チャップリンの数少ない主演を兼ねない監督作。
初期短編群の大半でヒロインをつとめたエドナ·パーヴィアンスを主演に据えて製作脚本監督の裏方に徹した(冒頭にわざわざ自分は出演していませんという断りの字幕が出る)が、興業的には失敗して一時期封印していた作品。
併映の「のらくら」で監督脚本ちチャーリー·チャップリンと出たが、こちらではチャールズ·チャップリンとやや構えて出た。
田舎娘がパリに出て一年後にはいきなり金持ちの囲い者になっていて贅沢な生活に浸っている飛躍がすごい。
考えてみると、チャップリンくらい極端な貧困と極端な富裕の両方知っている人もいないのだ。
田舎で一度は結婚を語らった男が、駆け落ちしかけて父親を亡くしたので一緒に行くに行けなくなり、そのままヒロインは一人でパリに向かう。
男も母とパリに出て貧乏画家をやっているが、エドナの部屋の引き出しから男物のカラーが落ちる時の反応や、一年経ったというのにわざわざ父親の死をあてつけるように喪章をつけているあたりのいじいじした感じは、日本の貧乏文士みたい。
繰り返されるパーティ場面は、女たちを肩車したり宙に釣って風船をばらまいたりと、わが日本の品の悪い方のお座敷遊びや、バブルの乱痴気騒ぎを思わせる。国や時代は変われど、やることはたいして変わらない。
白黒サイレントと地味なはずのフォーマットだが、プリント状態が極上で、パーティの派手派手しさが伝わってくる。
一方でトリュフのシャンパン煮など、なんか(ヒドい言い方になるが)トリュフがウンコに見える。わざわざ金持ちとブタのためのものと字幕が出るのだから狙っているのだと思う。
アドルフ·マンジューの金持ちが女たちをやたらとっかえひっかえするが、昔のメイクアップだと顔が見分けにくいのとでかなり混ざる。
おそらく金持ちにとっては女など丁度や食事同様のエクスペンダブルなのだろう。
彼のオフィスというのがベッドで、枕元のテレタイプから吐き出されてくるテープを見ているところからして、株の売買で儲けているのだろう。
この映画の製作は1923年、(roaring twenty=咆哮する20年代)、最大にして最悪のバブルの端緒あたりか。
字幕翻訳·清水俊二とラストに出たのにびっくり(監修は大野裕之)。清水氏が亡くなったのは1988年ですからね。
1972年からのリバイバル「ビバ!チャップリン」の時の翻訳ではないか。
チャップリンの言葉で、喜劇はロングショットで見た人生で、悲劇はクロースアップで見た人生だというのがあるが、それを自ら証明しているみたい。
別に画面のサイズが変わるわけではないのだが、チャップリンという絶対の存在が抜けると自然に他の部分がアップになってくる。