替え、最後に天の橋立を訪れていた。日記には「砂洲をやたら歩いてもきりがない。海水浴場と化していると思うとつまらない。真ん中に道が通い、こう大きくてはかわいげがなくて、憎らしくなってくる」と書いていて、44年経っても感じるようなことは同じだったのは意外だった。
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初秋の天の橋立行その1

2009-09-11 | Weblog
 10日から近畿日本ツーリストのパック旅行「船で、列車で、歩いて感じる日本のふるさとぐるり丹後半島のんびり漫遊記」に乗って旅行に出かけた。天の橋立に行ったことがなかったのとゆったりとしたスケジュールに魅力を感じての参加だった。当初、8月のお盆前に行く計画を立てたが、急ぎの予定が入り、急遽この9月に変更した。新幹線新横浜から「こだま」に乗り込み、岐阜羽島駅で降りた。名古屋育ちでありながら、これまで岐阜羽島駅で降りたのは初めてのことで、駅頭に岐阜羽島駅を誘致した故大野伴睦夫妻の銅像がすっくと立っていた。駅周辺はいわれているほどの田畑ではなく結構ビルが立っていたのが意外で、それだけ時が過ぎたということなのだろう。
その銅像の前に丹海バスが待機していた。3日間行程をともにする、というこで、名神高速道から北陸道に向かった。まず、関ヶ原から長浜、姉川、賤ヶ岳とNHKの大河ドラマでお馴染みのところを通っていく。バスガイドが慣れた口調で次から次へと説明していくのを聞いて、これまで本やテレビで見てきた地名が親しみを持って心に迫ってきた。姉川の戦いで有名な姉川がこんなに小さい川であるとは思わなかった。姉川はじめ琵琶湖に注ぐ川はなんでも462もある、というから驚く。姉川は400年もの間に流域が変わったのかもしれない。
バスは敦賀から舞鶴に入り、舞鶴引揚記念館なる施設を見学した。第2次世界大戦終了時、海外にいた日本人は630万人いて舞鶴はじめ博多、など全国10 の港に引き揚げ、うち舞鶴には主にシベリアからの抑留者66万5千人が上陸した、という。バスガイドさんの説明によると、舞鶴に入港した470隻すべてを出迎えた地元の主婦タバタハナさんが最初に帰国した一団を国旗を振って出迎えた際、男とも女ともつかない真っ黒な顔で、しかも誰一人ニコッともせず、「ありがとう」との言葉もなかった、という。不思議に思って最後の人に聞いたら、突然泣き出した。事情を聞くと、なんと明日は上陸という前夜、女性を襲う集団が現れ、被害に遭った若い女性3人が甲板から身わ投げて死んだ、いう。それを聞いて一睡も出来なかった、とも語ったということたった。聞いているうちに涙が出てくるほどの悲しい話だった。
 舞鶴引揚記念館はシベリア抑留者の寒冷地での厳しい生活を思わせる展示がされており、説明員がその状況を詳しく説明してくれ、食料が確保できないうえ、南京虫、凍傷などに冒され、生死の境をさまよった、という。「岸壁の母」で有名な端野いせさんの紹介もあった。昔、かみさんの父親がシベリアに抑留されていたと聞いた記憶があるが、10年前くらいに亡くなっており、もっと話を聞いておくべきだったと思った。
で、ツアー初日は天の橋立の近くの宮津ロイヤルホテルへ泊まり、窓から天の橋立を眺めるだけで終わった。
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