prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「フェイブルマンズ」

2023年03月16日 | 映画
父親と母親がそれぞれ技術者と芸術家で、一見地に足をつけた生き方と夢を追う生き方、現実と夢の対立のようで、そうはなっていない。

この頃のコンピューター技術者っていうのはとにかくそれまでになかったものをどんどん作っていく時期でもあるし才能にもチャンスにも恵まれてたわけで、 それが結果として役に立つものになったとして、役に立つかどうかで仕事しているわけではない。
フェミニズム的な観点を強調しているわけではないが、この頃は女性は結婚したら家庭に入るもので、何らかの(たとえば芸術的な)才能を発揮して生きるのは難しかったことが大きいだろう。
一方良くも悪くも父親はキャリアが伸びていけばそれを追わないわけにはいかない、当人の意思というより伸び盛りの資本主義下の産業で活躍している人間にそれ以外の選択肢はまあありえない。
ただ映画はそういう構造を押さえてはいるが深入りはしない。

映画は機械、テクノロジーの影響がきわめて大きい芸術で(米アカデミー賞協会の正式名称は科学芸術アカデミーだ)、スピルバーグはキャリアの初期「ジョーズ」のあたりから機械力(あるいはその欠如)がどれだけ表現を左右するかを知り尽くしているのともつながってくる。

ジャド・ハーシュがやっている大伯父さん(母方の祖母の兄)は、最悪な人だと祖母に思われていたというフリがあって、やってきて帰ると、一見何事もなかったので母親は何で祖母があんなに怖がってたのか分からないなどと言う。
実は母親は気づかなくても非常に怖いものを息子にもたらしていた。
つまり芸術の才に恵まれるというのは一方で当人にとっても他人にとっても非常に危険なことになりうる、半ば呪いみたいなものでもあることを聞かせていたわけ。
ハーシュは出番は短いが、ぼくのおじさん的な(大伯父だが)他の価値観からの目を持ち込む存在として、圧倒的な説得力を出した。

スピルバーグが私生活では大きなトラブルを起こさずに70代半ば過ぎまでいられたのも何度か受けた戒めを守ってきたからかなと思ったりした。

サムをいじめる、いかにもスクールカーストのトップという感じの金髪イケメンマッチョがサムが撮影したフィルムで自分があまりに恰好よく撮られているのに逆に怖れあるいは畏れの色を見せるシーンが映像そのものの力が作者や被写体の意思を超えてしまう表現として秀逸。

写すつもりがなくてもフィルムに写ってしまったものを編集機でフィルムを進めたり戻したりしているうちに発見してしまうシーンは、ブライアン・デ・パルマの「ミッドナイトクロス」ばりで、実際キャリアの初期にはデ・パルマとスピルバーグとが私的にも親しかったことを思い出される。カメラがぐるぐる対象のまわりを回ったりするし。
フィルムの感覚が身体に染みこんでいる人たちというか。

冒頭で引用される実物の「地上最大のショー」の列車激突転覆シーンが、今の目で見ると(あるいは当時すでにか)はっきりミニチュアとわかるのだが、少年が本物の列車模型を使って激突転覆シーンを手作りしてしまうあたりの虚実の捻じれ方が何ともいえず面白い。

エンドタイトルにKODAK 35mm 16mm 8mmと全サイズがクレジットされていた。8mmなど新しく提供できたのだろうか。
考えてみるとスピルバーグみたいに8mmフィルムから最新デジタル技術まですべて使いこなしてきた映画作家というのは、その前もこれからもそうそういない。

後半、ユダヤ人であることで高校でいじめを受けるシーンは、それ自体も理不尽だし、いつも思うがキリストを殺したユダヤ人はけしからんなどと言うが、そのキリスト自身がユダヤ人ではないかとモヤモヤする。
話がとぶが、統一協会と安倍晋三とがズブズブであることが暴露されながら反韓感情に変わりなしでいられる連中の精神構造と似ているように思う。差別感情が先で理屈は後、ないしどうでもいい。

有名な既成曲がばんばん使われていて、スコット・ジョプリンのラグタイムや、エルマー・バーンスタインの「荒野の七人」など背景の映画がちらつく感じ。一方で母親が弾くピアノ曲はオーソドックスなクラシック音楽教育が見える。

なぜ「E.T.」でかなり唐突に「静かなる男」が引用されたのか、ちょっとわかった。





「ブラックライト」

2023年03月15日 | 映画
還暦からアクションスターになったリーアム⋅ニーソンが古稀になってから主演するアクション映画。

仇役も被害者も、登場人物のほとんどが全部 CIA の内部の人間というずいぶん狭い範囲の話。 
孫娘が出てきてこれが何か危機に見舞われるのかと言うとそういうえげつないマネは良くも悪くもしない、だったらなんで出したのかとツッコミいれたくなる安心して楽しめる、というかヌルい、午後のロードショー向けという気もする一編。

アメリカ映画だから、アクションシーンは一応見せます。





「逆転のトライアングル」

2023年03月14日 | 映画
富の偏在や美しい者と美しくない者のルッキズムなど複雑に埋め込まれたさまざまな格差の描き方がもう皮肉で辛辣。
冒頭から若さと美しさでは飛びぬけているチャールビ・ディーンが32歳で亡くなってこれが遺作になったというのが現実においてとんでもない皮肉になってしまった。

豪華客船に階級社会を見るのは「タイタニック」でもおなじみだが、今でもあんまり変わらないみたい。違うのは人種が多様化したことか。
一応主人公の前にあるモデルのカップルが養子とか 収入から言えば相当上の方ではあるのだけれども世界全体から行けば上の下 あるいは 中の上程度でしかない。 

船酔いによる嘔吐とトイレがあふれてそこらへん汚物だらけになる描写のしつこさ濃厚さには辟易するレベル。マルコ・フェレッリの「最後の晩餐」もびっくりで、それは同時に消費をひたすら続けたあげくのたらい回しになったツケの象徴に自然に

無人島では金持ちの持っているモノはほとんど無価値になり、生きる術を持っている者と力関係が逆転するまではそれこそセシル・B・デミルの「男性と女性 」1919の昔からリナ・ウェルトミュラーの「流されて」74を経ている現代的であると共に古典的なパターンとは言える。ただこれはさらにその先を行く。

何が昔と違っているかと言うと とにかく富の総量が桁外れに大きくなっている分、 世界の隅々まで資本主義で埋め尽くされているところで、 その分、意地の悪さがエスカレートした。

あるいはマルクス主義者だと自称する船長みたい相当ねじれた存在を打ち込んでくるあるいはロシアのオルガルフィ との会話などすごく皮肉が効いてる。





「ベルリン・アレクサンダープラッツ」

2023年03月13日 | 映画
原作「ベルリン・アレクサンダー広場」は1929年に発表されたおそろしく大部の小説で、刑務所から出た男がパチンコの玉よろしくあちこちに弾き飛ばされて結局元に戻るまで、ジョイスの「ユリシーズ」のような膨大な意識の流れ的記述でつづった小説で、前にファスベンダーが15時間テレビシリーズとして作っていた。

今回は海を渡るときに仲間が溺死したひとりになった移民(というか難民)のアフリカ系青年を主人公にした。
あちこちぶつかっては弾き跳ばされる繰り返しという点では原作の基本を生かし、現代化もしている。
同時に、原作では国内で渦巻いていたカオスが国境と人種を超えたということだろう。

彼を食いものにするアルブレヒト・シュッヘのクズっぷり演技が凄い。





「アラビアンナイト 三千年の願い」

2023年03月12日 | 映画
予告編からはジョージ・ミラーがおとぎ話を?という違和感があったけれど、見通すとこういう全体像を結ぶのかとかなり納得する。

お話、あるいは話すことそのものがテーマというか、願い事を扱った話にハッピーエンドがない(ジェイコブスの「猿の手」とかありましたね)のをきっかけに、魔神がシェヘラザードばりにさまざまなエピソードを話す。

願いというのが貪欲あるいはそこまでいかなくても不自然な欲望でなくて、魔神と生きていく欲望(ここでは愛と言われる)の方に入れ替わっていく話ということになるか。





「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」

2023年03月11日 | 映画
part 1がeverything part 2がeverywhere part 3 がall at onceと分かれてそれぞれタイトル文字が出るのだが、part 2と出た時、かなり時間が経った体感があったのにまだあとこれまでと同じくらいあるのかとぎょっとして、時計を見たら残り50分くらいだった。

139分の映画だから約3分の2は過ぎているのだけれど、それでもまだずいぶん残っているなと、かなりびびった。
構成をスタイリッシュにしたのが裏目に出たというか。

情報量の詰め込みと、その切り替えの編集の技術とセンス自体はすごい。ただし詰め込み過ぎて見ているこちらは途中から疲れて見ているこちらの方が消化不良気味になる。
いくつもの可能性に分岐して同時並行しながら行き来する世界観は、マルチバースという理由付けをしているけれど、むしろゲーム的に思える。

ただしゴールが良くも悪くもはっきりしない。もとよりゲームではなく実際の人生の話ではあるのだし、最終的には家族の話に落とし込まれるわけで、だから中国系という設定が意味を持ってくるのかもしれない。

アカデミー賞に絡む作品が東洋系の作り手と出演者で作られたというのが画期的で話題にもなっているが、考えてみるとこれお話あるいは構造としては中国系である必要がある世界観ではないのだね。

後半バカにカンフーシーンが続くと思ったら、エンドタイトルでプロデューサーにルッソ兄弟の名が。なるほど。
ただジャンル映画としてカンフーアクションを見せられるのと、カンフーをアートのアイテムにするのとでは爽快感が違う。

アカデミー賞発表は14日と明後日だが、どんな結果が出るか。





「水俣曼荼羅」

2023年03月10日 | 映画
曼陀羅とはよくつけたもので、一口に水俣といってもなんと色んな人がいるものかと思う。
患者だけでなくその家族、支援者、医師すべて。

これに対して驚くほかないのがそれに対する国や自治体の、のっぺりした官僚的で画一的な顔で、クライマックスの患者たちの怒りと、相対する役人とのすれ違いっぷりは絶望的なまでに酷い。
役人の態度が役割演技からとことん一ミリも出ない。また初めに判断した医者のメンツも絡んでくる。

前半の水俣病の有機水銀によるマヒは末梢神経ではなく脳に起きていたのではないか、だから患者によって症状がまちまちになったのではないかという(脳の発達デコボコによる発達障害がスペクトラムと言われるくらい多彩多様で分類が難しいのともおそらく近い)説を、許可してくれた患者の脳も解剖して立証する。
スモンにせよ末梢神経だと信じられていて脳そのものの障害だとわかっていなかった。

二本の針を並べて刺してみて一本と誤認するかどうかを調べるとか、襖に映写された脳地図とか、生の脳の断片、本物の脳ミソが意外と緑がかっているなど、実際に目で見える手作り感のある方法で説明したり調べたりするのが小川伸介の「ニッポン国 古屋敷村」の稲の生育の記録みたいなアナログ的なやり方なのが映画で見せるにはかえってわかりやすく、なんだかユーモラス。

脳の実物の標本が意外と濃い緑色。時間が経つとああなるのか。

水俣病の「風化」に、マスコミ特にテレビによる消費社会化が大きく影響している。NHKによるやらせがあったのが告発される。

先日、千葉県立美術館で催された江口寿史展に行ったのだが、水俣の恋愛の舞台としてのイラストがいくつも並んでいるのを見て、公的機関としては水俣病のイメージを払拭したいのだろうなと思った。
終わったことにしたがるのだな。

裁判を強引に幕引きにもっていく。
タテマえの上では三権分立といっても、実際には大きく見れば国家機関、国家権力であって、お仲間ということ。メディアもお仲間という構図が最近あからさまになってきたが、それは告発されてそうなったというより表沙汰になっても兵器と居直って居座っている結果。





「明日を創る人々」

2023年03月09日 | 映画
1946年東宝。監督はクレジット順に山本嘉次郎、黒澤明、関川秀雄。
戦時中の「虎の尾を踏む男達」と戦後の「わが青春の悔いなし」の間の、敗戦直後1945年12月に東宝で組合が結成された少し後の製作ということになる。

黒澤は自分のフィルモグラフィーにこれを入れておらず、荻昌弘のインタビューに対して、
「これはどうも、僕の作品とは言えないし、といって誰の作品とも言えないものだな。要するに闘争委員会が作った写真で、そういう形の作品はいかにつまらなくなるかといういい見本みたいなものだね。一週間で作り上げたものなんだがね。今でもメーデーの歌を聴くとこの撮影を思い出して眠くなってくる始末でね。まあ一週間で作ったにしちゃいい方かな」
と、にべもない。

実際見ていても、どこを誰が撮ったのかさっぱりわからない。黒澤調のワイプがときどき使われたりするけれど、だからといってここは黒澤と決めつけられるわけもない。
全編にわたって♪発て 全国の労働者と歌われ、映画会社、鉄道、ダンサーなどあらゆる業種の労働者の団結が訴えられる。こうやって見ると、日本戦後史とは労働者の分断と組合の解体と馴致化の歴史でもあるなと今さらながら思わせる。

お話らしいお話はなくて、薄田研二の父のもと 中北千枝子他3人の娘のいる一家があって、物価高に特に電気代高騰に苦しんでいて賃上げ要求を勝ち取るべく組合結成を呼びかけているのだが、父親が組合などに入る必要などないと頑固に反対する。なんでああ頑強に反対するのかよくわからない、会社に一体感を持っているかららしいのだが、あまりはっきりしないし、心変わりするあたりも説得力がない。

黒澤は映画界に入る前は共産党のレポ(連絡係)をやっていた時期があったがやめて、東宝争議でいったん東宝を離れて新東宝、松竹、大映を巡ったりした。組合活動にどの程度シンパシーを持っていたのかはっきりしないが、要するに芸術家的なエゴ優先ということだろう。

藤田進、高峰秀子がそれぞれ藤田、高峰という役名でクレジットされている。
それぞれ当人役といっていいだろう。
藤田は戦時中は軍人役や姿三四郎でならした人で、それがスタジオに入る時に吸っていたタバコを消す。大スターでも倹約にはげんでいるという表現。
ちなみに二人ともに46年10月の第2次東宝争議では組合側にも会社側にもつかず、争議から離脱する。

70年代初めの日活が共産党系組合主導で会社が売却したスタジオを買い戻して仕事場を守ったり、「戦争と人間」みたいな大作路線に行きかけて結局ロマンポルノに活路を見出したり、労組の委員長だった根本悌二が社長に就任したりといった経緯などそれこそドラマになるのではないか。労働運動から見た映画史というのも多分あるだろう。




「シドニー」

2023年03月08日 | 映画
アカデミー主演男優賞を初めて受賞し、アフリカ系俳優の地位に決定的な一歩を加えたシドニー・ポワチエに関するドキュメンタリー。

娘が殺される警備員の役を蹴るなど、家庭への影響を配慮し続けるなど、良くも悪くも優等生的で、それが公民権運動以降は微温的なものとして批判されることになる。

判事が黒人の生徒が通う「腐敗した」学校から白人の親は通わせるべきでないと「判事が」言うあたりの人種差別の根深さ。

「手錠のままの脱獄」でユダヤ人のトニー・カーティスと共演したわけだが、白人の中で差別されている立場のユダヤ人とアフリカ系との共演は、非ユダヤ人との共演より危険かもしれないらしいらしい。

俳優業が一段落してから監督に進出し、「スター・クレイジー」は一億ドルを超す大ヒットになったという。先日の「エンパイア・オブ・ライト」での登場はそれを踏まえての引用かもしれない。
その後も「ハンキー・パンキー」など主にコメディの監督として一定の成功を収めたわけだが、今だとあまり見られるのは少ない。

夫人のジョアンナ・シムカスが登場。ずいぶん久しぶりでしょう。





「別れる決心」

2023年03月07日 | 映画
予告編を見た感じでは崖から落ちて死んだ夫とその若い妻それと絡む真面目な男という図式から 日本映画の「妻は告白する」か、あるいは刑事が取り調べる女に個人的に取り込まれる「氷の微笑」みたいな感じなのかなと思ったら、まあ全然違っていた。

すくなくとも表面的にはどろどろとしたところがなく、男女共に表面的には極めてとりすました紳士的な関係が続く。

とはいえ、 だんだん微妙に歪みが入ってきて 特に編集で出来事の前後を入れ替えたりする手つきがちょっと独特で、どうやってこういう繋ぎ方をするのだろうと不思議になるくらい。

ラストのくくり方はどこからこういう発想出てくるかなというレベル。
中国人と韓国人というのは、日本から見るとどうもごっちゃにしてしまうところがあるけれど、おそらく全然違う。





「エゴイスト」

2023年03月06日 | 映画
LGBTQ理解増進法が国会で審議されるかされないとか同性婚は認められるかといった話題が現実で展開しているので、もっと「社会派」的な角度から同性愛を扱っているのかと思ったらかなり違っていた。

ゲイに対する偏見や差別といった要素が実はここにはほとんど表立っては描かれない。 だから通常の意味というドラマチックな要素はあまりない。
原作では故郷でひどい差別や偏見にさらされたのが東京に出て行って、ほとんど服の好みが違うくらいの感じで性的嗜好の違いを受け入れる集団に出会えた、という叙述がある。
その集団が具体的に出てきて、当たり前に溶け込んでいるところが描かれている。

母親というのが大きなモチーフになっていて、鈴木亮平が早くに母親を亡くしていて、途中から宮川氷魚の母の阿川佐和子がその代わりのようになる。
同性愛者には 子供は出来ないから バカ政治家には生産性がないなどと 中傷されたりもするのだが、ここでは かなり思いがけない形で 一つの家庭が誕生するドラマでもある。

松永大司監督は劇映画監督デビュー前にドキュメンタリーの「ぴゅ~ぴる」で性同一障害(これは製作当時の呼称で、現在のDSMでは「性別違和 」と呼ぶらしい)のパフォーミングアーティストのぴゅ~ぴる Wikiを追った経験があるのだが 実は筆者は同作を仮編集の段階で見ていて 、そこではぴゅ~ぴるの兄さんが出てきて衣装作りを手伝ったりしていたのが途中で結婚して家を出るので手伝えなくなるというくだりがあったのが、完成作ではばっさりカットしてあった。
代わりに入ったのが性転換(というのか)手術を受ける前後の逡巡したり悩んだりするくだりで、ここで手術の保証人として監督が(本名で)サインするくだりがある。
それだけ対象に深くコミットしたドキュメンタリーで、もともと高校の同級生を追うという契機から発展したのでなければなかなかありえない作りだった。

だから今回はもっとさらに深く性的マイノリティにコミットするのかと思ったら、逆に意外なくらい初めから特別扱いしない姿勢で一貫している。

カメラワークは全編ぴったりと対象に手持ちの長回しで俳優のアクション=リアクションを丸ごと撮っていて、ちょっとジョン・カサベテスを思い出したりもした(松永監督は俳優出身)。

セックスシーンではインティマシーコーディネーターを入れて撮影したそうで、ゲイのセックスというと一定のイメージがあるのだが、ここではそうはしていない。一見して男女のそれとあまり変わらない。




「ワース 命の値段」

2023年03月05日 | 映画
冒頭、マイケル・キートンが大学で学生たちに役割を割り振って事故死にあたっての補償金を計算させるくだりで、平気で女子に男役を、あるいはその逆を割り振り、良くも悪くも割り切って扱う人間であることが示される。
学生たちが東洋系含めて人種が多彩なこと、200万ドルという補償金をつけられた学生がそれだったら30歳までに稼げると豪語するなど一流大学なのだろうな思わせる。

9.11の犠牲者に補償金を出すにあたって政府が基金を作ってそこから金を出させ、手間と費用のかかる提訴を避けるのは、アメリカの基幹産業の一つである航空会社が全部いちいち提訴を受けていたら潰れてしまうから、という大企業優先の政策の産物であることが早々に示される。

前半のキートンはあくまで補償を導くための計算式を割り切って尊守して、犠牲者の家族ひとりひとりが持つ割り切れない思いはむしろ一々付き合っていたらきりがないと切り捨てているのだが、それが逆に遺族たちの態度を硬化させて一向に基金による補償案に同意する遺族のパーセンテージは増えないという皮肉な結果になる。

感情的にではなく基金案がどう誤っているか論理的について公のブログで意見を開陳する遺族のひとり(もう今や至るところに出てくる感じのスタンリー・トゥッチ)が「十二人の怒れる男」のE・G・マーシャル的な強力な対立者として登場してくる。このあたりの遺族側にも理屈っぽいキャラクターを立ててくるのがアメリカらしいというか。

この人物配置は逆にもできるので、むしろトゥッチの方を主人公にしてキートンの方を仇役に配するやり方の方がありがちにも思える。
その点、感動的にするよりロジカルであることをやや優先させていて、亡くなった男に妻以外の女性との子供がいてその分も補償するのに、その事実を妻に知らせるかどうかというサブプロットも、感情論より原則論を優先させた着地に持って行っている。

遺族たちのインタビューシーンはかなりあって、アメリカ映画の強みでそれぞれの顔がそれぞれの背景を背負っている厚みのあるキャスティングをしている。





「ボーンズ アンド オール」

2023年03月04日 | 映画
この場合のカニバリズムって何かのメタファーなのかそれとも文字通りなのか 判然としないところがある。ジャンル・ムービーとしてのホラーではないのは確かだろうけれど、そうでない要素をカニバリズムで描く必要があるのかどうかよくわからない。

若い男女の逃避行で当人たちにあまり罪悪感がなくて風景がすごくきれいってテレンス・マリックの「バッドランズ」っぽいところもある。

マーク・ライランスが一見ショボくれた爺さまかと思ったら凄く怖いところを見せたのはさすがという感じ。





「三人の兄弟」

2023年03月03日 | 映画
フランチェスコ・ロージ監督1981年作。「エボリ」と「カルメン」の間の製作ということになる。脚本トニーノ・グエッラ、撮影パスカリーノ・デ・サンティス、音楽ピエロ・ピッチョーニの鉄壁の布陣。

フィリップ・ノワレ、Michele Placido、Vittorio Mezzogiornoの兄弟が母の死を機に故郷に戻ってくる。
父親はシャルル・ヴァネル。

「エボリ」の後とあって静かな家庭劇なのかと思うと、ノワレが危険な裁判を抱えていて突然テロのイメージが割り込んできたりする。
ロージが戦闘的な社会派から古典的・叙述的な作風に変わってきている時期の作品ということになるか。
画面作りの見事な割に物足りない感じもするのだが。



「エンパイア・オブ・ライト」

2023年03月02日 | 映画
海辺の映画館でもともと4スクリーンあったのが上の2スクリーンが廃止されてガランとした空間になっていて、半ば廃墟になった喫茶店で窓の外に海が見えるという風景がとても魅力的。

最初の方で映画館でかかってる映画が「ブルース・ブラザーズ 」「オール・ザット・ジャズ」という組み合わせで 1980年に始まることはわかる。オールザットジャズは1980年のカンヌで影武者とパルムドールを分けあった。
写真↑は1981年の新年を祝う花火。

あと、「レイジング・ブル」「炎のランナー」などが上映され、特に「炎のランナー」は一種のイギリスの国民映画みたいな感じでものものしく上映されたらしいのがわかる。

オリヴィア・コールマンの白人中年女性と黒人青年マイケル・ウォード とのラブストーリーが軸になっているわけだけれども、これにサッチャー政権下の 保守化白人至上主義化が重なってくる。
当然、それは今の日本を含む世界に不幸にも通じてくる。

映画館を舞台にした映画なのだけれども その従業員を達が主人公なので 映画を見ているシーンってな実は皮肉にもほとんどない。

「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいに 映写室に映写機が1台しかないなどというポカをやっておらずちゃんと二台置いてあって、しかも フィルムチェンジのマークに合わせて 次の映写機を開始する手順をきちんと再現している。考えてみると、今まで見たことあったっけと思った。

かなり変なキャラクターが多い他の従業員のキャスティングと演技がそれぞれ見もの。

映画館の中で映画に溺れてる人間が主人公ではなくてそれを見せている人たちが主人公 で、それが一時的に映画に 溺れるところはひとつなくクライマックスになる。その映画っていうのがピーター・セラーズ主演の「チャンス」っていたらなんともニクい。

ヒロインが医者に炭酸リチウムを処方してもらっているという描写があるので 双極性障害 (昔の言葉で言う躁鬱病 )なのかなと思っていると後でソーシャルワーカーが 統合失調症 だという診断で応対していたというセリフがある。どっちなんでしょう。
ひどく情緒不安定なところを見ると、やはり双極性障害に思えるのだが。

フィルムチェンジで出てくる映画がジーン・ワイルダーとリチャード・プライヤー主演の「スタークレイジー」なのだが、白人と黒人のバディもので、しかも監督が黒人スターで初のアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー⋅ポワチエというのがひとつの暗喩になるのだろう。

ヒロインが様々な詩を朗読する中に行ってテニスンのが混ざっていたりする。
サム・メンデス監督の「007 スカイフォール」で テニスンの詩が重要な役を果たしていた。