prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ワース 命の値段」

2023年03月05日 | 映画
冒頭、マイケル・キートンが大学で学生たちに役割を割り振って事故死にあたっての補償金を計算させるくだりで、平気で女子に男役を、あるいはその逆を割り振り、良くも悪くも割り切って扱う人間であることが示される。
学生たちが東洋系含めて人種が多彩なこと、200万ドルという補償金をつけられた学生がそれだったら30歳までに稼げると豪語するなど一流大学なのだろうな思わせる。

9.11の犠牲者に補償金を出すにあたって政府が基金を作ってそこから金を出させ、手間と費用のかかる提訴を避けるのは、アメリカの基幹産業の一つである航空会社が全部いちいち提訴を受けていたら潰れてしまうから、という大企業優先の政策の産物であることが早々に示される。

前半のキートンはあくまで補償を導くための計算式を割り切って尊守して、犠牲者の家族ひとりひとりが持つ割り切れない思いはむしろ一々付き合っていたらきりがないと切り捨てているのだが、それが逆に遺族たちの態度を硬化させて一向に基金による補償案に同意する遺族のパーセンテージは増えないという皮肉な結果になる。

感情的にではなく基金案がどう誤っているか論理的について公のブログで意見を開陳する遺族のひとり(もう今や至るところに出てくる感じのスタンリー・トゥッチ)が「十二人の怒れる男」のE・G・マーシャル的な強力な対立者として登場してくる。このあたりの遺族側にも理屈っぽいキャラクターを立ててくるのがアメリカらしいというか。

この人物配置は逆にもできるので、むしろトゥッチの方を主人公にしてキートンの方を仇役に配するやり方の方がありがちにも思える。
その点、感動的にするよりロジカルであることをやや優先させていて、亡くなった男に妻以外の女性との子供がいてその分も補償するのに、その事実を妻に知らせるかどうかというサブプロットも、感情論より原則論を優先させた着地に持って行っている。

遺族たちのインタビューシーンはかなりあって、アメリカ映画の強みでそれぞれの顔がそれぞれの背景を背負っている厚みのあるキャスティングをしている。