生きるために死ぬ

 「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:23-26)

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 かつて教会に行っていた頃、自分はとても苦しかった。
 愛情の類にも飢えていた。
 だから私は、牧師にべったりと寄り添って離れなかった。この牧師こそ自分を助け出してくれるのだと。
 こうなると、その牧師にどんどん盲目的になっていく。
 ここから先は省略するが、この自分の経験から言うと、世に言う洗脳というのは、考えや思想の類を頭に刷り込まれることではなく、指導者への盲従に陥ることなのではないかと思う。
 まさに「神のことを思わないで、人のことを思っている」ということになる。
 言葉を換えると、これこそ偶像礼拝というのだろう。だからイエスは「下がれ。サタン」とペテロを叱った。

 つまり私は、自分が助かりたいので自分を守ろうとしていた。
 しかしイエスが言うことはその逆だ。
 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。
 生きるためには死ぬのである。
 死ぬ、というよりは、死がやってくるのであり、死がやってくるということは、未だかつてない苦しみがやってくるということである。
 ここにいう死とは、もちろん十字架の死、それから三日目の復活のことである。
 この救いへの道筋を、神の子イエスが切り開いてくれたのだ。

 上に、大昔の自分のしょうもなさについて書いた。
 今もしょうもないことはたいして変わりはないのだが、かつて牧師に盲従したような依存心の類はきれいになくなった。
 では自立しているのかというと、それも違う気がする。
 依存とか自立とかというより、よみがえった私は内住の聖霊に突き動かされているのだと思う。

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[一版]2018年 5月 3日
[二版]2022年 6月12日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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