prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「関心領域」(二回目)

2024年06月10日 | 映画
一回目に見た時は「あまりに見せなさすぎではないか」と書いたのだが、見落としているところ、聞き逃しているところはないか、再見してみた。
もちろん二度見てあらためて確認したところはある。走っていく列車の煙が遠くから見えるのは絶滅収容所にユダヤ人を運ぶ列車だし、歯磨き粉に宝石を隠したというのはチューブに入れた練り歯磨きではなく蓋式容器に入れた歯磨きなのに思い当たるという調子。
ただ基本的な不足感には変わりない。

つまり、大量に「処理」されているユダヤ人たちが「生きていた」ところが痕跡ですらほとんど描かれていない。
文字通りないものねだりなのだが、それでいいのだろうかとは思う。ユダヤ人を焼いた灰が川を流れてきて、懸命に風呂で子供たちを洗い流す情景が描かれても、アタマでそれとわかるに留まり、灰の元の人間の姿どころか、なぜムキになって洗っているのかとも実感としてはつかめず、心胆を寒からしめるというわけにはいかない。想像を絶するような大量虐殺が行われているうちに、想像力の方が息切れしてしまう。

個人を数、あるいは量としてカウントはするが、数や量を生き物としてのヒトに改めて還元しそびれているのではないか。

ジョナサン・グレイザー監督のこれまでの作品「記憶の棘」「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」を見た限りでは説明を排して緊張感を保つ文体の一方、裏に貼りついている暗示的な描写に具体や実体が案外乏しい。
少なくともエモーションには結びつかない。

隣がアウシュビッツというのは、慣れるとなんでもなくなる。住んでいる人間だけでなく、観客までそうなる。慣れるなと言われても慣れてしまう。人間はどんなことにでも慣れるものだ、と書いたのは「死の家の記録」のドストエフスキーだったか。
それを改めて恐ろしがるには手が足りない。

ラスト近く、階段の手前で立ちすくんだヘスの姿に、未来の(つまり現在の)アウシュビッツで展示されているだろうガス室やユダヤ人たちの靴や写真の前で掃除している掃除婦たちのフラッシュフォワードが挟まる。あくまで清潔に清掃するのを繰り返しているうちに、描写としては拭き清めすぎたのではないか。

あと、ときどき挟まる白黒のサーマル画面の意味がよくわからない。
マーティン・エイミスの原作読んでみるか。