prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」

2008年06月27日 | 映画
オリジナルでは百姓だった二人組を金鉱堀りと木こりという“山の民”にしたのがなんでもないようでかなり大事な変更で、侍と百姓のような支配=被支配という関係とは少し違い、侍=システム側に対するシステムの外にいる連中といったニュアンスが出る。山の民の火まつりには侍も手を出さない黙約がある、というあたりが典型。

「もののけ姫」が大ヒットしたため、侍=百姓の図式におさまらない山の民に親しみが出てきたのを取り込んだのかなとも思わせる。(宮崎駿は同作のノートで「七人の侍」があまりに偉大すぎて時代劇の社会の描き方を階層社会的なものに限定してしまったという不満を洩らしていた)

「裏切り御免」というオリジナルの決め台詞は、大物の侍が忠義そっちのけで敵味方の立場を飛び越えてしまう自由さの快感で忘れがたいが、ここで一番違う立場を行き来しているキャラクターはというと、雪姫なのだね。一族が滅びて姫から(いちおう)一般人へ、あるいは男から女へ、という振幅がかなりあって(呼び方も雪姫と雪と使い分けられる)、これはオリジナルのような素人とは違う、役者として手をかけて育てられてきた人にあてて役を書きこんでいる。
若者二人も、一方的に利用されるばかりでなく自分の意思で動いて立場を変える。
姫と下々の者とが触れ合うことで互いに得るものがあって別れる、というドラマは後で考えてみるとちょっと「ローマの休日」風。
長澤まさみは手足が長いので着物にくるまっているより男の格好をしている方がスクリーン栄えする。

この決め台詞をまた本歌取りみたいに違う文脈でまるで違う意味で生かしているあたり、ちょっとびっくり。
「御免」というのが開き直りでなくて本当にあやまっているのが、一度目は二人が接近するのに、二度目は別れるのに生きている。

実はまったく期待しないで見たのだが、台詞に限らずいろいろな要素を違う論理に当てはめて発展させているあたり、ずいぶん工夫している。ハリウッドが非英語圏の映画をリメークする時みたいに、オリジナルを焼きなおすのではなく小説やマンガなどの原作の一種としてマーケットに合わせて一から映画化するといった方法に近い。ここが違うあそこが違う反発もかいやすい方法だが、スジは通っている。
立ち回りにスピード感があまりなく、特殊効果に頼った感じが強いのは困りもの。
(☆☆☆★)


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