『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』

 「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:12-16)

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 教会に通っていた頃、その教会の執事の方が、使徒信条の中でピラトが悪者扱いになっているのがずっと分からなかったが、最近それが分かるようになったと言っていた。
 大企業の管理職をしていたこの方を私は尊敬していたが、この話は違和感を覚えた。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ」と使徒信条にはあるが、ピラトはローマ法の上での罪をイエスには見出さなかったし、イエスの釈放に尽力すらしている。
 むしろ、祭司長たちの声のあまりの大きさに為す術がなくなってしまったように私は思っていた。
 だが当時私が分からなかったのは、私がまだ若かったからだ。
 使徒信条は、事の顛末をピラト一人におっ被せている訳で、こういうことはこんにちも日本中で世界中で行われていることだから、大変な立場にいた執事の方は使徒信条でのピラトの扱いを身に染みていたのではないかと思う。これが世というもので、世慣れない私もとてもうんざりする。
 しかしイエスはこの十字架で世に打ち勝ったのだ。世を超えたとも言えるかも知れない。
 私たちは世にいながら国籍は天にあり、世にはない本当の満足感をよく分かっている。
 私たちをお造りになった御父との和解は素晴らしく、そしてこの和解は十字架と復活のイエスの取りなしによる。そのためにイエスは正に今十字架に架かろうとしている。
 だからイエスは被害者なのではなく開拓者なのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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