誰が一番偉いかと競うのはしんどい割に何ももたらさない

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

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 大ベストセラー「星の王子さま」(サン=テグジュベリ)の主人公である王子さまは、数々の小惑星を巡る。
 その4番目の星は実業家の星で、私は有能な人間だと二言目には口をつく。
 「有能な人間だからな、私は」。
 「だが私は有能な人間だからな!」。
 この星をあとにして、「おとなってやっぱり、まったくどうかしているな」という思いが王子さまにこみ上げてくる(川野 万里子訳、新潮文庫版、pp.65-71)。

 それにしても、私たちは一体なぜ、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」とか、上の実業家のような有能自慢といった、他人と比べて秀でたところをことさらに求めるのだろうか。
 この問いに、イエスは小さい子どもを呼び寄せてこう応える。
 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」。
 もう少し踏み込むと、イエスを介して御父と和解するとき、私たちは子どもに変えられる。
 子どもに変えられるということは、人にとって何が大切なのかが変えられるということである。
 だから、だれが一番偉いかなんてどうでもよくなる。

 子どもに変えられて他人との比較をしなくなるので、この世にいても生きやすさと、それ以上に子どもらしい喜びがある。
 世の多くの人が仕事というか組織を中心に回っているが、私のような子どもは生を中心に回っている。希代の芸術家である岡本太郎も「闘いの人生を通過してきたのに、五歳のままであるというよろこび」(「自分の中に孤独を抱け」,p.54)と綴っている。
 このよろこびのない日々というのは死んでいる日々であり、死んでいる日々を嘆いたものがコヘレトの言葉(伝道者の書)である。よろこびとはコインの裏表に当たる。
 私たちは子どもに変わるのではない。子どもに変えられるのであり、このことを言い換えると、信仰はもぎ取るものではなく与えられるものである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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