二日つづけて
老母の居宅する介護ホームに
保険証類を届けてきた。
家の近所だが、
さすがに、脚が弱って、
プチ認知もあり、
我が家に帰りたいとも
駄々をこねないから助かっている。
おととしの夏は、
脳溢血で救急搬送されて
入院したときには、
翌日に家に帰ると
駄々をこねられて往生した。
永京寺の裏にホームがあるので、
ついでに、親友のマサヒロの墓参りもし、
石仏類が好きなので
撮影もしてきた。
親友には、
夏バテで体調不良なので、
霊界から何とかしてくれやー、
と愚痴と哀願をした。
生鮮食品のあるスーパーは
ホームと逆方向なので、
午前とはいえ、
炎天下を取って返すのは
難儀なので、近所のカワチで
冷凍食品の肉類・魚類で
間に合わせた。
隣接する青空八百屋では
生鮮野菜が買えたが、
見切り品のキューリを
100円で買ってきたら
どれもこれも
中が真っ白で「ナニこれ?」
という代物だった。
猛暑で結実しなくて
ヘチマみたいに
なってまったのだろうか。
なので、今日は
その100円キューリが
喰えなかったことに
文句を言ったら、
店主オヤジが
「すみません」でもなく、
「どれですか?」と
検品をはじめたので、
ダメだこりゃ・・・と、
呆れてサッサと踵を返した。
きょうび、
スーパーでさえ
翌日でも返金や代替を
してくれるものである。
もう、テメェんとこでなんか
二度と買わねーッ!!
バカーーーッ!!
ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ
・・・と、小心者なので
声には出さず、
内心ムカツキながら
炎天下をぽくぽく帰ってきた。
買い物散歩の帰途に、
側溝でツガイの
ハグロトンボを見つけて
いくらか機嫌が直った。
やはり、
生き物はいい。
心がなごみ癒される。
むかし、
生物学科に進み、
高校の生物教員なれたのは
とてもラッキーだったと
思っている。
その後に、
心理学に転向したことも
後悔はなく、
カウンセラーになれたことも
夢が叶ったわけである。
正規雇用から
非正規に変じて
収入も激減したが、
楽しくてやり甲斐いのあることを
やらせてもらっているのだから
それはそれで致し方がない。
カミさんが
公務員でなかったら、
とてもこの仕事だけでは
たつき(生計)が立たない。
***
羽黒蜻蛉 ---
学名「Calopteryx atrata」
(キャロプテリックス・アトゥレイタ)
カワトンボ科
翅に斑紋はなく、
雄は緑色の金属光沢があるの。
ホバリングはせず、
ヒラヒラと舞うように羽ばたく。
留まって羽根を休める際は、
立てた状態で四枚の羽根を重ねて閉じる。
幼虫(ヤゴ)は
体長22~26mmほどで、
体色は淡い褐色。
成虫は7~8月に多い。
藻などの沈水植物が茂る
緩やかな流れに生息。
羽化後の若い個体は
水域から離れて林の中で生活する。
昨晩は、初めて、
Tちゃん先生を自宅にお招きして、
第一回目の『宗教臨床セミナー』を
10時半頃まで、楽しく談論させて頂いた。
日々の雑談からはじまって、
しだいに信仰話、宗教論、
宇宙論、意識論、実在論、
果ては、焼き芋論となり(笑)、
楽しくも興味深い
ふた時半であった。
参考資料として、
還暦の誕生日に編纂した
今現在の思想的アンソロジーを贈呈し、
来月もまた、学際的アプローチで
ディスカッションできるのを
楽しみにしている。
大学院時代にも、
月に一度「雑談会」というのがあって、
やはり和やかに学問的なテーマを
ざっくばらんに話しあったり
時に激論を闘わせる
楽しいディベートの場があった。
人というものは
「楽しくないのは続かない」
というシンプルな真理がある。
「楽しくないのはストレスになる」
というのもエビデンス・ベーストの
真理である。
「わかる。おもろい。ためんなる」
というのが
知的愉悦を共有する場の
私的なメルクマールである。
これに添わない会合は、
学会やワークショップであっても
私的会合でも、
全部スルーすることにした。
だから、
「なんで最近、佐々木さん
来いひんのやろ・・・」
と人伝てに仄聞すると
「オモロナイからじゃッ!!」
と一刀両断、
けんもほろろに
内心で切り捨てている。
「和む心」「楽しむ心」「よろこぶ心」
というポジティヴな姿勢にこそ
生まれるものがある、
と信じている。
加えて、
「今ここ」で感謝すべき
すべてのことにお礼を言い、
どんなにささやかなことでも
心から全人的に味わって楽しめ、
というのが
尊崇した亡き師たちの
御教えである。
生まれてきた以上、
我が身と我が意識がある以上、
「今月、今日、今ここで、一心に
生を味わい、すべてに礼を言い、楽しむこと」
これは、3.11体験で
得た達観であり悟りである。
その英知と精神性をもって、
老年初期の発達課題である
「世代継承性」に今、
少しずつ取り組んでいる。
我が生の
「あるべきよふは」
という
河合先生から教えて頂いた
明恵上人の座右の銘を
常々、自己点検として
反芻しながら日々を過ごしている。
相手の「たましい」に届く
言葉というものは
「何を言うか」ではなく、
「誰が言うか」なのである。
ことに、宗教家や臨床家のような
生き死に関わる人間の言葉は
軽薄短小であってはならない。
この酷暑とも闘い、
老齢の身の不自由さと
持病の痛み苦痛とも対峙しながら
“自ずから然る”がごとく
先ず生きねばと思う。
いずれは、
完成寸前のプロセス途中で、
突然、消え去って「無」に帰し、
「あはれ」の美のなかに
埋没するのかもしれない。
「死ぬ用意をするな。
生きる用意をせよ」
という先師の御教えがある。
大袈裟でなく、
死期が迫ってる感じがあったので、
今一度、この御教えを
どう頂かせてもらおうか
思案している。
老母の居宅する介護ホームに
保険証類を届けてきた。
家の近所だが、
さすがに、脚が弱って、
プチ認知もあり、
我が家に帰りたいとも
駄々をこねないから助かっている。
おととしの夏は、
脳溢血で救急搬送されて
入院したときには、
翌日に家に帰ると
駄々をこねられて往生した。
永京寺の裏にホームがあるので、
ついでに、親友のマサヒロの墓参りもし、
石仏類が好きなので
撮影もしてきた。
親友には、
夏バテで体調不良なので、
霊界から何とかしてくれやー、
と愚痴と哀願をした。
生鮮食品のあるスーパーは
ホームと逆方向なので、
午前とはいえ、
炎天下を取って返すのは
難儀なので、近所のカワチで
冷凍食品の肉類・魚類で
間に合わせた。
隣接する青空八百屋では
生鮮野菜が買えたが、
見切り品のキューリを
100円で買ってきたら
どれもこれも
中が真っ白で「ナニこれ?」
という代物だった。
猛暑で結実しなくて
ヘチマみたいに
なってまったのだろうか。
なので、今日は
その100円キューリが
喰えなかったことに
文句を言ったら、
店主オヤジが
「すみません」でもなく、
「どれですか?」と
検品をはじめたので、
ダメだこりゃ・・・と、
呆れてサッサと踵を返した。
きょうび、
スーパーでさえ
翌日でも返金や代替を
してくれるものである。
もう、テメェんとこでなんか
二度と買わねーッ!!
バカーーーッ!!
ε=ε=ε=ヾ(*。>◇<)ノ
・・・と、小心者なので
声には出さず、
内心ムカツキながら
炎天下をぽくぽく帰ってきた。
買い物散歩の帰途に、
側溝でツガイの
ハグロトンボを見つけて
いくらか機嫌が直った。
やはり、
生き物はいい。
心がなごみ癒される。
むかし、
生物学科に進み、
高校の生物教員なれたのは
とてもラッキーだったと
思っている。
その後に、
心理学に転向したことも
後悔はなく、
カウンセラーになれたことも
夢が叶ったわけである。
正規雇用から
非正規に変じて
収入も激減したが、
楽しくてやり甲斐いのあることを
やらせてもらっているのだから
それはそれで致し方がない。
カミさんが
公務員でなかったら、
とてもこの仕事だけでは
たつき(生計)が立たない。
***
羽黒蜻蛉 ---
学名「Calopteryx atrata」
(キャロプテリックス・アトゥレイタ)
カワトンボ科
翅に斑紋はなく、
雄は緑色の金属光沢があるの。
ホバリングはせず、
ヒラヒラと舞うように羽ばたく。
留まって羽根を休める際は、
立てた状態で四枚の羽根を重ねて閉じる。
幼虫(ヤゴ)は
体長22~26mmほどで、
体色は淡い褐色。
成虫は7~8月に多い。
藻などの沈水植物が茂る
緩やかな流れに生息。
羽化後の若い個体は
水域から離れて林の中で生活する。
昨晩は、初めて、
Tちゃん先生を自宅にお招きして、
第一回目の『宗教臨床セミナー』を
10時半頃まで、楽しく談論させて頂いた。
日々の雑談からはじまって、
しだいに信仰話、宗教論、
宇宙論、意識論、実在論、
果ては、焼き芋論となり(笑)、
楽しくも興味深い
ふた時半であった。
参考資料として、
還暦の誕生日に編纂した
今現在の思想的アンソロジーを贈呈し、
来月もまた、学際的アプローチで
ディスカッションできるのを
楽しみにしている。
大学院時代にも、
月に一度「雑談会」というのがあって、
やはり和やかに学問的なテーマを
ざっくばらんに話しあったり
時に激論を闘わせる
楽しいディベートの場があった。
人というものは
「楽しくないのは続かない」
というシンプルな真理がある。
「楽しくないのはストレスになる」
というのもエビデンス・ベーストの
真理である。
「わかる。おもろい。ためんなる」
というのが
知的愉悦を共有する場の
私的なメルクマールである。
これに添わない会合は、
学会やワークショップであっても
私的会合でも、
全部スルーすることにした。
だから、
「なんで最近、佐々木さん
来いひんのやろ・・・」
と人伝てに仄聞すると
「オモロナイからじゃッ!!」
と一刀両断、
けんもほろろに
内心で切り捨てている。
「和む心」「楽しむ心」「よろこぶ心」
というポジティヴな姿勢にこそ
生まれるものがある、
と信じている。
加えて、
「今ここ」で感謝すべき
すべてのことにお礼を言い、
どんなにささやかなことでも
心から全人的に味わって楽しめ、
というのが
尊崇した亡き師たちの
御教えである。
生まれてきた以上、
我が身と我が意識がある以上、
「今月、今日、今ここで、一心に
生を味わい、すべてに礼を言い、楽しむこと」
これは、3.11体験で
得た達観であり悟りである。
その英知と精神性をもって、
老年初期の発達課題である
「世代継承性」に今、
少しずつ取り組んでいる。
我が生の
「あるべきよふは」
という
河合先生から教えて頂いた
明恵上人の座右の銘を
常々、自己点検として
反芻しながら日々を過ごしている。
相手の「たましい」に届く
言葉というものは
「何を言うか」ではなく、
「誰が言うか」なのである。
ことに、宗教家や臨床家のような
生き死に関わる人間の言葉は
軽薄短小であってはならない。
この酷暑とも闘い、
老齢の身の不自由さと
持病の痛み苦痛とも対峙しながら
“自ずから然る”がごとく
先ず生きねばと思う。
いずれは、
完成寸前のプロセス途中で、
突然、消え去って「無」に帰し、
「あはれ」の美のなかに
埋没するのかもしれない。
「死ぬ用意をするな。
生きる用意をせよ」
という先師の御教えがある。
大袈裟でなく、
死期が迫ってる感じがあったので、
今一度、この御教えを
どう頂かせてもらおうか
思案している。